第26話




アネモネの花弁が、風に揺れた。

深紅の影が、足元で重なる。


殿下は、すぐには答えなかった。


その沈黙は、私を測るためのものではない。

噂をどう扱うべきか、答えを選んでいる――そんな間だった。


「…正直に言おう」


静かな声だった。


「僕は、噂で人を判断しない」


短い言葉。

けれど、その響きははっきりしている。


「噂は便利だ。誰かを理解した気になれるし、責任を負わずに結論を出せる」


視線が、まっすぐこちらを捉えた。


「だが、それで人を断じるのは、僕のやり方じゃない」


胸の奥が、わずかに波打つ。


否定も、擁護もない。

ただ、自分の在り方を語っているだけ。


「それに……」


殿下は、一拍置いた。


「君の妹の言葉もあるしな。迷いない否定だった」


殿下の声は、淡々としていた。


―――余計なことを。


胸の奥に、熱とも痛みともつかないものが広がる。


守られるつもりは、なかった。

まして、あの子の言葉が誰かの判断材料になるなど。


「だから僕は、噂と、彼女の言葉、その両方を聞いたうえで……」


殿下は、静かに結んだ。


「今はまだ、君を"決めていない"」


その言葉は信じても、疑ってもいない。

距離感が、ひどく誠実に思えた。


「……では」


私は、ゆっくりと息を整える。


「殿下は、これから判断なさるのですね」


一歩も退かず、一歩も踏み込まず。


「噂ではなく、ご自身の目で」

「ああ」


即答だった。

アネモネの間を、風が吹き抜ける。


これは弁明でも、裁きでもない。


――互いに噂を脇へ置き、"人"として向き合おうとしているだけの時間だった。



アネモネの間を抜ける風に、別の気配が混じった。

足音はまだ遠い。けれど、私はそれが誰なのかを迷わず悟る。


――来る。


殿下は、まだ気づいていない。

だからこそ、今だと思った。


「……殿下」


名を呼ぶと、彼は視線をこちらへ向けた。


「そろそろ、失礼いたします」


理由は添えない。

必要がないと、思ったからだ。


殿下は一瞬だけ、何か言いかけるように唇を開き――そして、何も言わずにそれを閉じた。


その沈黙に、妙な誠実さを感じる。


「本日は、お時間をいただきありがとうございました」


深紅のアネモネの前で、私はゆっくりと身を屈める。

動作に迷いはない。形ばかりの礼ではなく、区切りとしての礼。


「ご判断は……殿下のお心のままに」


顔を上げると、殿下の目が静かにこちらを見ていた。

引き止めるでもなく、追うこともなく。ただ、見送る視線。


―――それでいい。


私は一礼して、踵を返す。


背を向けた瞬間、花の香がふっと薄れた。

小道を外れるたび、深紅は視界から遠ざかっていく。


振り返らない。

振り返ってしまえば、この場に留まる理由を…探してしまいそうだったから。


足音が近づく。

控えめで、急がない歩幅。

すれ違う直前、柔らかな声が聞こえた。


「……お姉様」


その声に、足を止めることはしなかった。


立ち止まれば、応じてしまう。

応じれば、ここに留まる理由を与えてしまう。


それは――私が選ぶべき道ではない。


「……失礼」


それだけを、静かに残す。

振り返らず、感情も添えず、ただの挨拶として。


背後で、空気がわずかに揺れた。

驚きか、戸惑いか、それとも――安堵か。確かめる必要はなかった。


小道を外れ、庭園の入口へ向かう。

深紅のアネモネは、もう視界に入らない。


花の香りが完全に途切れたところで、ようやく息を吐いた。


―――これでいい。


私はルミナが守られる世界の、影になる。

それが、私の選んだ立ち位置だ。


背後では、きっと殿下が立ち尽くしている。

そして、彼女が微笑みながら歩み寄るのだろう。


噂が望む通りの構図。

誰も疑問を持たない。正しい並び。


私は、それを壊さない。


足取りを乱さぬまま、屋敷へと戻る。

もう一度、アネモネの庭を振り返ることはなかった。


―――ここで交わした言葉は、いつか殿下自身の中で答えになる。


そう信じるには、十分すぎるほど、静かな時間だったから。




――――――


部屋の扉を閉めた瞬間、外の気配がすべて遮断された。


静寂。

ようやく、私だけの空間だ。


背中を扉に預けることはしない。

そんなことをすれば、弱さを許してしまいそうだったから。


ゆっくりと部屋を横切り、窓辺へ向かう。

カーテン越しに差し込む光は柔らかく、庭園ほどではないが、どこか似た色合いを帯びていた。


私は椅子に腰を下ろし、手袋を外す。

指先が、わずかに冷えている。


―――緊張していたのか。


今さら気づく事実に、内心で自嘲する。

あの程度の会話で、動揺するほど未熟なつもりはなかった。


それなのに。


「……判断しない、か」


小さく呟いた声が、部屋に溶けた。


噂で人を判断しない。

ルミナの言葉も聞いたうえで、なお決めつけない。


それは、とても簡単そうに聞こえて――

実際には、ひどく難しい態度だ。


人は、安心するために噂を信じる。

理解した気になるために、物語を欲しがる。


私自身が、その被害者なのだから。


それを、彼は拒んだ。


正義感ではない。同情でもない。

ましてや、庇護などでは決してない。


「……厄介な人だわ」


思わず、苦笑に近い息が零れる。


――もし彼が、冷たい人間だったなら。

――噂通りの距離で接してくれたなら。

私は、何も考えずに済んだ。


けれど彼は測りながら、線を越えない。

近づかず、離れもしない。


その態度は――

こちらに、考える余地を残してしまう。


椅子に肘を置き、視線を落とす。

深紅のアネモネが、脳裏に浮かぶ。


あの花の前で、彼は私を見ていた。


悪女としてでも、

婚約者の姉としてでも、

噂の主役としてでも…なく。


"ネメシア・ルーインハイト"という、一人の人間として。


―――だから、だめなのよ。


私は、心の中でそう切り捨てる。


知ってはいけない。

理解されてはいけない。


私はもう、役を選んだ。

悪女として立つと決めた以上、誰かに正しく見られることは、不要だ。


……それでも。


もし、ほんの少しでも判断が遅れていたら。

もし、あの場で彼がもう一言、何かを言っていたら。


私は――

あの庭園に、留まってしまったかもしれない。


「……ばかね」


静かな部屋で、そう呟く。


未来を揺らす相手ではない。

揺らしてはいけない相手だ。


それを理解しているからこそ

あの視線が、あの沈黙が、こんなにも後を引くのだろう。


私は立ち上がり、カーテンを閉めた。

光が遮られ、部屋は少しだけ暗くなる。


深紅の花も、薄紫の瞳も、

すべてここにはない。


―――忘れなさい。


自分にそう言い聞かせながら、私は今日という一日を、静かに胸の奥へ押し込めた。


それが、正しい選択だと信じるために。




―――――――――




庭園には、静けさが残った。


深紅のアネモネだけが、何事もなかったかのように風に揺れている。

先ほどまで、確かに立っていたはずの存在が、嘘のように消えていた。


――ネメシア・ルーインハイト。


噂の名。悪女と呼ばれる女性。

妹に毒を盛ったとされる、冷酷な姉。


けれど。


「……妙だな」


口に出して、ようやく自覚する。

自分が見た彼女は、噂と一致していなかった。


弁明しない。否定もしない。

怒りも、悲嘆も…見せない。


ただ、線を引いて立っていた。

踏み込ませないが、拒絶もしない――そんな距離の取り方。


決めていない。

そう言ったのは、自分だ。


だがそれは同時に、彼女を簡単に切り捨てられなかったという意味でもあった。


噂で人を判断しない。それは信条だ。

だが信条というものは、守られているうちは簡単に思える。

揺さぶられた時にこそ、本当の重さが分かる。


深紅の花の前で見たあの後ろ姿。

あれは、誰かに理解されることを前提にしていない人間の立ち方だった。


「ユリウス殿下?」


ふと、聞き慣れた声が聞こえた。

僕は声のする方を向く。


「……ルミナ令嬢」


名を呼ぶと、彼女は小さく微笑んだ。

庭園に似合う、柔らかな笑み。


「お話は、終わったのですか?」


探る響きはない。

けれど、何も知らないふりをするほど無邪気でもない。


「……ああ」


短く答えた。

それ以上、付け加える言葉が見つからなかった。


彼女の視線が、アネモネの花壇へと流れる。

深紅の花を見て、ほんの一瞬だけ瞬きが遅れた。


「ユリウス殿下」


ルミナ令嬢が、こちらを見上げる。


「…お姉様のこと、どう思われましたか?」


直球だった。

だが、詰問ではない。答えを強要する声でもない。


僕は、すぐに答えなかった。

思った以上に胸の奥へ沈んでいく。


「……判断は、まだだ」


そう答えるしかなかった。


ルミナ令嬢は、少しだけ目を細める。

怒りでも、不満でもない。


「ユリウス殿下は」


彼女は、少しだけ間を置いてから口を開いた。


「……お姉様を、噂通りの人だとは思っておられないのですね」


直球だった。

確かめるような問いでもない。


ただ――

そうであってほしい、と願う声だった。


僕は、否定も肯定もせずに、静かに息を吸う。


「噂は、事実の一部を切り取ったものにすぎない」


そう前置きしてから、続けた。


「少なくとも、今日見た彼女は……誰かを害するために立っている人間には見えなかった」


それは、取り繕った言葉ではない。

あの場で感じたままの実感だった。


ルミナ令嬢の方から、ふっと力が抜ける。

分かりやすいほどの変化に、思わず視線を留めた。


「……よかった」


小さく零れた声。

胸にしまい込んでいた息を、ようやく吐き出したような。


「ユリウス殿下が、そう言ってくださるだけで……」


言葉は途中で止まった。

けれど、そのさきは容易に想像がつく。


―――守られたかったのだ。姉が、噂によって一方的に裁かれることから。


「お姉様は…強い人です」


ルミナ令嬢は、花壇を見つめながら続ける。


「でも、強いからといって、傷つかないわけではありません」


その言葉が、胸の奥に引っかかった。


強い人間ほど、弱さを見せない。

そして見せないからこそ、理解されにくい。


庭園での彼女の姿が、鮮明に思い出される。

踏み込ませない距離。拒絶しないが、期待もしない立ち方。


――理解されることを、最初から想定していない人間。


「……彼女は」


気づけば、口が動いていた。


「誰かに守られる前提で、生きていない」


ルミナ令嬢は、驚いたようにこちらを見る。

だが、すぐに小さく頷いた。


「……はい」


肯定だった。

その瞬間、胸の奥で何かが静かに軋む。


判断しない、と言った。だがそれは、本当は――

判断できない、に近づいているのではないか。


噂を退けたつもりで、物語を拒んだつもりで

それでもなお、彼女という存在が、確実に心の中へ入り込んできている。


これは、危うい。


王太子としては。

立場ある者としては。


「ユリウス殿下」


ルミナが、柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます」


その礼は、安堵が確かにそこにあった。

僕は短く頷く。


「……当然のことだ」


そう答えながら、自分が"当然"で済ませようとしている感情の正体を、直視しないようにした。


庭園には、もう彼女はいない。


それなのに。

彼女が残した沈黙と距離感だけが、この場に妙な重さを与え続けている。


―――次に会うとき。


その時も、同じ距離でいられるだろうか。


判断しない、という言葉の裏に、これ以上の意味が生まれてしまわないか。

自分自身に初めて問いを向けながら、僕は再び深紅のアネモネから目を逸らした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪役令嬢の願い なむそ @namuso_1111

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画