第24話




真実よりも、噂のほうが足が速い。

とりわけ――人の悪意を含んだ話ほど。


「聞いた?」

「ええ……例の地下牢の件でしょう」

「侍女が一人、処分されたって」


廊下の隅で生まれた声は、壁伝いに広がっていく。

ひそめられたはずの囁きは、いつの間にか形を変えていった。


「ネメシア様が、直々に命じたそうよ」

「やっぱり…ルミナ様への嫉妬が原因なんですって」

「侍女を使って毒を盛らせたけど、失敗して――口封じ」


誰かが息を呑み、誰かが納得したように頷いた。


「……恐ろしい方ね」

「公爵令嬢って、ああいうものなのかしら」


真実かどうかなど、もう誰も気にしていない。

"それらしく聞こえる話"であれば、それで十分だった。


そして、必ず最後に添えられる。


「―――でも、ルミナ様は本当に聖女だわ」


清らかで、誰からも愛される存在。

その立ち位置は、疑われることすらない。


代わりに――


「ネメシア様は……」

「…悪女、よね」


その一言で、すべてが定まる。


噂は、私の知らないところで完成していた。


別邸へ戻る途中、廊下の角で足を止めたのは、偶然だった。


「……ネメシア様、最近は本邸にも戻られないそうよ」

「顔を見たくないって方も多いでしょうね」

「当然よ。あんなことを―――」


それ以上は、聞かなかった。


足音を殺して立ち去る必要もない。

私がそこにいると気づいた瞬間、声は勝手に消える。


――ああ。


私は、胸の奥で静かに息を吐いた。


思ったよりも、早い。けれど、想定通りだ。


侍女を処分した公爵令嬢。

ルミナに嫉妬し、毒を盛らせ、失敗したから切り捨てた悪女。


誰もが納得できる、分かりやすい筋書き。理解しやすい物語ほど、疑われない。


私は、歩みを止めない。

誰かに弁明するつもりもない。誤解を解く気も、名誉を取り戻す意思も。


それらはすべて、最初から手放した。


胸の奥に、微かな痛みはある。けれど、それを後悔と呼ぶには、あまりにも静かだった。


――これでいい。


私が嫌われるほど、ルミナは守られる。

そのために選んだ約だ。今さら、噂一つで揺らぐはずもない。


私はもう、戻らない。

悪女として立つと決めた以上、振り返ることは許されないのだから。


私は、胸にいくつもの思い抱えながら、ある場所へと向かった。

私にとって特別な場所――庭園だ。


屋敷の奥。

人の往来が少なく、噂話も届きにくい一角。

そして――お母様が、最も好んだ花が植えられている場所。


アネモネ。


白、淡い紫、深い紅。

風に揺れるその姿は、決して派手ではないのに、どこか芯の強さを感じさせる。


「……相変わらず、綺麗ね」


小道を歩きながら、自然と足が緩む。

ここに来ると、呼吸が楽になる。


母がこの庭園を好んでいたことは、リサから聞いた。

その話を知ってから、いつの間にか――私自身も、この場所を大切に思うようになっていた。


だからこそ、誰にも見られたくない場所でもある。


――そう、思っていたのに。


「失礼」


低く、落ち着いた声が、花の向こうから聞こえた。


私は足を止め、顔を上げる。


アネモネの群れの向こうに立っていたのは、見覚えのある人物だった。

整った立ち姿、王家特有の金髪。

そして、隠しようのない存在感。


第三王子。

ユリウス・ルーシオン・アルヴェルク。


名前を思い浮かべただけで、胸の奥がわずかに引き締まる。

この人が、ルミナの婚約者。


噂では、温厚で誠実。

政治の場では冷静で、感情を表に出さない――らしい。


けれど、噂ほど当てにならないものはない。

それは、私自身が一番よく知っている。


――見極めさせてもらうわ。


私は裾を軽く摘み、形式通りに一礼した。


「ネメシア・ルーインハイトです。本日は、思いがけずお目にかかりましたね、殿下」


一拍置いて、彼が応じる。


「第三王子ユリウスだ。突然、静かな場所を借りた」


短いやり取り。

だが、それだけで互いの立場は十分に伝わった。


――さて。

ここからが、本番だ。


私が足を止めたまま動かないでいると、ユリウス殿下はゆっくりと視線をこちらに向けた。


探るような目。

値踏みする目ではない。もっと静かで、慎重な――観察する視線。


この人も、あの噂を聞いているのね。


それでも、決めつけてはいない。

澄んだ薄紫色の目が、そう言っていた。


アネモネの花の間を抜け、彼は静かに一礼する。


「…驚かせてしまっただろうか」


先に口を開いたのは、殿下だった。

礼儀正しい声。王子として完璧な距離感。


――噂通りなら、もっと冷たい目を向けられてもおかしくない。

私は、内心でわずかに警戒を強める。


「いえ。こちらこそ…この場所は、あまり人が来ませんので」


探るような言葉。それに、彼は小さく頷いた。


「…よく、ここに来るのか?」


思っていた言葉とは違い、私は一瞬だけ意外に感じた。


「ええ」


私は、足元に咲く深紅のアネモネへと視線を落とす。


「お母様……前公爵夫人が、好んでいた花ですから」


その言葉に、わずかな沈黙が落ちた。


気配が近づく。

いつの間にか、殿下が私の隣に立っていた。


「なるほど」


花を眺めながら、静かに頷く。


「…確かに、貴女の瞳と同じ色だ」


軽さはない。

評価とも、確認とも取れる声だった。


私は、思わず殿下の方を見る。

殿下もまた、私の瞳を見ていた。


一瞬だけ、視線が交わる。


「……噂を、聞いている」


空気が、僅かに張り詰めた。


「…噂、ですか」


私は、わずかに口元を緩めた。


「妹に毒を仕込んだ――そういう話でしょう?」


否定もしなければ、言い訳もしない。


「それとも、もっと酷い内容ですか?」


視線は逸らさず、殿下を見る。


「よろしければ、お聞かせください。殿下が、私をどういう人間だと"噂で"知ったのか」


殿下は、すぐには答えなかった。

アネモネの花弁が風に揺れ、その沈黙だけが長く感じる。


――やっぱり、簡単には言えないわよね。


王子という立場で、誰かの悪評を口にすることの重さ。それを理解しているからこそ、彼は慎重なのだろう。


「…随分、率直だな」


ようやく発せられた声は、低く、落ち着いていた。


「普通は、否定するか起こるか、どちらかだと思っていた」

「噂を前にして、どちらも無意味ですから」


私は、淡々と返す。


「否定すれば言い訳に聞こえる。怒れば、図星だと思われる。なら――受け止めたほうが、まだ誠実でしょう?」


殿下の視線が、わずかに細まった。

感心とも警戒ともつかない、微妙な変化。


「…噂では」


彼は、言葉を選ぶように一拍置いた。


「貴女は、強い執着を持つ人間だと言われている。ルミナ令嬢に対して、歪んだ感情を抱き、それを抑えきれなかった、と」


胸の奥が、静かに冷える。


―――"歪んだ感情"。

なるほど、ずいぶんと都合のいい要約だわ。


「それで?」


促すと、殿下は続けた。


「同時に、こうも聞いた。……その噂を、ルミナ令嬢自信は否定している」


その言葉に、ほんの一瞬だけ、心が揺れた。


―――ルミナが?


驚きは、表に出さない。

けれど、予想外だったのは確かだ。


「彼女は言っていたよ」


殿下の声は、柔らかくなる。


「"姉は、そんなことをする人じゃない"とね」


……そう。

私は、胸の内で静かに痛んだ。


「それで、殿下はどう思われましたか?」


私は、静かに問い返す。


「噂と、ルミナの言葉。その両方を聞いたうえで、今ここに立っている殿下は」


一歩も退かない。

一歩も踏み込まない。


「――私を、どういう人間だと見ていますか?」


アネモネの間を吹き抜ける風が、二人の間を通り抜けた。


これは、裁きではない。

弁明でもない。


――互いに、相手を"測る"時間だった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る