1. 放課後のデッドヒート――あの人の隣を、奪い返すために

 体育館を埋める新入生たちの、糊の効いた制服の匂いが鼻をつく。

 壇上で微笑む生徒会長の「正しい挨拶」を聞くほど、お腹の古い傷が疼き始める。

 早く、あの冷たくて静かな場所へ――私は祈るように、スニーカーの紐を締め直した。


「――以上をもちまして、式典を終了します」

 瞬間、私は腰を浮かせた。


 パイプ椅子の脚が床を削り、鋭い悲鳴を上げる。

 周囲の当惑した視線が背中に刺さるが、気にする暇などない。


 誰よりも早く、外へと躍り出る。

 そのためには、スカートの裾など構ってはいられない。


 狙うはただ一つ、北校舎の最上階。地学室の隣。天文部の部室。

 あの冷え切った星だけが話し相手だった日々から、掬い上げてくれた「光」の正体へと

 重力にあらがい、加速する。


 春の陽光が渡廊下を白く焼き付けていた。

 スニーカーがリノリウムを叩くたび、

 それが、心臓の鼓動と重なり耳の奥で爆ぜる。



「どけアカリ! 一番乗りは俺だ!」

 背後から、鼓膜をつんざくような不快な怒声が響いた。



 振り返る必要はない。

 背中を突き飛ばさんばかりの熱気と、床を揺らす野蛮な足音。

 この傲慢なまでのエネルギーの持ち主を、私は骨の髄まで知っている。


「ちょっと! あんた、本当に入部する気!?」

「当たり前だろ! お前に独り占めさせるかよ!」

「待ちなさい! 先輩の一番は私なんだから!」


 北校舎の入口まであと数メートル。

 先を行くあいつの背中が視界に入るたび、胸の奥が焼ける。

 悔しい。

 ――いや、それ以上に、奪われるという恐怖が喉を締めつけた。


 ほんの一瞬の遅れが、先輩の視線をあいつに向けてしまう。

 それだけは、どうしても許せない。


(――負ける。このままじゃ、速度負けする)

 焦りが喉を焼き、肺が冷たい酸素を求めて悲鳴を上げる。


 先行するイサムが扉へ手をかけた。その直後。

 内側から勢いよく扉が押し開かれた。


「あだっ……!?」

 鈍い衝突音。

 ヤツの体が弾き飛ばされた。


「どけよ、邪魔だ!」

 イサムがたたらを踏んで横へ逸れる。

 

 開いた扉の隙間には、緩んだネクタイを指で弄る上級生らしき男がいた。

「……チッ」

 鼓膜を弾く、鋭い舌打ち。


 チャンス!

 私はその隙を逃さず、その横を蹴り抜けた。

「悪いわね、お先!」

 上級生に睨まれ硬直しているイサムを置き去りにし、階段へ飛び込む。


 一段、二段。肺が焼ける。

 星との会話が全てだった私に、

「あの星座は何?」と、夜空をなぞるあの人の指先。

 その一瞬の残像だけを燃料に、三階への踊り場を駆け上がった。


「おらよっ!」


 再び、隣に野蛮な気配。

 長い歩幅を活かした力任せの跳躍。

 ヤツの背中が、重力を無視して遠ざかっていく。


(……負けない)


 三階の急角度な折り返し。

 イサムは外側へ膨らみ、勢いそのままに壁を蹴った。

 対して私は、最短距離の内側へ潜り込む。


 冷たい鉄の手すりを、右手で強く掴んだ。

「……っ!」

 全身に強烈な遠心力が襲いかかる。


 手すりを支点に身体が鋭い弧を描く――スイングバイ。

 遠心力を直進のベクトルへとねじ伏せる。

 惑星探査機のような軌道でイサムの死角をすり抜けた。

 

「なっ……アカリ!?」


 驚愕を背後へ捨て、最上階の扉の取っ手へ指が届いた。

 その瞬間、イサムの手が、私の手の上から重なる。

 入部届が、汗ばんだ掌の中でくしゃりと音を立てた。



 中学時代の記憶が、走馬灯のように脳裏を掠(かす)めた。

 凛としていて、私が星の話をすると、子供のように無邪気に笑う、あの人の横顔。


 もう一度、あの「光」の傍に立つため。


 私は諦めなかった。

 模試の判定はいつもE。

 それでも、窓の外に光る一等星が先輩の瞳に見えて、深夜三時までノートに向かった。


 そうして、ようやくここまできた。




 扉が跳ね返り、イサムの肩が腕に食い込んだ。

 息が胸で暴れ、埃が光に舞う。


 白い望遠鏡の横で、先輩が布を指に挟んだまま固まっていた。

 舞い上がった埃を見た瞬間、先輩の瞳が細くなる。


 イサムが息を切らしながら前に出る。

「せ、先輩! 俺たち──」


 先輩はその言葉を切るように、望遠鏡の筒へ手を添えた。

「……埃、立てないで」


 その冷たい響きは耳だけでなく、胸の奥にまで染み込み、

 私は思わず息を止めた。

 私たちの情熱とはまるで別の世界から放たれたようなその声が、

 触れた瞬間、私の内側の熱を一瞬で凍らせた。




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