リライト版「一番前の席のあなたを」

rinna

一番前の席のあなたを

 春になると、私はいつも同じ窓辺に立つ。

 レースのカーテン越しに見える桜は、毎年ほとんど同じ色をしているはずなのに、そのたびに少しずつ違って見えた。光の入り方なのか、私の年齢のせいなのか、それとも記憶のほうが変質していくのか。理由は分からない。ただ、桜を見ると、どうしても思い出してしまう。


 もう十年以上も前のことだ。


 中学校の入学式。

 新品の制服は体に馴染まず、靴のかかとは少し硬かった。体育館の床は冷たく、名前を呼ばれるたびに、知らない人生が一つずつ席に座っていくような気がしていた。


 その中で、あなたは一番前の席に座っていた。


 背筋を伸ばし、前を向き、まだ何も知らない顔で、ただそこにいた。

 私は一番後ろの席から、その背中を見ていた。見ていた、というより、視線がそこから離れなかった。


 なぜなのかは、今でも説明できない。

 声を聞いたわけでも、言葉を交わしたわけでもない。ただ、あなたの存在だけが、教室の中で際立って見えた。


 人を好きになる理由なんて、後からいくらでも作れる。

 でも、あのときの私は、理由より先に、気持ちのほうを持ってしまっていた。


 授業中、ノートを取るあなたの肩。

 風が入ったときに、わずかに揺れる髪。

 振り返った拍子に、ほんの一瞬だけこちらを見た視線。


 その一つ一つが、私の中に静かに積もっていった。

 音を立てずに、でも確実に。


 時間は流れ、私たちは同じ教室で日々を過ごした。

 会話は多くなかった。挨拶と、必要最低限の言葉。それだけ。

 それなのに、あなたの笑い声だけは、なぜかいつも私の耳に残った。


 二月。

 校則では禁止されているはずの甘い匂いが、なぜかその日だけは教室に漂っていた。

 皆が少し浮つき、少し緊張し、少しだけ勇気を持つ日。


 私は、何も持っていなかった。

 渡したい気持ちはあった。でも、理由がなかった。

 友達、と呼べるほど近くもない。

 好きです、と言えるほど強くもない。


 だから、何も持たずに登校した。


 あなたは、いつも通り席に座って、友達と話していた。

 その横顔を、私は見ていた。

 もしあなたが、誰かにチョコレートを渡すとしたら。

 もしあなたが、誰かに想いを向けているとしたら。


 考えるほど、胸の奥が静かに沈んでいった。


 ぼんやりしていた私を、あなたが呼んだ。

 名前を、確かに。


 「松川さん」


 顔を上げると、あなたは少し困ったような表情をしていた。


 「チーズ、食べられる?」


 意味が分からなくて、でも反射的にうなずいた。


 あなたは、淡い色の包みを差し出した。

 「作ったんだ。よかったら」


 それだけだった。

 理由も、説明も、特別な言葉もなかった。


 私は、ただ受け取った。

 手のひらに伝わる、わずかな温度だけが、現実だった。


 家に帰って包みを開くと、小さなチーズケーキが一つ入っていた。

 甘さは控えめで、静かな味だった。

 おいしい、と思った。

 それ以上の言葉は、浮かばなかった。


 翌日、あなたは何事もなかったように「どうだった?」と聞いた。

 私は「おいしかった」と答えた。

 それで会話は終わった。


 聞きたいことは、たくさんあった。

 どうして私だったのか。

 どういう気持ちだったのか。

 あなたは、誰を想っているのか。


 でも、どれも聞かなかった。

 聞いてしまえば、何かが壊れる気がしたから。


 それから、時間は過ぎた。

 卒業し、大人になり、私は多くのものを手放した。


 アルバムも、手帳も、名前の並んだ紙切れも。

 物としての記録は、すべて捨てた。


 それでも、記憶だけは残った。

 一番前の席のあなた。

 振り返らない背中。

 淡い包み紙。


 今、窓の外で桜が揺れている。

 あの日と同じ季節なのに、もう同じ場所には戻れない。


 それでも、私は思う。

 あの教室で、あの背中を見つめていた時間が、私に愛を教えたのだと。


 もし、人生が終わる瞬間があるなら。

 そのとき、きっと私は思い出す。


 一番前の席にいた、あなたのことを。

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