第7話





あれから私は、公爵に「下がれ」と言われ、何も言えないまま自室へ戻った。


心を落ち着かせたくて、夜空を見上げる。

夕暮れ時はすでに遠く、星の明かりだけが静かに部屋を満たしていた。


引き出しの奥にしまった箱のことが、ふと頭をよぎった。

私は一度、ためらってから箱を取り出す。

そして、そっと鍵を差し込んだ。


しかし、鍵はまだピクリとも動かない。

―――まだ、その時ではない。

そう、箱そのものに拒まれているようだった。


「……」


私は、ほんの少しだけ心に安らぎを覚えた。

そして、もう一度箱を引き出しの奥へとしまい込む。


すると、扉を叩く音が響いた。


「…私、ルミナです」


聞き覚えのある、少し遠慮がちな声だった。


「少しお話が、あります」


私は一度だけ深く息を吸い、扉へと向かった。

そして、扉を手に掛ける。


「……入っていいですよ」


扉を開けると、先程と同じ装いをしたルミナが一人で立っていた。

付き添いの侍女の姿は、どこにもいない。


私はルミナを部屋の中へと招き入れる。

部屋の真ん中にあるソファに、私たちはテーブルを挟むように向かい合って座った。


「…話とは何でしょうか?」


そう聞くと、ルミナは一瞬だけ視線を泳がせた。

その仕草に、少しだけ緊張しているのが伝わってくる。


「……先程は、私の提案に賛同していただき、ありがとうございます」


そう言って、ルミナは深々と頭を下げた。

あまりに丁寧すぎるその動作に、私は言葉を失い、ただ目を見開くことしかできなかった。


「…やめてください」


「いえ…。ネメシア様にとって、私たちは許されない存在だと、そう思っています」


その言葉に、胸の奥がざわりと揺れた。

どうして、この子がそんな言葉を選ぶのか。

どうして、私の顔色をうかがう必要があるのか。


―――そんなもの、私には決められないのに。


「それでは、なぜ…私を侍女として傍に置こうとしたのですか」


たくさん言いたいことはあった。

けど、喉を通り抜けたのは、それだけだった。


するとルミナは頭を上げて一瞬、言葉を失ったように唇を閉じる。

そして、膝の上で組んだ指先に、ぎゅっと力を込めた。


「……ネメシア様を、助けたかったからです」


澄んだ藍色の瞳は、まっすぐに私を射抜いていた。


「なぜ…」


私には、貴女に助けられるようなことを、何もしていない。


そう思って口にしたはずだった。

けれど、ルミナはゆっくりと首を振る。


「いいえ。していました」


その声は、はっきりとしていた。


「誰にも縋らず、誰にも守られず……それでも、ここに立っていた」


そう言いながら、瞳は優しく私を見つめている。


「……それは、ただ生きていただけです」


私は、そう返すしかなかった。

誇れるようなものじゃない。逃げることもできず、ここに"残されていた"だけだ。


「違います」


ルミナは即座に否定した。


「貴女は生きることをやめなかった。それはとても強い選択だと、私は思ったからです」


その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。


―――強い?私が?


「…そんなふうに言われたのは、初めてです」


ぽつりとこぼれた声は、自分のものなのに、ひどく他人事のように感じた。


ルミナは、少しだけ頬笑む。

その表情は、年相応の無邪気さとは違う。―――何かを覚悟した人の、静かな笑みだった。


「…なぜ、私がネメシア様を侍女にしたか…のお話でしたね」


そう言って、ルミナは一度ゆっくりと息を整えた。


「それは…ネメシア様の環境を、変えたかったからです」


そう告げると、ルミナは私の部屋へと静かに目を巡らせた。

飾り気のない調度品。

最低限の家具だけ置かれた、ひどく静かな空間。


「ネメシア様は公爵令嬢であるはずなのに、ここには物が少なすぎます」


「それに…」と、ルミナは一度、言葉を切った。

まるで、どこまで踏み込んでいいのか測っているように。


「……周りの人たちの態度が、気に触りました」


そう言うと、ルミナは思い出したように頬を膨らませた。

先程までの落ち着いた表情とは違う、年相応の仕草。


「だって、おかしいじゃないですか!ネメシア様は、何も悪いことをしていないのに…。挨拶をしても視線をそらされたり、話しかけても返事が遅かったり……」


一つ一つ数えるように、指を折っていく。


「特に、公爵様!」


するとルミナはテーブルに両手を置き、身を乗り出した。


「自分の娘なのに、あの冷たい態度!命令だけしておいてあとは知らん顔とか……」


次々と溢れる言葉に、私はただ目を瞬かせていた。

誰かが、こんなふうに私のために怒っていくれるなんて―――考えたこともなかった。


「……ルミナ様」


思わず名前を呼ぶと、ルミナははっとしたように口を閉じる。

そして、少しだけ気まずそうに、身を乗り出した体を元に戻した。


「……ごめんなさい。出すぎたことを言いました」


反省をしているかのような表情をしている。


「……クスッ」


私は百面相のルミナを見て、思わず小さく笑ってしまった。


「…コホン。……それでもルミナ様の侍女になって、改善することはできるのでしょうか?」


久しぶりに浮かんだ笑みが、ひどく居心地悪くて。

私は咳払いをして、無理やり話を戻した。


「そうですね…。まず、食事は私と同じ物を食べれるように手配はしやすいかと…。そして服装の横流し、というより"共有"という形にすれば問題ありません」


さらりと言っているけれど、それは今までの私の生活では考えられないことだった。


「それに、ネメシア様の存在が大きくなります」


私の存在?


「私の傍にいれば、必然的にと虐めてくる人もいなくなるでしょう」


確かに…公爵が選んだ、ルミナの侍女という肩書き。

もし、私をいじめる者がいれば、ルミナが直接叱ることもできる。


彼女なりにいろいろと考えていることが伝わってきた。

私にとっても、この肩書きはプラスになるかもしれない。


「…わかりました。ルミナ様の熱意が伝わりました」


そう言うと、ルミナはぱっと笑みを浮かべる。


「…改めて、よろしくお願いします。ルミナ様」


私はルミナ様に、そっと手を差し出した。

それを見たルミナは少し戸惑いながらも、私の手を握り返す。


「…もし、嫌でなければ、お姉様と呼んでも?」


そう言って、ルミナは少し恥ずかしそうに私から目をそらした。


「ええ…いいですよ」


その表情を見て、私はほんの少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。


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