第13話



数日が経ち、屋敷には公爵家付きの家庭教師が訪れた。

私を含め、数名の使用人が出迎えに立つ。

そのすぐ後ろには、公爵とサビーナ様、そしてルミナが控えていた。


玄関ホールに程なくして現れたのは、落ち着いた色の外套を纏った一人の女性だった。

年は、四十前後ぐらいだろうか。

背筋は真っ直ぐで、歩き方に一切の無駄がない。

派手さはないが、身につけているものはどれも上質で…公爵家に招かれる理由が、一目でわかる。


―――なんて綺麗なんだろう。


立ちふるまいだけで目を引いてしまう事実に、私は胸の奥がわずかに高鳴るのを感じた。


「お久しぶりです、公爵」


低く穏やかな声。


「来てくれて助かる。セシリア・ヴァルデイン」


公爵にそう言われた彼女の視線は、すっとこちらへ流れた。

評価でも、警戒でもない。

ただ、そこに"いる"ことを確認するだけの目。


一拍置いて、彼女は何事もなかったようにルミナへ向き直る。


「初めまして、ルミナ様。本日より、こちらでご指導を任されましたセシリア・ヴァルデインです。…私のことはセシリアとお呼びください」

「セシリア先生、よろしくお願いします!」


ルミナが明るく頭を下げると、セシリアはごく薄く微笑んだ。

その横顔を見ながら、私は悟る。


―――この人は、屋敷の空気を知っている。私の立場も。


だからこそ。

彼女は何も言わず、何も聞かないのだ。


簡単な挨拶を済ませ、私はルミナの少し後ろを歩き、セシリア様と共に部屋へ入った。

セシリア様は無言で、一度だけ周囲を見渡した。

窓の位置、机と椅子の配置、そして光の入り方。

まるで、これから使う道具を確認するように。


「こちらでよろしいですね」


それは確認というより、指導が始まる合図だった。

ルミナが椅子に座ると、セシリアはゆっくりと向かいに立つ。

私は少し後ろ、指示された通りの位置に控えた。


「では、始めましょう」


その一言で、空気が変わる。


先ほどまでの談笑の余韻は、きれいに切り離された。

声は穏やかだが、曖昧さがない。

教える側としての距離と、線がはっきり引かれるのを感じた。


「今日は、基礎の確認からです。マナー、算術、読み書き。すべて"公爵令嬢として"不足がないかを見ます」


ルミナは小さく息を吸い、背筋を伸ばした。


「はい、セシリア先生」


その様子を見て、私は思う。


―――この人は甘やかさない。けれど、突き放しもしない。平等で人を見ている。


そうして静かで、逃げ場のない指導が始まった。


「ではまず、立ってください。学ぶ前に"今の姿"を見せていただきます」


セシリア様の声は静かだった。

命じるでもなく、促すでもない。それでも、その場にいる全員が従うことを前提とした声。

ルミナが椅子から立ち上がる。私は一歩引き、壁際に下がった。


―――私は、指導を受ける立場ではない。


「力は入れなくて結構です。いつも通りで」


セシリア様はルミナの姿勢にゆっくりと視線を巡らせる。


「……」


何も言わない。

けれど、その沈黙は誰かに"見られている"時間だった。


「ルミナ様」


名前を呼ばれ、ルミナがぴんと背筋を伸ばす。


「肩の力を少し抜いて。顎は引きすぎない。視線は正面」


一つずつ、短く。

ルミナは言われた通りに直し、すぐに姿勢が整う。


「よろしいですね」


その言葉とともに映るルミナの立ち姿を見て、私ははっきりとした違いを感じた。

…これが、公爵令嬢としての立ち振る舞い。

そして、私の立つ場所との違い。


―――けれど、私も"公爵令嬢"だ。


セシリア様は、私には一切視線を向けなかった。

声も、指示も、何もない。


けれど私は、目を逸らさなかった。


ルミナの足の位置。

体重のかけ方。

背筋の伸び方と、肩の落とし方。


―――全部、頭に刻み込む。


「立ち方は、まず"軸"です」


セシリア様の声だけが、静かに部屋に落ちる。


「軸がぶれなければ、動きは自然に見える。逆に、意識しすぎると不自然になる」


ルミナは小さく呟きながら、もう一度立ち直す。


……なるほど。


私は無意識に、自分の足元を見る。

侍女として立つ時の位置。給仕をする時の距離。


同じ"立つ"でも、求められる意味が違う。


「侍女は、目立たず。令嬢は、在るだけで場を整える」


そう言われたわけじゃない。でも、見ていればわかる。

私は教えられていない。

けれど、学べないわけじゃない。


―――教わらなくても、盗めばいい。


私は壁際で静かに息を整え、もう一度ルミナの姿を見た。

この時間は、ルミナに与えられたものであり、同時に私にとっても"学びの場"だった。


「…それでは、次は歩きましょう」


セシリア様はそう言って、部屋の中央を指した。


「端から端まで。一度で結構です」


ルミナは頷き、指示された位置に立つ。


「先ほど言った通り、重心を意識して。足を出そうとしない」


声は静かだが、逃げ場はない。

ルミナは一歩、踏み出した。


最初の一歩は少し硬い。けれど二歩、三歩と進むうちに、動きが整っていく。


「…今の音、聞こえましたか」


セシリア様の声が、ぴたりと落ちた。


「床を叩く音です。力が下に落ちています」


ルミナは小さく息を飲み、もう一度歩いた。

今度は、足音がほとんどしない。


…歩き方を工夫するだけで、こんなにも違う。


「よろしい」


短いその一言に、ルミナは微笑んでいた。

私は壁際で、足元から目を逸らさずに見ていた。

重心の移動、歩幅、腰の位置が上下しない理由。


侍女として身につけた"気配を消す歩き方"とは、似て非なるものだ。これは、"見られる前提"の歩き方。


―――同じ床を歩いているのに、意味がまるで違う。


「では、座ってください」


今度は椅子を示される。


「椅子に触れる前に、動作は始まっています」


―――座る、という行為は、腰を下ろす瞬間だけではない。

ルミナが椅子の前に立つ。


「背を向けない。視線を落としすぎない」


ただ座るだけのはずなのに、セシリア様の指示は細かい。


「腰から下ろす意識で。音を立てない」


ルミナは慎重に動き、静かに腰を下ろした。

椅子は、微塵も音を立てなかった。


「初めてにしては、上出来です」


その言葉に、ルミナの表情がほんの少し緩む。

それは褒められたからというより、張りつめていた糸が許されたような、そんな緩み方だった。


私はその一連を、息をするのも忘れて見ていた。

座る前の間。

裾の扱い。

膝の揃え方。


…知っているはずの動作なのに、こんなにも違う。


「今日はここまでにしましょう」


微笑みを浮かべたセシリア様がそう告げると、部屋に張りつめていた空気が、音もなくほどけた。


「少し休憩を。無理に詰め込む必要はありません」


ルミナは深く息を吐き、頷いた。


「ありがとうございます、セシリア先生」


その声には、疲労と、確かな手応えが混じっている。

私は壁際のまま、そっと肩の力を抜いた。


―――休憩は、ルミナのためのもの。


けれど私にとっても、頭の中を整理する時間だった。

立つ。歩く。座る。

どれも知っているはずなのに、知らなかった。

次に動く時、私はきっと無意識にこの"型"をなぞるだろう。


教わらなくても、学べる。侍女の時でもそうしてきた。

そして―――ここでも。



休憩のため、紅茶が用意された。

セシリア様が席を外したのを確認すると、ルミナはふっと肩の力を抜き私の方を見た。


「……つかれたぁ…」


さっきまでの凛とした姿はどこへやら。

椅子に座ったまま、少しだけ前に見を倒す。


「よく頑張りました」


私がそう言うと、ルミナは小さく笑って、私の袖をつまんだ。


「ねぇ、お姉様…私、ちゃんとできてた?」

「えぇ。とても綺麗だったわ」


それだけで、ルミナはぱっと表情を明るくする。


「ほんと?じゃあ、頑張ってよかったー」


その笑顔は、公爵令嬢のものではない。年相応の、無防備な顔。

私は無意識に一歩、距離を詰めていた。


―――あ。


気づいて、足を止める。

背筋を伸ばし、体重をほんの少しだけかかとに乗せ直す。

肩の力を抜き、顎を引きすぎない。


……さっき見た通りだ。


誰にも見られていないのに。

注意も、命令もされていないのに。


私は、もう"あの立ち方"をなぞっていた。


「お姉様?」


呼ばれて、はっとする。

ルミナは、どこか楽しそうに微笑んだ。


「……ふふふ。やっぱりお姉様なら、ちゃんと見てくれると思ってた」


そう言って、ルミナは意味ありげに微笑んだ。

子供らしい無邪気さと、どこか計算された色が混じった表情。


「それってどういう―――」


問いかけた、その瞬間。


「あ、先生」


ルミナの声色が、すっと変わる。

先ほどまでの柔らかさを一瞬で引き、きちんとした姿勢に戻る。

扉の方へ視線を向けると、セシリア様が静かに立っていた。


「おまたせしました」


それだけを告げ、視線は一度ルミナに、そして―――私に、かすかに流れる。

気づいたのは、私だけだったかもしれない。


「では、続けましょうか」


その一言で、部屋の空気は再び引き締まる。

私はルミナの後ろに立ち、いつもの"侍女の位置"に戻る。

けれど、胸の奥には、さっきの言葉が残ったままだった。


―――ちゃんと見てくれると思ってた。


それは、ただの信頼か。それとも、もっと先を見据えた言葉だったのか。


今は、まだ聞かない。

聞けない。


けれど確かに、ルミナは私が"見る側"であることを、最初から知っていた。

その事実だけが、静かに胸に残る。


私は息を整え、再びルミナの背中を見つめた。


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