世界で最も臆病なミトン婦人の身に起きた、とある雨の降る夜の出来事
雨籠もり
世界で最も臆病なミトン婦人の身に起きた、とある雨の降る夜の出来事
ミトン婦人の話をしよう。有史以来、彼女ほど臆病な女性はいなかった。
婦人にはとあるルーチンがあった。彼女は毎夜、アップルパイを嫌というほどこしらえる仕事から帰宅すると、厚化粧にさらに厚化粧を重ねたような顔を不安げに歪めて、玄関口からまずこう唱えるのだ。
「いるのは分かっているんですからね」
無論それは、婦人の部屋に誰かがいるという確信から来た言葉ではない。確信と呼べるものなど彼女の生活には一欠片として存在していなかったし、それでいて彼女は、利口にもそのことをよく把握していた。
それでもその言葉を発することで婦人は、そこに潜んでいるかもしれない人物を、すっかり脅しきることができると信じているのだ。そう唱えれば、そこに潜む何者かは、おとなしく観念して、ビクビクと体を震わせながら、両手をあげて自らの前に現れるだろう、と。
そして――その言葉を投げかけても誰も現れないということは、きっとその部屋には、潜んでいる人物なんて、誰ひとりとしていないだろう、と。
別段、たったそれだけで、婦人の不安が拭いされるということはなかった。それはある種、猟師が狩りの始まりに大きく手を叩いて、自らの犬をけしかけるのと同じように――これから行う婦人のルーチンの、単なるスターターピストルにすぎなかった。
「黙っていても無駄よ、そこにいるのは、わかっているんですからね」
婦人はもう一度、誰もいない廊下に向けてそう唱えた。そして不安げに――どうせ姿勢を変えたところで、見える景色など微々としか変わらないというのに――キリンが高い位置の葉をくわえるように、その白い首をぐっと廊下の方へ伸ばした。
それから、少し休憩しようとでもいうように、婦人は右手を靴箱の上に乗せて、ほうとため息をひとつつく。
靴箱の上には、すでに巣立ってしまった二人の息子と、遠洋漁業の際に偶然釣り針に引っかかったサメによって、逆に海へ釣り下げられてしまった夫に囲われて、不安なことなどひとつもないとでも主張するような笑顔を浮かべている、婦人の写真が飾られていた。
婦人は靴を脱ぐと、バザールの福引きで引き当てた、婦人が日常履きするには少しばかりかわいすぎる緑のクマのスリッパに履き替えて、ようやくその廊下に足を踏み出した。
秋の空気に冷えた廊下は、婦人の体重に悲鳴を上げるように少し軋んだが、そんなことはおかまいなしに、婦人はなおもその双眸をてらてらと光らせていた。まだ明るい廊下の先を、誰かを背後から絞め殺そうとでもするかのように、忍ばせた足取りで進んでいく。
廊下からは、四つの部屋にアクセスすることができた。一つはメインのダイニング。一つはトイレ。一つは浴室。一つは婦人の部屋だった。
婦人はまず、手前にあるトイレの扉を引いた。その狭い空間は、そこで息を殺してやり過ごすためには狭すぎるし、身を潜められるような場所もないので、そこに誰かがいるとは婦人も考えてはいなかったけれど、それでも一応、確認をせずにはいられなかった。
二センチほど開いて、そっと視線だけで、その先に広がる暗闇をかきまわす。誰もいないことを確認すると、婦人はようやく安心して、その扉を大きく開いた。便器、そのうえにある棚、トイレ用のスリッパ、トイレットペーパー。何の変化も変哲もない、いつも目にする光景だった。
婦人はそっとトイレを閉めると、再び廊下に向き直る。
続いて開いたのは、浴室に繋がる扉だった。こちらは、先ほどのトイレとは少し勝手が違う。その先には確かに浴室があるけれど、それより手前に、洗濯機と洗濯かごが置いてあるのだ。すぐ隣には、顔を洗ったり歯を磨いたりするための洗面台もある。
隠れられる場所はいくらでもあった。
婦人は、用心には用心を込めて、そばにあったモップを手に取る。そしてコツンと洗濯機の横っ腹を、そのモップの先でついてやった。洗濯機のなかには、まだ何も入れてない。だから優しく小突いただけでも、その音はよく響く。
無論、洗濯機の裏手からは、ヒトどころか鼠一匹さえも出てくることはなかった。念のために、婦人はもう一度だけ洗濯機の横っ腹をついて、フェイントを仕掛けるように洗濯かごをモップで突き刺した。ズ、とモップは衣類の山に突き刺さり、床を軽く小突いたけれど、それでもうめき声をあげる者はいなかった。
最後に婦人は浴室の扉を開く。
当然ながら、浴室には生きている人間などいなかった。婦人は「あらそう」と短くつぶやいて、廊下に戻った。「ええ、ええ、いいんですよ。これはちょっと試しただけなんだから。今にあなたのいる場所にたどり着きますよ」
婦人はどうやら安心したらしく、さも上機嫌といった風にそう口ずさむと、また廊下へと戻った。自室のほうをちらりと見て、ちょっと気分が変わったのか、その部屋を後回しにすることにする。
ダイニングに進むと、途端に視界は広くなった。ソファ、テレビ、スタンドライト、おしゃれな本棚にスチールラック。婦人が一人暮らしのために慎重した品々だ。婦人はそれらを愛おしむように眺めたあとで、さてコーヒーでも淹れようかと、先程までの調子はどこへやら、キッチンのほうへ向かって――
ファンデーションの、パフが落ちているのを見つけた。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
婦人は長い沈黙のすえに、そのパフを拾い上げた。そして今度は、先程よりもずっと小さく、またびくびくとした声音で、空白のなかに向けて。
「誰かいるの?」
と訊いた。
無論、空白には口がないので、沈黙のみが返ってくる結果となった。
婦人は考える。
化粧台は、自分の部屋にある。だからこのファンデーションのパフだって、当然、自分の部屋のなかになくてはおかしいはずだ。それなのに、このファンデーションのパフはここに落ちている。私は今朝、いつもより少し多めに、ニキビを隠すためにファンデーションをはたはたとはたいたはずだから、こんなところにあるはずがないのに。
どうしてこんなところに。
「……………………」
婦人は、冷静に考えればもう遅いことだと理解できただろうに、今更になって、足音を忍ばせるようにして、キッチンの奥のほうへと向かうことにした。食洗器のなかには果物ナイフ。その隣には、イタリア旅行の際にちょいと奮発して購入した、パン生地を薄く延ばすための棒がある。
婦人は数秒悩んだ挙句に、ややリーチの長い、パン生地を薄く延ばすための棒を採用することにした。赤ん坊を抱えるみたいにそれを握りしめながら、ざっとダイニング全体を見渡す。テレビの裏を覗き、ソファを持ち上げ、カーテンをはためかせた。
しかし、やはり、誰もいない。
では、残る可能性は。
婦人はごくりと生唾を飲み込むと、もう一度その棒を固く握りしめた。軋む床が忌々しい。ばくばくと心臓の音が、耳を塞ぎたいくらいにうるさい。
目線の先に、自室につながる扉が見えた。
少し前まで安らげる場所のひとつであったはずのその扉は、今や地獄の門のようである。
ドアノブに手をかけ、引き下ろそうとして――その手をふと、婦人は止めた。代わりに、婦人はそっとその右耳を、平たい城のドアに押し付けた。
静寂の中を探るように、意識を集中させる。
ややあって、先ほどまで心臓の音ばかりが聞こえていた婦人の鼓膜に、微かな物音が聞こえてきた。何かをズルズルと引きずるような音だ。
それは例えば、従軍先で負傷した兵士が、言うことを聞かない自らの右足を、引きずって自陣に戻ろうとしているかのような――そんな、憂鬱な音色だった。
婦人は震える体をどうにか抑えようとしながら、胸に手を置き、大きく一度深呼吸をする。パン生地を延ばすための棒を固く握りしめて、それで一度、脅しの意味で、強く扉を殴ってみせた。どん、という大きな音が鳴って、刹那、先ほどの沈黙がちょうどいい挨拶を見つけたかのように、部屋からはひとつの物事も聞こえなくなった。
これで、ひとつのことがはっきりとしたということになる――すなわち、部屋の中に居るそいつは、予期しない物音を聞いて、ちょっと驚いて体をこわばらせるくらいには、意思のあるそれなのだ、ということが。
「……そこに居ることは、分かっているのよ」
婦人はおきまりのようにそう繰り返した。もっとも、その声色は震えていて、いつもの、自信に満ち溢れたそれとは似ても似つかない、怯えきった声だった。
婦人の勇気とは相反して、けれど部屋の中からは、何かレスポンスが返ってくるということはなかった。一秒前と同様に、静寂は静寂のままである。もちろん、少し耳をすませば、婦人のものではない、荒々しい呼吸の音が聞こえたはずだが、そのときの婦人には、そんな余力は残されていなかった。
心臓の音。
汗に濡れたシャツの感触。
自分の呼吸の音。
婦人はいくつかの後悔と、吸い上げてくるような恐怖をどうにか押し殺して、グッともう一度強く棒を握り締めると、まるで何かを諦めるように、自室へと繋がるその無機質な扉を一気に押し開けた。
刹那、それが顔にとびかかってくる。
その拍子に、婦人は驚いて尻餅をついた。お尻への衝撃に耐えあぐねながら、なんとか飛び出してきたそれを目線で追いかける。はね回るような黒色は、かつて婦人の母が語ってくれた、夢を喰らう小人を思わせた。
婦人はそれの正体を知ると、ほうとひとつ、安堵のために大きくため息をついてみて、それを高々と持ち上げる。
「おちびちゃん、今日は我が家で雨宿りかい」
くすりと微笑んだその先で、それはかぼそく「にゃあ」といなないた。そのまま抱き上げるようにして、婦人は安らかに微笑む。婦人は、すべてが取り越し苦労であったということに気付くことで、一切の不安が解消されてしまう、特別な心地よさに酔いしれていた。
婦人はしばらく、その黒い闖入者と戯れると、やがて思い出したかのようにその黒猫を廊下に置いた。コーヒーを淹れようとしていたことを、すっかり忘れていたのだ。この可愛らしい闖入者を、外に追い出してしまうのは、ちょっとコーヒーを飲んで、リラックスした後でもいいだろう――そう思って歩き出した矢先。
黒猫の向かう方向が気になった。
婦人の手を離れた黒猫は、そのまままっすぐに、少し離れた場所トイレの扉までたどりつくと、その扉をキィキィとひっかき始めた。
婦人は何事かとそのまま黒猫の後を追うような形でトイレの前までやってくる。
そうだ、飼い猫である場合、トイレをする場所は飼い主が決め、そこで排泄するように訓練を行うと聞いたことがある――この猫はひょっとすると飼いねこで、トイレをしたいがためにトイレの扉を引っかいているのだ、そう思った。
婦人には猫を飼った経験がなかったので、その決断をくだすまでに、五秒ほどの時間を要した。だが、得体の知れない黒猫の肛門を掃除はしたくないこと、人間だって便はトイレに流すのだから、そこに黒猫の猫の糞尿が混ざったところで、きっと露呈することはないだろうという二点を踏まえて、その猫を抱き上げ、トイレの扉を開くことにした。
扉を開けて、停止した。
トイレのなかに、くさったような男がいた。
もう幾日も洗っていないのではないかと思わせるぼさぼさの頭髪、炭汚れのついた頬、ボロボロの衣類、血のような跡のにじむズボン。
男は座り込んだ姿勢のまま婦人のことを見上げると、「違うんです」と唇をぶるぶるふるわせながら釈明した。
「違うんです、これは……私が望んでやったことではありません。ああ、神様。私になぜこのような罰を……! 誓って、誓って私は盗人ではありません。私はただ、逃げてきただけなのです。最初は窓から入ってきて、ダイニングに隠れていました。そこで荒くなった呼吸を鎮めるために、ちょっと休憩をしようとしたことは事実です。ティーパックをひとつ拝借したことも事実だ。アールグレイなんてもう何年も口にしていなかったから。神様の与えてくだすったギフトだと、そんなふうに考えていたんです。でも結局は違った。これはきっと関門だったんだ。私が今後生きていくための関門、許されるか否かの関門だったんです。けれど私は渡ることができなかった。偶然にも入った家のティーパックを盗んだ。これはれっきとした犯罪です。お茶を飲み切った次の瞬間、がちゃりと扉の開く音がしました。そしてあなたの声が聞こえた。「いるのは分かっているんですからね!」私は恐怖に身のすくむ思いだった。私は部屋のなかでぶるぶる震えた。あなたが廊下を軋ませ、踏みしめながら渡るその音を私は聞いた。あなたは一度ではダイニングにたどり着くことはなく、じわじわと嬲り殺しにするように、部屋を検めて行きましたね。扉の開くたびに湧きあがる私の恐怖を貴方はご存知ですか。私は耐えられなかった。そこからとうとう躍り出て、白昼堂々あなたの目の前に姿を現そうかとも考えた。けれどあなたが洗濯機を叩く、鈍いガツンガツンという音が廊下をひびきわたるのを聞いて、私の心の中で、恐怖が理性に先んじた。私はあなたが洗濯機をいたぶっている間に、このダイニングから抜け出し、あなたが既に検めたであろう、トイレの中に身を潜めたのです。そしてあなたがダイニングでくつろいでいる間に、どうにかして、この場所から抜け出そうと考えた。ただそれだけなのです。ティーパックを盗んだことは謝ります。何とかして弁償します。ですからどうか、私をその棒で殴り殺すのだけはやめてください。私の人生はとことん悲惨なものでした。両親に捨てられ、孤児院ではいじめられ、過酷な労働環境に耐えかね、その仕事すらクビになり、道行く人に殴られて、つばを吐かれ、犬に追いかけられ、鳥にはついばまれ、散々な人生を送ってきました。もうこれ以上苦しみたくありません。お願いします。どうか生存を私にお許しください。……この血、ですか? 違います。違います。不本意だったのです。私だってこんなことはしたくはなかった。けれど殺されそうになったから、殺さないと、殺さないと、殺されそうだったから、だから仕方なく私は、私は、あの女をペンチで殴ってやったんです。一度だけです。それ以上はやっていません。それ以前に私は彼女から、何度も不必要に殴られていました。誰だって自分が死ぬのは嫌でしょう。そうです。あなたが洗濯機をいたぶるたびに、私はそこ知れない恐怖を感じた。いたぶられる洗濯機を、ああ、私は私自身に重ねたのです。どうかお許しください」
婦人はすべてを聞き終わるよりさきに、その棒を男に振り下ろしていた。一撃目で頭が割れ、二撃目で頭蓋が壊れた。三撃目で眼球が飛び、四撃目で首の骨が折れた。五撃目、六撃目については、言及の必要はなかった。ただの死体をいたぶる行為に、意味は発生しえないからだ。
ややあって男をすっかり破壊し終えると、婦人はようやく溜息をついた。そして、ようやく愛しい我が家に、もう自分以外には誰も存在しないのだということに安心すると、男の死体をずるずると引きずって、生きている人間などひとりもいない浴室、浴槽のなかにすでにあった死体のうえに、さらに男の死体を重ねた。
婦人は死体の横で自らの身体を洗うと、外で待っていた黒猫を連れて浴室をあとにした。
窓の外では、静かに雨が降り始めていた。
:
ミトン婦人がキッチンへ戻ったことを確認して、少女はやにわに、ゆっくりと婦人の部屋の扉を開いた。覗き込むように、ダイニングへ続く扉を観察すると、涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭いながら、忍び足で浴室の扉を開いた。そしてそこで、先程自分のことを助けてくれた、ホームレスの男の哀れな亡骸を目にした。
婦人は気付いていなかった。ファンデーションのパフはもともと、婦人の部屋のなかにあったものなのだ。けれど男は、婦人の部屋には立ち入っていない。猫は入っていただけで、出ていったわけではない。すなわち別の人間がいるということになる。
少女は興味本位で空き巣に入ったのだった。そしてそこで、奇妙な男と遭遇した。男は婦人の部屋に少女を隠した。猫が飛び出し、それで満足した婦人は、婦人の部屋をくまなく探してみることはしなかった。
そして殺人の音。雨の音。
少女はゆっくりと扉を開き、ようやくその家をあとにした。
間断なく打ち付けられる、それは夜の雨だった。
世界で最も臆病なミトン婦人の身に起きた、とある雨の降る夜の出来事 雨籠もり @gingithune
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