顎を噛み砕いたワニと見上げる、星空の高さについて

瑞田多理

顎を噛み砕いたワニと見上げる、星空の高さについて

ヒトが一度は、誰しも思い描く「人類の最先端」になる瞬間。自らの存在を楔として世に穿つこと。

その期待は歳をとるにつれて薄れていくもので、私からもとっくに失われていたものだったが、何の因果か私にはそれが不意に訪れた。ただしそれは、おかしなことにワニの姿に似ていた。


「類例はなく、治療法もないです」


それは、噛み締め癖だった。最初は単なる顎関節症だと思っていた症状が徐々に快癒してきたと思ったら、口にものを入れると二度と自力では開けられないという症状に飛躍した。これでは流石に生きづらい、と思って駆け込んだ大病院の神経内科で、私は急遽、それを押し付けられる形になった。

下顎を引っ張って開けた口で、もう一度尋ねた。短く、「なんて?」と。

その時の私の顎は、自分の歯をすりつぶして顎自身を砕こうとするくらいの噛み締めを見せていて、生活の中で様々な不都合があった。

顔が筋肉痛になる経験をお持ちだろうか? 私はそれを日常としている。痛みのあまり気もそぞろで、文章を集中して考えるのが難しい日もあった。

呂律が回らなくなるほど舌を噛んだことは? それも私の日常だった。特にタ行やラ行の音が出ない。人と話せば「どうした?」と言われることが日常になり、言葉を出すのが嫌になったこともある。

そして、物を食べるのが億劫になるほどの苦痛を感じたことは? 言うまでもなく私にとってはそれが日常だ。口が開かないから、細かく砕いたものを前歯の隙間から滑り込ませて。それも噛めないから勢いよく上を向いて遠心力と重力で喉の奥へ送り丸呑みする。私にとっての「食事」はそのようになっていて、つまり丸呑みによる物理的な苦しさと、姿の異様さからくる羞恥に塗れたものだ。食事のたびに涙が出そうになり、つい叫び散らしてしまうこともあった。

そんな苦痛に対して藁にもすがる思いでかかった医者に、私は再びこう言われたのだった。


「類例はなく、明確な治療法もないです」


ただ、医師は淡々と医師の仕事をしてくれた。

そのおかげで私は、それ以上医師に噛みつこうとせずに済んだ。

「時間が解決するのを待つしかないでしょう」

それは無責任な、治療の放棄とも取れる言葉だったかもしれない。しかしそれを聞いた時に耳障りな歯ぎしりと顎の軋みが少しだけ和らいだことを覚えている。

なぜ?

今にして思えば、それは「自分への固執を捨てられた」からだと思う。


§


有効な治療法どころか前例すらないという診断は、この症状を解消するために何をどうすればいいのかわからないことを意味する。先々の筋道が立っていなことを指して、一番身近で悲劇的な言葉を当てるなら「絶望した」のだろうと思われるかもしれない。

確かに診断を受けた当時の私はそう思っていた。しかし今、筆を執っている私は少なくとも絶望はしていない。食事のたびに「不便だなぁ」「同席している人に迷惑と心配をかけてしまうなぁ」という苛立ちとお詫びの感情は抱きつつも、過剰に悲観的になってはいないし、食事をしていないときは心穏やかだ。

絶望は「望みを絶つ・絶たれる」と書いて、未来への道筋が閉ざされて一歩も動けなくなったことを示す。

私が現状「絶望していない」と書いたのは、発症から一年半が経った年の瀬にここまでの道のりを振り返った結果、「筋道が立っていなくても先には進める」ことをようやく理解できたからだ。

私は前に進むための「希望」は抱いたまま「期待」を捨てることによってこの筆を執っている。

「希望」と「期待」は、似た言葉に見えて全く意味することが異なる。顎を壊してワニのような生活を送るという代償を払って、私はその違いをきちんと認識することができた──と思っている。

この文章は、自分にとってはその気づきを整理するためのものだ。

「希望すること」と「期待すること」の違いと、それがヒトの社会においてどのような影響……あるいは病理をもたらしているのかを、壊れた顎にまつわるエピソードを踏まえながら綴ってみようと思う。

願くば私の気づきが伝わることで、私のように想像を絶する体の壊れ方をする人が一人でも減って欲しい。人類の最先端で苦しんでいるヒトの矜持としてそういうちょっとした願いもある。

そのために、私の「固執」がどのように私を壊していったのかを、星々の光に例えながら振り返ってみようと思う。

決して手に届かない……けれど人を惹きつけて止まない輝きと「引力」の話だ。


§


冒頭に述べた神経内科の医師が言うには、「ヒトの体はストレスによって想像を絶する壊れ方をする」らしい。つまり顎のことを語るには、私が受けたストレスについて振り返らなかればならない。

私にとってのそれは、ほぼ間違いなく──そしておおよそご多聞に漏れず──仕事での失敗だったと思う。今振り返ってみれば、仕事がうまくいかなくなった時期と顎が悪化していった時期は完全に一致したからだ。

私の失敗体験はありふれたものだ。ここで重要なのは出来事そのものよりも、その結果生じた「うまくいかない」と言う焦りである。

それがどのようにして私の顎を押し潰すまでに膨れ上がったのか……。そう言う観点で、少しだけ実体験を記すことにする。


顎を壊した当時の私は、ゲーム制作スタートアップ企業のサブディレクターとして働いていた。

そのきっかけはとても軽いもので、「ゲームの作り方も学べば表現の幅が広がってクリエイターとして一つ進める」と言う単純な「期待」だった。

それまでの私は、Web制作の現場でディレクションの指揮を執っていた。だからゲーム制作の経験はなかったけれど、その実績を「買われて」入社となった。

そうやって入ったゲーム制作の現場は、いってしまえばハードワークの連続だった。例えるなら爆弾の解体に似ている。一つのプロダクトが完成する、あるいは運用し続けられるために、ミスの許されない意思決定をとても短いサイクルで繰り返す必要がある。一つでも間違えたり、遅れたりすれば……大爆発。取り返しのつかない損失が生まれ、会社への信用は毀損され……事業が立ち行かなくなる。私はそういう精度でのディレクションを「期待」されたし、実際に周囲の優秀なゲームクリエイターたちはそれをこなし続けていた。


だから、私もその「期待」に応えようとした。「私にもできるはずだ」と信じながら。

そう信じた理由は二つあった。

「Web制作でディレククションを回していたのだから応用が効くはず」という自負心と。

「目の前にできている人がいるなら、そこから学べば自分にもできるはず」という「背伸び」だった。意思決定と実行を成功させ続ける上司や同僚の姿は輝いて見えた。対する私には経験値もなかったし、明らかに能力として一段劣っていた。そのことを相談すると「それでも将来性を見込んで雇った」と言われたものだから、追いつこうと努力しない理由はなかった。


結果として、私はその期待に応えられなかった。

結果だけ先に書くと、三つの大きなミスを経て私は職を離れることになる。


二つ目の致命的なミスのことは、おそらく生涯忘れることはない。ほぼ全てのユーザーがゲームをプレイできない状態を作ってしまった、という巨大な判断ミスをメンバー総出で解消した時には68時間が経過していた。取引先からの信用を損ない、社長が謝罪に出向く事態になったとき、私の顎は静かに、突然壊れた。一次症状であるところの日常的な噛み締めが発生するようになったのだ。

その時の私はミスをした責任を深く感じていた。そのために「失った信頼を取り戻す」意味も込めてより業務に邁進するようになっていた。当然の帰結として業務は積み上がったが、毎夜24時を回る仕事量をこなすことを何ら厭わなかった。当然だと思っていたからだ。


ただ、異様な噛み締めが発生していることと、業務量の増大による疲弊が相乗効果を起こし、双方の状況が悪化し続けたことで、私はついに得意としていたはずの「ゲーム開発ではない業務」でも特大のミスをやってしまうことになった。

これが三つ目のミスで、それをきっかけに私は職場から休職勧告と共に減給を言い渡された。「期待の貯金」を使い果たした状態で、私は打ちひしがれた状態で休職に入ることになる。


私の失敗体験はこうしたありふれたものだ。その後、復職することなく退職することまで含めて。

私にとって幸運だったことがあるとすれば、6ヶ月という思いもしなかった空白期間が生まれたことでその間に「なぜ顎が壊れたのか?」を振り返ることができたことだった。


失敗体験を語る中で、いくつか強調してきた「期待」に類する言葉があった。

注目して欲しいのは……それらは上司や同僚といった「他者からの期待」ではなく、「自分が自分に掛けた期待」であることだ。

その当時の私には、常に「理想の自分」の姿があった。職場の業務に求められる速度と精度を持った意思決定をできる自分自身。それを常に思い描いて、それに近づこうとし続けていた。

ただ、それと自分自身とのギャップは埋まらなかった。

空を見上げれば光り輝く「できる人」がいて、その隣に「私」もいて欲しかった。しかしそうはならなかった。空の星には手が届かなかった。私はそれを、自分のせいにした。背が低いから、腕が短いから、高く飛べないから……。

自分自身が地面に這いつくばるワニであることを、私は徹底的に拒絶しようとしていたのだ。


§


この反省を経て実感したことは、私にとっての「絶望」というのは、「自分が自分を正しく認められない」状態から始まったのだということだった。なぜなら、「未来に向かうためには今からの逆算が必要」で、「今を見るためには自分を認める必要がある」からだ。

これは目にみえるものに例えてみれば自明のことだ。例えば木の上のリンゴを取ろうとした時、私たちはそれが取れるかどうかを即座に判断できる。リンゴのある高さが自分の背丈より低ければ悩むことはない。もしもそれが自分より高いところにあるならば、背伸びしたりジャンプしたりで届くかどうかを検討する。それでも無理なら「別のリンゴを探す」だろう。

このリンゴを「理想の姿」に置き換えてみれば、先の失敗体験で私がどうすればよかったかはすぐにわかる。「分不相応な理想は諦めて」「別の理想を求める」べきだったのだ。


ただ、そこに「期待」が加わることでヒトは悩んでしまう。リンゴの例でいえば、それを食べたいと願った家族がいるとかそういったことだ。

どうしてもそのリンゴを取らなければならない。

そう思った時、ヒトは最初に目に入ったリンゴから逃れられなくなる。もっと取りやすいところにもそれは実っているかもしれないが、そういう他の選択肢は目に入らなくなる。最初のリンゴを取るために、棒や石を投げてみたり、木を登ってみたり……とにかくそれに向かって邁進することになる。


§


この「何がなんでもそれを手にいれる」という機序そのものが悪いことだとは思っていない。なぜならそれはヒトに備わった能力の賜物であり、一つの隠された本能でもあると考えるからだ。

「それを手に入れた未来」を思い描いて「そのためにどのように現状を変えるか」という営みこそが、ヒトに社会をつくらせ、生物史上最大の繁栄をもたらした原動力であるからだ。


例えば、ヒトは常に「重力」と戦い続けてきた。ワニが姿勢を低くし、水に潜むことで対処したその責め苦に対して、真っ向から挑み続けた。

その挑戦は確実に実を結びつつある。二足歩行から始まった抵抗は止まるところを知らず、飛行機の発明によって空気という翼を手に入れるに至った。さらに続く探究によって重力はそれそのものが観測され、その物理的根源も発見された。今後もその挑戦は続くだろう。現状では重力を自在に操るまでには至っていないが、遠い未来まで見れば時間の問題だと思う。


動物には今しかない。しかしヒトには「今」を起点に、未だ来ていない時を思い描く力が備わっている。だから本来自分の身の丈では取れるはずもないリンゴを得ようと足掻くことができる。それが取れた時の、誇らしげな自分自身を思い描くことによって。

ただ、私自身の失敗体験からわかったのは、この「未来を実現する」というヒト固有の推進力が……ときに重力よりも強い力で私たちを引きずり回すことだった。

私は、「あるべき私自身」という理想に向かって全力で登ろうとしていた。書籍を読み、それを実践し、プロジェクトで失敗し、その振り返りを次に活かし……リンゴよりもっと高い星に手を伸ばそうとしていた。その過程で「木から落ちた」から顎が壊れた。


なぜ、「星に手を伸ばそうとした」のか。決して手に届かないものであるのに。

地に足をつける重力よりも、その星に惹かれる力の方が強かったからだ。

「期待」によって膨れ上がった「理想」が輝く時、そこには強い力が生まれる。

ここでその力を「引力」と呼びたい。

それは未来に向けて手を引く力。同時に地面という定点から人を引き剥がす力。

理想が期待と共に大きくなればなるほど引力は強くなる。クリエイティブの領域で言えば「もっと読まれたい」「絵も描けるようになりたい」「発信媒体も持ちたい」「そのすべてが相互作用して大成功したい」というように。

その欲求に、ヒトは抗いがたい。なぜならそれこそがヒトだけに備わった、ヒトの本能の一つだからだ。

しかし行き過ぎればそれは自分自身を滅ぼすことになる。

あたかも光り輝く恒星が、肥大化しすぎた自らの重みに耐えきれなくなって消えていくように。


§


そうやって重力崩壊していくヒトの姿は周囲、特にインターネット上で散見されるようになって久しい。理想に手が届かずに膝をつくだけならまだいいが、鬱屈した想いによって、自分や他者への攻撃性を増幅させたり、別の歪んだ認められ方をしようとしてしまう。その結果生まれてしまった奇行や暴言がヒトを傷つけることも散見される。


こんにち、「自分への期待」すなわち「理想」を抱くきっかけには事欠かない。インターネットのおかげで、目指すべき星は小説でも、イラストでも、漫画でも社会的成功でもなんでも目に入る。

ただ、それはおそらく、手に入らない。より正確にいえば彼らの模倣をしたところで「自分の望む形」では手に入らない。

なぜなら前提となる「自分」が全く違うものだからだ。例えば彼らと私たちでは「背丈」が違うはずだ。金銭的・時間的余裕や才能の多寡がそれにあたる。先に述べたとおり背丈が違えば手が届くリンゴも変わる。それ以上を望むときに変えなければならない「今」も当然違う。


それに、自分が違えば本来は「理想の自分を見せたいヒト」──言い換えれば「誰に期待されてその姿になりたいのか」も違うはずだ。「リンゴが欲しい」と言われたのであれば死に物狂いでリンゴを取る必要があるし、単に飢えているだけなら別の食べ物を探すことで解決できるかもしれない。

そうなりたい、と思わせたのは例えば家族かもしれないし、友人や恋人かもしれない。会社での評価かもしれないし、社会からの承認かもしれない。

誰のために理想を実現するのかによっても、変えなければならない「今」は変わる。

全く同じヒトは絶対にいない。だから背丈と理想によって取るべき手段は変わる。

そして、「なぜその理想を実現したいのか」も変わる──はずだ。しかしその尺度は、インターネットによって無数の理想と背丈を観測できるようになったにも関わらず、その帰結とは逆に均一化されつつあるように思える。「理想の自分になれたかどうか」という、曖昧な尺度へと。


§


私は、理想の自分になりたい。

それはヒトがヒトである以上当然の欲求だ。未来を思い描き、そのために今を変えることがヒトに与えられた希望であることはこれまで述べたとおりである。

ただ、同時にヒトは、社会的動物であるとされる。それが意味するところは、「自分自身の立ち位置を、社会という他者との関わりの中で適切に決めていく必要がある」ということだ。

他者と関わる時、ヒトはなんらかの役割を担うことになる。例えば私の場合は、「会社」という社会の中で「サブディレクター」として「ゲームの制作を円滑に進める」という役割を帯びていた。これが「家庭」という社会になれば、「長男」として「家のことの面倒を見る」という役割になる。

つまり、「理想の姿」を形作る「期待」は……少なからずその社会を構成する誰かの願いである、ということだ。これを明確に認識することが、とても重要だと考える。なぜならヒトは往々にして、「自分で自分に期待する」ことをしてしまうからだ。私はこれを指して、冒頭に捨てたと述べた「固執」と呼んで、「期待」とは分けることにする。

期待から理想を形作ることは、そう難しくない。「こうなってください」「わかりました」で済む話だからだ。故に変えるべき今も、その手段も明らかなことが多い。それが実行できるか、変わることができるかどうかはその先の話だ。

期待に応えるということは、他者からの評価という定点があるために客観的で、優しい。同時に応えられたかどうかが定量的であるために残酷でもあるが、よしんば応えられなかったとしてもその場合は属する社会を変えるべき、という警鐘だと捉えることができる。「理想は他者の評価以上に肥大化することはない」ということだ。

つまり、理想は叶うか叶わないかの2択ではっきりと分かれ、それ以上にもそれ以下にもならない。重力崩壊を起こすような大きさには、なり得ない。

ただし、「社会からの期待以上のことを望む」こと……つまり「固執」から自分の理想を作ろうとするとそうはいかない。

それは自分の未来を自分の今から生み出す行為だが、はっきり言えば危険だ。なぜなら社会という定点を解さない固執は、たとえ形作ったとしても「固執が今を塗り替えてしまう」からだ。

「今」が塗り替えられれば理想は作り直しになる。少しだけ大きくなった「固執」をベースにして。そうやって固執は際限なく増大して簡単に重力崩壊を起こす。その姿は、なりたかった自分とはきっとかけ離れている。

私の失敗談で唯一幸運だったのは、顎を壊すという物理的なストッパーがかかったことで、完全な重力崩壊の前に属する社会を変えられたことかもしれない。


§


「それじゃあ、他人から言われたことしか健全な理想にはなり得ないってこと? 自分の思いは無価値ということ?」

結論を急げば概ねそうなのだが、この問いには重大な前提条件の誤解がある。本質的に「全く社会から望まれていないこと」などほとんどないという点だ。

一般的な社会からは忌避されるような悪事ですら、別の尺度を持つ社会からの要請で行われるのだから、誰にも全く望まれていないことなんて──自死を目的としたものくらいだと思う。

ヒトは、本質的に孤独ではない。なぜなら、逆説的ではあるがヒトが社会的動物であるからだ。ヒトが社会を望むように、社会の方がヒトを望んでくれる。

しかしコロナ禍を経た若いヒトや、偏った思想を持ったヒトと話すたびに、真冬の澄んだ空に瞬く星を見上げている時に感じる茫漠とした寂しさが彼らを包み込んでいるように思える。光を見上げて、一人一人がそれぞれの星に手を伸ばし、届かないと諦めてしゃがみ込んでしまう。

本当は、それはすぐ隣にあるかもしれないし……自分自身が隣の誰かの理想であるかもしれないのに、「誰かに求められていること」を想定できない世代が確かに存在するように感じる。


ヒトが飛行機を発明して重力に一旦対抗できたのは、多くのヒトが同じように「空を飛びたい」と願った積み上げのおかげだ。誰かの理想が誰かに託され、それを元に新たな理想が生まれていく。その連鎖そのものが一つの人の営みであり、社会だ。「未来を見る」という営みは世代・人種・性別を全て超える共通の理想だった時期があったはずなのだが、近年蔓延っている「自分さえ良ければいい」という孤独の冷たさがそれを遮っているように思える。

社会の方が先に変質した……という主張も理解できる。ただ、その社会を作るのはあくまでもヒトだ。

変えようと思わなければ「今」は変わらない。それはヒト個人についても、それを取り巻く社会についても同様に言えることだと思う。


§


そうやって孤独に分断されていく社会を、我々はどう生きるべきなのだろうか。

重要だと思うことは、自分を取り巻く「社会」を含めた「今の自分」をきちんと見直し、はっきりと認識することだ。そうすることで初めて、ヒトは理想を正しく抱くことができる。

私の失敗体験から言えば、確かにゲーム制作会社という社会では私は役立たずだった。しかしちゃんと、自分が属している社会と自分を見直したことによって──「別にゲーム作れなくても、他にできることはいろいろあるな」と思い直せたのだった。例えば、こうして顎のエッセイを書いているように。

もうひとつ、正しく理想を抱くために重要なことがある。

「その理想は誰のために抱いたのか?」をもう一度見直すことだ。そうすることで、自分の理想を出力する方法がはっきりとわかる。

もしもそれが自分自身のためでしかない、と思えるなら見直しが足りない。そうなった自分を見て欲しい誰かが、必ず存在するはずだからだ。それが社会とか、インターネットとか漠然とした相手に対して、認めてもらうでも成り上がるでも構わない。自分で自分を追い詰める重力崩壊を起こさないために、とにかく誰かのために動くことが社会的動物として重要である。


そうして理想を作り上げられたなら、……忘れてはならない。

「それが実現できなかったとしても、他に自分を必要としてくれる社会は必ずある」

一度見返してほしい。君は、本当に「誰とも繋がっていない」だろうか?

上をのぞむばかりで、同じ高さにいる仲間の大きさを見逃して蹴躓いてはいないだろうか?


§


そういうわけで、私は顎の完全破壊という代償を払いながらこの気付きを得ることが出来た。

転職先には業務システムの設計を選んだ。とりあえず生きる糧は、自分が簡単にできることで得ようと思ったからだ。

そして私が決めた、私にとっての「幸せ」は……こうやって体験や想像を「物語」にして届けることだ。人類の最先端に至るのは難しいかもしれないが、少なくともこの物語を今書けるのは私しかいないと自負している。そういう、小さな最先端を積み上げていきたいと思う。

その引力はちょうどいい具合だ。自然にそちらへと顔が向かう。

あたかもワニが日向で鱗を干しているときのように、とても心地よい。

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