第20話
別邸は、思っていたよりも静かだった。
屋敷の一角を切り取ったような造りで、華美な装飾はない。
最低限の家具と、仕事用の机。
窓の外には庭が見えるが、人影はほとんどない。
罰、というほど強い扱いではない。
けれど、自由とも言えない。
出入り口の前には常に人が立っている。
話しかけられることなく、私から声をかける理由もない。
「…ルミナは、大丈夫かしら」
ルミナの容態については、何も告げられていなかった。
知らされないという事実だけが、時間の経過を曖昧にする。
今日が何日目なのか、もう正確にはわからない。
私は机に向かい、与えられた帳の整理を続けていた。
指は動く。頭も動く。
けれど、心だけが、少し遅れている。
その時だった。
「…相変わらず、真面目ね」
声が、背後から落ちた。
反射的に肩が強張る。
この別邸で、私の名を呼ばずに声をかけてくる人間は、一人しかいない。
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのはあの日、紅茶を渡してきた年上の侍女だった。
「……エリザ」
「あら、私の名前を覚えてたんですね」
彼女は、何事もなかったかのように微笑んでいた。
そして、私の視線を気にも留めず。部屋の中を見回した。
「ずいぶん静かな場所ですね。隔離、とは言っても…優しい処遇」
そう言って、机の端に指先を置く。
「怖くありません?」
「…何がですか」
問い返すと、エリザはくすりと笑った。
「全部、あなたのせいにされること」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
「あなたが紅茶を運んだ。あなたが、主役の元へ持っていった。―――それだけで、十分でしょう?」
淡々とした声だった。まるで、事実を並べているだけのように。
「…あなたに命令された―――」
「ええ、ええ。分かっています」
被せるように言われる。
「だからこそ、可哀想だと思ったんです」
その言葉は、慰めの形をしていた。けれど、どこか冷たい
「あなたは、間が悪かっただけ。本来、あの子の傍にいるべき人間じゃなかった」
―――あの子。
その呼び方に、違和感が走る。
「ルミナ様のことですか」
「ええ」
エリザは、迷いなく頷いた。
「邪魔だったんですもの」
あまりにも自然に。
あまりにも、当たり前のように…。
「元々平民でしょう?それなのに急にここへ来て、『私は公爵令嬢です。命令を聞きなさい』なんて」
彼女の唇が、わずかに歪む。
「…そんなあの子が、憎たらしいのよ」
その視線が、まっすぐに私に向けられた。
「……あなたも、そう思いません?」
胸の奥が、きしりと音を立てた。
「私は」
「いいえ、答えなくていいんです」
エリザは、穏やかに首を振った。
「あなたは、優しすぎる。だから、あの子はあなたを傍に置いた」
一歩、近づかれる。距離は近いのに、触れられない。
「でもね、ネメシア」
低く、囁く声。
「あの子が生きている限り、誰かは必ず、犠牲なる」
それが、たまたま――あなたになるか、ならないか。
そう言外に告げて、エリザは微笑んだ。
「……だから、ルミナに毒を入れたの…?」
「そうよ」
迷いのない肯定だった。
その声には、公開も躊躇もない。
「……っ」
喉が、ひりつく。
言葉が見つからないまま、私は一歩、後ずさった。
「でも安心して。あなたが運んだおかげで、疑いは全部あなたに向いたでしょう?」
エリザはそう言って、くすりと笑う。
―――その瞬間。
「話を聞かせていただきました」
低く、よく通る声が部屋に落ち、空気がぴたりと止まる。
エリザの表情が、一瞬だけ凍りついた。
私の視線の先、扉の前に立っていたのは―――現公爵夫人、サビーナ様だった。
「あなたが、ルミナを…」
静かな声だった。
けれど、その瞳には一切の迷いがなかった。
「ち、違います!私はただ……あの子が…」
エリザの言葉が、形になる前に遮られた。
「弁明は不要です」
サビーナ様の声は、低く、静かだった。
感情を押し殺した声ではない。
最初から、結論が出ている声だ。
「あなたは毒を用意し、紅茶に混ぜ、ルミナに飲ませた」
「…っ」
「動機が何であれ、事実は変わりません」
エリザは一歩、後ずさる。けれど、その背後にはもう逃げ道はなかった。
「私は…ただ、元の形に戻したかっただけで……」
「戻す?」
エリザの一言に、サビーナ様の瞳が細められた。
「あなたの言う"元"とは何ですか」
「……」
答えられない。エリザの唇が震えていた。
「あなたは、公爵家の子を害した」
サビーナ様は一歩、前へ出た。その気配だけで、場の空気が張り詰める。
「―――連れて行きなさい」
それは、命令だった。
「地下牢へ。裁きが下るまで、誰とも会わせない」
「ま、待ってください!私は……!!」
叫びは、最後まで届かなかった。控えていた者たちが動き、エリザの腕を掴む。
引きずられていく彼女の視線が、最後に私を捉えた。
その目にあったのは、後悔でも恐怖でもない。
ただ、歪んだ執着だけだった。
扉が閉まる音が、重く響く。
残された部屋で、サビーナ様は深く息を吐いた。
「……ありがとうござ―――」
「貴女のためではありません」
私はお礼を言おうと口を開いたが、サビーナ様に遮られた。
「ルミナのためです」
その言葉は、公爵夫人としてではなく、母としてのものだった。
「……」
私はそう言われて、すぐに言葉が見つからなかった。
「……サビーナ様は、なぜこちらに…」
今まで、私に直接干渉してくることはほとんどなかった。
ルミナに毒を仕込んだ疑いがかかっている身だからこそ、ここまで足を運ぶ理由が、少し遅いように思えた。
サビーナ様が、わずかに支線を伏せてから口を開く。
「…ルミナが、あなたの様子を見てきてほしいと」
思わず、息を詰める。
「目を覚ましたのですか…?」
「ええ。少し前に」
その一言だけで、胸の奥に張り詰めていたものが、ようやくほどけていく。
「まだ本調子ではありませんが、命に別状はないわ」
そして、一拍置いてから。
「―――聖女の力が、はっきりと確認されました」
それは、静かな宣告だった。
「医師も、教会も否定できないでしょう。あの解毒は、人の技ではありません」
私は言葉を失ったまま、ただ聞いていた。
「力を使い切ったため、回復にはまだ眠る時間が必要です」
「……公爵様は、なんて言ってましたか?」
私の問いに、サビーナ様はすぐには答えなかった。
一度、視線を窓の外へ向けてから、ゆっくりとこちらへ戻す。
「状況の整理を、最優先にすると」
淡々とした口調だった。
「ルミナは聖女として公に守られる存在になります。教会への報告、貴族間への根回し、すべて同時に進めなければならない」
それは、父親としてではなく、公爵としての下された判断だ。
「王家の方々は…」
「……後日、来訪されるわ」
そもそも聖女とは、この国において極めて明確に定義された存在だ。
病の治療、毒の無効化、呪いの浄化。
人の技術や薬学では再現できない現象を、安定して引き起こす者。
教会は聖女を神の代理人として登録・管理し、王家はその力を国家の安全保障に組み込む。
身分は保証され、衣食住は最高水準で与えられる。
だが、代わりに自由は制限される。
膨大な力を持つがゆえに、他国へ流出することを防ぐため、原則として王家の人間との婚約が取り決められている。
婚約は、祝福ではない。
聖女という力を、王家の内側に封じるための措置だ。
それを知っているからこそ、ルミナが聖女になってしまったと理解した瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
「もし、貴女がルミナを大事にしているのなら…」
サビーナ様は、逃さないように私を見つめていた。
「貴女なりに、あの子を助けなさい」
それだけを告げて、サビーナ様は踵を返した。
扉へ向かいながら、振り返らずに続ける。
「…今回の件は、公爵様に報告します。問題がなければ、本邸への復帰も検討されるでしょう」
扉が閉じ、室内には静寂だけが残った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます