もう一度・小生さんがゆく
釜瑪秋摩
第1話 第一営業部の昼餉定食物語
小生の名は、
文豪めいた名を持ちながら、原稿用紙とは縁がない。
代わりに日々、書き込まれていくのは始末書と報告書。
だからこそ小生は、今日も食に向かう。
腹の底からしか、立て直せぬ日もあるのである。
---
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、第一営業部の空気がわずかに緩む。
フロアのあちこちでキーボードの音が止み、誰かの小さなため息が流れた。
「……行きましょうか」
それを合図に、ぞろぞろと人が動き出す。
本日の昼餉は、会社裏の定食屋。
看板の文字は薄れ、「めし処さくら」の“さ”はもう読めない。
珍しく第一営業部のメンツが勢ぞろいである。
のれんをくぐると、油と出汁と焼き魚の匂いが一緒くたに鼻を打つ。
「うわ、今日ハンバーグあるじゃないですか」
すでに声が大きい。
「いやぁ、ここは焼き魚でしょう」
「僕、最近肉ばっかで……」
誰も気づかないうちに。
小生は最後に腰を下ろし、お冷を一口飲んでから、ようやく現実に戻ってきた。
やや遅れて、
「……で、午前の件、誰が先方に折り返すんだっけ」
箸を取る前から、もう仕事の話である。
「いや、怒ってるわけじゃないんだよ」
誰も怒っているとは言っていないのに。
「前にも言ったと思うんだけどね。こういうのは、間を空けちゃいけない」
光石が、まだ注文も来ていないのに背筋を伸ばす。
やがて、盆が並び始める。
濱田のハンバーグは湯気が勢いよく立ち上り、安田の焼き魚は皮目がきつね色に焦げている。
滝藤の生姜焼きは、妙に多い。
牟呂は唐揚げ定食で、もう一つ頼んでいた小鉢を濱田に勧めている。
柄本の盆は、白い。
ご飯と味噌汁と、小さな鯖。
池松の定食は、日替わり。
見た目からして、栄養の最適解のようだ。
小生は、野菜炒め定食。
湯気の向こうに、皆の顔が揺れる。
一口食べる。
油の熱が舌を包み、塩気がじわりと染みてくる。
キャベツのシャキ、とした歯ごたえ。
それだけで、午前中に浴びた言葉が、少しずつほどけていく。
「……すみません、やっぱりハンバーグ多いです」
濱田が早くも弱音を吐く。
「ほら、だから言ったでしょ」
安田が勝ち誇る。
「いや、別に勝負じゃないんだけど」
滝藤が割って入る。
牟呂は胃袋に余裕があるのか、濱田の皿を見ている。
田口は、もう半分食べ終わっている。
大杉は、魚の骨をきれいに外しながら、言う。
「食べ方って、その人の仕事出るよね」
誰も返さない。
ただ、小さく箸の音と大杉の小言だけが続く。
光石が味噌汁を飲み、少し間を置いてから、「……あの件は、午後、私が同行します」とだけ言った。
柄本は、あまり食べない。
箸を持ったまま、湯気を見ている時間が長い。
池松は、もう三分の二ほど終えている。
小生は、もやしを噛みながら思う。
噛んで、飲み込んで、湯気を吸って。
それを繰り返す間だけは、皆、同じ速さで、生きている。
ごちそうさま、の声が、ばらばらに上がる。
誰のが一番早かったかも、誰のが一番遅かったかも、誰も気にしていない。
店を出ると、昼の光がやけに白い。
「……戻りましょうか」
光石が言う。
また、第一営業部に戻る。
また、耐える場所へ戻る。
小生は腹の奥の温かさを確かめてから、歩き出した。
- 完 -
もう一度・小生さんがゆく 釜瑪秋摩 @flyingaway24
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。もう一度・小生さんがゆくの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます