第16話
翌朝、私は厨房の責任者に声をかけた。
「次の補充ですが、塩と保存用の油が少し足りません。領地のほうで手配した方が早いかと」
特別なことではない。
この屋敷ではよくある判断だ。
「確かに、この量なら商人を呼ぶより早いね。お願いできるかい?」
「承知しました。帳の確認も兼ねて行ってきます」
それだけで、理由は十分だった。
書類上の手配を整え、必要最低限の荷をまとめる。
外出の名目は、買い出しと帳簿の照合。
侍女として、正しい仕事だ。誰にも疑われない。
馬車に乗り込む直前、私は一度だけ、懐の紙に触れた。
数字を書き留めただけの、あの一枚。
「…見に行くだけ」
誰かに聞かせるわけでもなく、ここの中で繰り返す。
馬車が動き出す。
屋敷の門がゆっくりと遠ざかっていく。
これから向かうのは、補充先の領地。
そして同時に、数字の先にあるものを確かめる場所だった。
街道を離れるにつれ、空気が変わっていく。
舗装は途切れ、馬車の揺れがはっきりと伝わるようになる。
風に混じる匂いも、石と鉄から、土と油へと変わった。
窓の外には、整えられた屋敷とは違う景色が広がる。
畑、倉、働く人の背中。
―――外の世界は、こんな色をしていたのか。
思わず、息が漏れた。
「……綺麗」
やがて、御者が合図を送った。馬車は速度を落とし、門が見える。
「到着です」
私は小さく頷き、裾を整えた。
ここから先は、私が一度も踏み出したことのない場所だ。
門を抜けたところで、声をかけられた。
「…あれ?」
足を止めたのは、近くにいた男性だった。
「初めて見るね。屋敷の人かい?」
不意の問いに、ほんの一瞬だけ間が空く。
声をかけられると思っていなかったからだ。
「はい。補充の件で来ました」
それだけ答えると、相手はおらかに笑った。
「そりゃ大変だ。道、分かるか?」
「……いいえ」
地図を貰ったが実際に来ると、わからない。
私は正直に言うと、男は倉の方を指した。
「迷うからな。この辺は」
その笑い声に、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「ありがとうございます」
「おう!気をつけてな!」
私は男に頭を下げ、指された倉の方へと足を運んだ。
知らない土地で、知らない人に言葉を交わしたのは、これが初めてだった。
倉の中は、ひんやりとしていた。
外よりも空気が重く、油と木、乾いた土の匂いが混じっている。
私は帳を抱え直し、扉を閉める。
中は整えられているが、屋敷の倉とは違い、実用本位だ。
棚に並ぶ樽、袋、箱。
それぞれに簡素な札が打たれている。
「まずは、塩」
帳を開き、該当の頁を探す。
数字を確認し、視線を棚へ移す。
一つ、二つ、三つ―――
もう一度、最初から。
「……?」
帳の数字と、目の前の数が合わない。一つ、足りない。
見落としかと思い、棚の裏や隣も確認する。
それでも数は変わらない。
「…書き間違い?」
そう思い、頁をめくる。
日付、前回の補充量、出庫の記録。
数字は不自然なほどに、きれいだ。
「次は…油ね」
同じように帳を見て、棚を見る。
…今度は逆だ。帳より在庫が多い。
「おかしい……」
声に出した途端、その言葉が倉に吸い込まれる。
一つだけなら、誤差で済ませられる。
けれど、二つ。しかも方向が違う。
私は帳を閉じ、棚をもう一度見渡した。
「……数字は合ってる」
少なくとも、帳の上では。
けれど、ここにある"物"は、嘘をつかない。
屋敷で写した帳。公爵から預かった、あの帳。
胸の奥が、静かに冷えていく。
「……今は、必要な物だけを持ち帰ろう」
私は塩と油を手に取り、倉の扉を静かに閉めた。
ここで深入りするべきではない。
調べるなら、準備を整えてからだ。
倉を出ると、少し先に小さな市が見えた。
人の声が、思っていたよりも近く感じる。
屋敷の廊下で聞く足音とは違い、重なり合って、途切れなく流れている。
……まだ戻るまでの時間はある。少し見てこようかな。
私は、人の集まる方へと足を向けた。
「安いよ!」
「今日の分だ、早い者勝ちだぞ!」
「そっちは今日取れた果物だ。新鮮だぞ!」
呼び声が飛び交い、人の流れが絶えない。
屋敷の中では聞いたことのない音の密度だった。
歩き出すと、鼻をくすぐる匂いが次々に変わる。
乾いた穀物、土と汗の混じった空気。
一歩進むごとに、別の生活がある。
私は包を胸に寄せ、無意識に歩幅を小さくした。
人と人との距離が、思っていたより近い。
ふと、きらりと光るものが視界に入った。
目を向けると、小さな身飾りが並ぶ店だった。思わず、足が止まる。
「あら、いらっしゃい」
優しそうな女性の店主に声をかけられた。
「こんにちは」
私は一言だけ挨拶をし、並んでいる品々に目を向ける。
「とても綺麗ですね」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
「ふふふ、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しわ」
私に向けて、こんなふうに屈託なく笑顔を向けてくれる人は、最近ではルミナくらいしかいない。
だからだろうか。
店主の笑顔を見て、胸の奥が少し、むず痒くなった。
「お屋敷の方かしら?」
「そうです」
店主は、私の服装に目を留めた。
「触っても…?」
「ええ、もちろん」
私は目に入った一つの見飾りに手を出した。
小さな金具が、かすかに光を返した。
「軽い…」
思っていたより、ずっと。けれど、その分壊してしまいそうで息を詰める。
「お屋敷の方が買うには、派手じゃないでしょう?」
「はい。……でも」
言葉が続かない。
今私には手持ちがない。
「すみません。今手持ちがなくて…また次の機会でもいいですか?」
そう言った、その時だった。
「……店主、これをください」
私の横から、低い男性の声がした。
驚いて振り向くと、見知らぬ男が立っている。
彼は私の手にある見飾りを、迷いなく指さし、店主へ視線を向けていた。
「そんな…いいですよ!」
慌ててそう言って、私は男性の顔を見た。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が走る。
「……?」
見惚れてしまったのは、たぶんその瞳のせいだ。
視線を外す間もなく、店主が手際よく包み始める。
「はい、お会計済んだよ」
声をかけられて、はっとした。
気づいた時には、もう取引は終わっていた。
「…ありがとうございます」
私は男性から、身飾りを受け取った。
「とっても欲しそうに見ていたからね」
私は改めて、その人を見た。
年齢は四十前後。
日に少し焼けた肌に、飾り気のない服装。けれど立ち姿には、どこか無駄のない落ち着きがある。
―――やっぱり、似ている。
何よりも、瞳だ。
澄んだ、淡い色。光を受けると、わずかに金を含んだ碧。
そして男の笑顔を見て、既視感を感じた。
…ルミナと、同じ。
思わず視線を逸らす。
似ている、と断じるにはまだ早い。
偶然だ。領地なら、同じ色の瞳を持つ人もいる。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
「……お礼をさせてください」
「いや、いいんだ。私が勝手にやったことだからね」
―――このまま、終わらせたくない。
「でも……」
私が引き下がらないと察したのだろう。
男は一瞬、考えるように視線を逸らした。
「……それなら」
小さく息を吐いてから、こちらを見る。
「今度、買い物に付き合ってくれないかな」
「…わかりました」
一瞬だけ間を置いて、私はそう答えた。
素性がわからない相手だ。
慎重に行くべきだという考えも、頭にはある。
それでも、今この人を逃せば、もう二度と会えない気がした。
「では、次に会う約束ということで」
「はい」
短くそう答えると、男は少しだけ安心したように笑った。
「名乗っていなかったね」
男はそう言い、丁寧に一礼する。
「私はアレクシス・ヴァルディオ。侯爵位を預かっている」
―――侯爵。
どうりで、身のこなしに貴族特有の落ち着きがあるはずだと、私は納得した。
それでも、その声色には肩書を誇る気配がない。
「私は…シアです。公爵家に仕えています」
本名を名乗るわけにはいかない。
そう判断して、私は偽名を使った。
「……」
ヴァルディオ侯爵様は、私の
「…あの」
「いや、なんでもない!」
私の問いかけに、ヴァルディオ侯爵様は我に返ったように答えた。
「それじゃあ、次は―――」
こうして私は、この男と再び会う約束を交わした。
理由はまだ、はっきりしない。
けれど、その背中を見送ったあとも、あの淡い色の瞳だけが胸の奥に残り続けていた。
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