手が呼ぶ
白菊
暗いところから
手が私を呼ぶのです。
私はどうしてか真っ暗なところにおりまして、その前のほうに、なにかひとつだけ、手が見えるのです。その手はこちらに指先を向けて浮かんでいて、おいでおいでというように、上に下に動くのです。
こんなふうにいっては不気味に感じられるかもしれませんが、私は不思議と、その手に恐怖だとか警戒だとかいうものを感じなかったのです。
──おいで。
そんな声が聞こえたような気がしました。
私は先に申しましたとおり、その手に恐怖だとか警戒だとかいうものを感じなかったものですから、その手の方のものと思いました声に対してもおよそ警戒というものをいだかず、そちらに寄ってゆきました。尤も、歩いているとか体を動かしているという感じはありませんでした。体の重みとか、いる場所のかたさ、あるいはやわらかさ、さらには自分の体の向きなんかというものの一切を感じておりませんでした。
とにかく、私はその真っ暗な中に浮かんでる手に寄っていきました。
それでもその手にふれたりすることはできませんでした。と申しますのも、なくなってしまったのです。手が見えなく、消えてしまったのです。
私は暗い中に取り残されて、けれどもどこか安らいだ気分になりました。一切の緊張が解けたような具合でした。
しーんという沈黙自体もまるで聞こえぬ、完全な静けさの中でございました。
──おきて。
また、声が聞こえたような気がしたのでございます。私は目を開けたつもりもないまま、暗さの中に肌を見つけました。手です。
手はやっぱりこちらに指先を向けて浮かんでいて、おいでおいでというように、上に下に揺れるのです。
私はそちらへ寄ってゆきます。
──くすっ。
小さく、笑うような吐息が聞こえたようでした。手は私の見ている先で、おいでおいでというように揺れています。
ふっと手が離れてしまうように感ぜられて、私は自分の手を伸ばそうとしました。けれども、それができませんでした。私は自分の体を意識することができないのです。夢でも見ているような具合でして、体を動かそうにも気持ちが昂るばっかりで体のほうがまるっきり動かないのです。
早く早くと急くうちに、また手が見えてきました。そしてやっぱり、ふっと離れてしまう。
私はまたそちらへ向かいました。
──おいで、ねえ、こっちに。
私にはもう、その手を追うことばかりが目的になっておりました。
──きて、はやく、こっち……。
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