貴方の声で
まるたろう
第1話
恋人が死んだと聞いたのは、つい数分前のことだった。
牛乳がないから買ってきてと頼んで。
帰りが遅すぎることを心配していた矢先の、あの電話。
事故で。
部屋の時計の秒針が、やけに大きな音を立てていた。
自分を残して、世界は崩れてしまったようだ。
胃がぐるぐると周り、震える。
立っていられなくなった私はその場にしゃがみこんだ。
喉の奥が妙に熱くなり、つばを飲み込むことさえできない。
込み上げるものを止められず、口元を抑える。
酸っぱい息と一緒に、吐き気が反乱を起こす。
涙とよだれが吐瀉物に混ざり、びちゃびちゃと床を汚す音だけがみょうにはっきりと聞こえた。
もう、彼は帰ってこない。
あの優しい笑顔も、優しい声も、手も、なにもかも全部。
もうなくなってしまったのだ。
家の中には、彼の忘れ物が残っている。
マグカップ、読みかけの本、椅子の背もたれにかけられた上着。
さっきまですぐそばにいたのに。
電話の向こうの声が、まだ耳にこびりついて離れない。
「お気の毒ですが」という言葉が、頭の中に何度も反響して形を失う。
どうして。
私が買ってきてなんて頼まなければ。
なんで、どうして。
何度も何度も問いかけたって、誰も私に答えなんて教えてくれない。
神様さえも私を見捨てたみたい。
数日間、仕事もいかずにずっと、ただ座っていた。
私の書いたレシピノートには、彼の好物ばかりで。
彼を思い出して辛くなるから、料理を作るのはやめた。
お風呂に入ると、彼の使っていたシャンプーや気に入っていた金木犀のボディソープの匂いがして。
入るのをやめた。
この家には、彼が好きだったものが多すぎて。
なにをしていても、ただ座っているだけでも。
彼を思い出して辛くなる。
そんな時だった。
『ちーちゃん』
彼の声がした。
最初は幻聴かと思った。
だって、彼はもう死んでいるから。
でも、幻聴でも良かった。
彼の声が聞けるなら。
「ショウ…くん…?」
なんで置いていったの、と声にならない声と嗚咽が漏れる。
もう枯れたはずの涙がぼろぼろと頬を伝う。
『置いていったわけじゃないよ。ねえ、感じるでしょ。今もそばにいるよ』
ふわっと、温い何かが肩に触れる。
見えなくても、いる。
『ここ。ここにも、胸の奥にも。ちーちゃんの中に、僕はちゃんといる。』
それでも、私は
『現実は、辛いよね。何を見ても僕を思い出しちゃう。』
辛いよ、ショウくん。
『無理しなくていいんだよ。ずっと、ずっと部屋にいれば良い。今みたいに。思い出の外になんて出なくたって良い。』
許されるの、そんなこと。
許されるなら。
許されてしまうのなら。
私は。
「いいの…?」
『うん。ちーちゃんはずっとここに、僕と一緒にいればいい。』
「私、ショウくんなしじゃ無理だよ」
『知ってるよ。だから安心して、僕の声だけ聞いていれば良い。』
声は耳から入ったと言うより、直接脳に響いたようだった。
骨の髄まで染み込むように、甘く、優しく。
部屋の空気が温く揺れる。
「いいの…?」
聞かなくても、答えはわかっていた。
ショウくんがいいというなら、いいのだ。
『もちろんだよ、ちーちゃんは好きなだけこうしていればいい』
温い何かが頬を撫でる。
世界の輪郭がほどけ、静かに消えていく。
「そばに、いるんだよね」
『いるよ』
温い何かがぎゅぅ、と私を抱く。
目を瞑ると、暗闇の中に彼の笑顔が見えた。
「外に出なくても、いい?」
『外なんて冷たいダけだよ。外に出たって、誰も僕ヲ返してクれない』
そうだ、誰も返してくれなかった。
あの電話も、言葉も、何もかも。
―お気の毒ですが。
電話で聞いた声が響く。
彼は死んだ。
じゃあ、今聞いてるこれはなに?
『こコにいればイい、ずっト。ずっと、僕といッしょに。』
これがなんだって構わない。
彼と、いられるなら。
締め切られたカーテン。止まった時計。外と切り離された小さい箱の中。
『見て、ほラ。ここにいるだロう?』
壁に2つの影。1つは私。もう1つは―”何か”の影。
私の世界は狭くなった。
椅子、マグカップ、上着、本。
”わたしたちの巣”。
外は要らない、光も、音も、色も、人も。
『ねェ、ちーチゃん。』
「なに?」
『縺薙l縺ァ縺壹▲縺ィ縺オ縺溘j縺阪j縺�縺ュ縲�』
「うん。ずっと、ふたり」
世界は静まり返る。
私と、彼の声だけ。
ピンポーンと、軽快な音が鳴る。
外の音。
要らない音。
”現実”の音。
仕事の同僚か、心配した友人か。
『縺ュ縺�∝�縺ェ縺上※縺�>繧�』
”それ”は笑いながら言う。
『縺�縺」縺ヲ縲√b縺�>繧峨↑縺�〒縺励g縺�シ�』
「うん、いらない。」
返事をしなかったチャイムは、次第に静かになる。
足音が、遠ざかる。
もう、もどれない。
へやには、わたしと、かれのこえだけ。
「ねぇ、ショウくん」
『なに?』
「おかえり。」
『縺溘□縺�∪縲√■繝シ縺。繧�s』
貴方の声で まるたろう @marutaro_17
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