ホースエンドガール

五野真丹歌

第1話 馬生

 台風のせいで電気も通らない家の中、半年ぶりに家に顔を見せたお父さんと疲弊したお母さんと私、三人の重苦しい時間が流れていた。

 お父さんは自分の持ち家を心配しながらも、目を合わせようともしないお母さんの顔を見ながら『離婚しよう』と言った。どこまでも空気が読めない男だ、そう思ったのは私も含まれる。

 そもそも、お父さんは自己中心的な思想が昔から激しく、他人に使われることが嫌だからといって経営知識もないまま自分で起業して塗装工を営んでいた。当然、経営状況は悪化の一方で家計も貧乏と言わざるを得ない状況だった。それでも、お父さんは趣味の競馬を捨てられずに、毎週土曜日と日曜日の夕方になればテレビの前で猫背でおっさん座りをして中継を見ていた。ずっと、ぼやきが止まらなかった。

 お母さんが『当然そのつもりよ』と頷き、十秒も断たないうちに話に結びがつくとお父さんは何も言わずに家から出ていく。そこから母の愚痴が我慢のゲートを突き破った。

「何も今更来なくたっていいでしょ。そんな話、停電が終わってからでも十分できるのに……腹立つわ」

 停電は昨夜から起きて、復旧の見込みがない状況に変わりはない。それをわかっていたかのようなタイミングは嫌がらせとしか思えなかったのだろう。私は『仕方ないよ、そういう人じゃん』と中央に置かれた無音の携帯ラジオを無のまま見つめた。

 

 それから半年後、停電があったことが世の中の頭から忘れ去られた頃に私は友人の相沢イツミとスキーを楽しんでいた。引きこもりで鈍っていた体は、まだ高校時代に行った修学旅行の経験が残り、何の抵抗もなく、ただ傾斜のある雪面を勢いよく蛇の道に下った――その時だった。

「メイ、危ないっ!」

 薄らと聞こえたイツミの悲鳴混ざりの声を背に、私の体はあっという間に奈落へと落ちた。体が雪面から離れた時、裂けそうな風の音が耳を凍らせ、頭を真っ白に染めた。そして、もう一度雪面に叩きつけられた瞬間に、激しい痛みが走り、意識が遠のいた。

 最初から、人間なんかに生まれてくるんじゃなかった。

 いっそのこと、お父さんとお母さんに殺されたかった。

 いつも悔いてばかり、最期も後悔の念を抱いた。すると、音の無い世界にどこか聞き覚えのある足音が少しずつ、大きくなる。体から痛みがなくなり、伏せた体を起こして両膝をついた姿勢で辺りを見渡す。

 真っ白な世界で、足音の正体は視界に映らなかった。その時、背後から何か威圧的な気配を感じた。肩に力が入った勢いで振り返ると、何度も目にした葦毛の馬が至近距離で驚いて仰け反る私を宥めるような目で見ている。

「すまない、驚かせてしまって」

 馬が喋った、貫禄のある低い声で少し鼻を下ろすその光景は夢だと、すぐさま頬をつねった。痛くない。しかし、死んでいるのだから痛覚が無くて当然だ。馬は、じっくりと私の姿を見ているが、どこか哀しさを滲ませる目をしている。誰なのかを問うと、馬は白一色の天を見上げた。

「私は、ただの馬だ。誰にも愛されず、ただ人間に子機として扱われた馬だ」

 言っている意味が分からなかった。人間に愛されない馬なんて、私の知っている世界にはいないはず。動物園や牧場にいる馬たち、それにお父さんが愛していた競走馬たちなんて、アイドル顔負けの愛を受けていたのだから、誰にも愛されなかったことはないと否定的に感じた。

「信じてもらえなさそうだが、聞いてほしい。私は人間の戦いのために走り、家族にも触れさせてもらえない。言ってしまえば、奴隷のようなものだ」

 歴史の授業でしか耳にしたことがない言葉が、自然と彼の生きた世界を仄かに想像させた。まるで別次元の話だと、身体は固まったまま少し震えた声だけが漏れた。

 馬は私を見て、さらに鼻を近づけてつんと鼻を突いた。思わず『ひいっ』と、小さく驚きと恐怖を露わにしてしまう。それっきり、馬は何も言葉を発することなく、尻を向けてゆっくりと去っていった。

 何も悪いことはしていないはずが、襲う罪悪感に呼び止めの言葉が頭に浮かんだ。

 待って。

 しかし、口が動くだけでその言葉は音にならなかった。


 目が開くと、そこはいくつもの色で構成された世界が広がっていた。どこか懐かしく、小窓から差す日差しが照らす木造の小屋の中で眠ってしまっていたらしい。

 体を起こしてみる。あの時襲っていた痛みはなく、手を離して立てそうだ。しかし、手がなかなか離れない。離そうとしても、地面に強い磁石でも敷かれているのか、離せない。

 いっそのこと、地面を強く押してみた。ようやく離れた。しかし、重心が安定せず、整えようとする反動でバランスを崩して背中から藁の山に激しく倒れ込んだ。その瞬間『痛い!』と声を出したつもりだった。

「ヒーィッ!」

 この悲鳴を聞いた農家のような男が小屋に駆け込んできた。倒れで汗を拭いながら、藁を被った私を見て駆け寄る。

「おい、大丈夫か!? なんでそんなだらしない姿になっちまったんだ?」

 男は背が低く小太りで、屈もうとすると少し後ろに仰け反りながらも体勢を整えた。こんな男に『だらしない』と言われると、何だか腹立たしく感じて無意識に睨んだ。そこへ、視界に映り込んだ木の枝のような二本の脚が見えると目から力が抜けた。

 胴体は栗毛で、辺りを見回すと一切目も向けない馬たちが小屋の中を歩いていた。状況が追いつかず、自然ともう一度悲鳴が上がった。

「わかったわかった、痛かったろうに、ほら落ち着け」

 男は駆け寄って四本の脚をばたつかせる私の体を宥めるような手つきで摩る。妙に落ち着いた様子の男に思わず、動きがぴたりと止まった。

「よし、もうすぐ食事だからおとなしく待ってろ」

 呆れた顔をするわけでもなく、ただ笑顔を絶やさずに男は食事の準備のために一度小屋から退出した。

 まだ夢の中にいるのではないか、そう思っても一向に覚める気配がしない。ゆっくりと体を起こして立ち上がり、頭を振る。周囲を歩く数頭の馬は漸くちらりと目を向けながらも、こちらに気を向ける様子もない。

 体重が人間の10倍近くあるせいか、一歩踏み出そうとするとまた倒れそうな予感がしてじっと立っているだけで精一杯だ。脚が震えているせいで、その震えが全身に伝わって興味もないような馬達から急に視線を浴びるようになった。

「おーい、ごはんだぞ。戻ってこい」

 男が声を張って呼びかけると、視線が外れてゆっくりと小屋を出ていく。留まっているわけにはいかない、ゆっくりと右の前脚を出してみる。すると、自然と左の後ろ脚が地を蹴って歩きだした。人間でいう、右手と左足がついたままの姿勢で腰を痛めそうな気がするが、数歩歩くだけで慣れた気で満ちた。

 ほかの馬達は空腹のせいか、私を置き去りにして先に小屋を出たが、一頭だけこちらを見たまま出口で止まる黒毛の馬がいる。数秒、目が合った状態で何も声を発さずにいると、視線を逸らして先に歩いて行った。どこか目をつけられた気がして、少し怖くなった。

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