春の岩屋

@melow44

春の岩屋

 裾をすり抜けていく、冷たい空気に気を取られ、遠くに目をやった。

 冬の夕暮れは急に訪れて、度々、ここではない場所に意識を連れ出した。


 頼まれていた屋根の修繕が終わり、男は一息ついていた。目線の高さにある枯葉を摘むと、乾いた葉が指の腹で割れる音がした。

 梯子に足をかけ、屋根から降りる。家主に声をかけ、代金を受け取った男は、町外れの宿に向かった。


 途中、喫茶店の前を通りかかった。店の格子窓からは、薄暮にぼんやりと浮かぶように、オレンジ色の灯りが漏れている。窓際には花瓶があり、白い花が挿してあった。男はこの、名前も知らない花の前で足が止まり、次の一歩がなかなか踏み出せなくなった。


 いつからか、花を見つけてしまう自分がいることに、男は気づいていた。

 花が好きな訳でも、探している訳でもない。ただ、宿の食堂に置かれた飾りにも、窓枠に吊るされた植木鉢にも、花が咲いていることを知っていた。


 それらを見ていると、男は胸の奥がざわついた。理由は分からない、ただ、視線をそらすことができない。


 吐いた息が目の前を白く遮り、男はようやく歩き出した。

 宿に着くと荷物を整理し、体を洗って寝巻きに着替えると、部屋の明かりを消した。

 朝になったら、次の村へと向かうつもりだった。


 兵役で村を出たのは、もう随分前のことだ。


 国の義務だった。大陸の片隅にひっそりとあった男の村にも、徴集の紙が届いた。日付は遠くなく、年明けすぐの出立となった。


 村を出る前の日、荷造りを終えると、男は彼女と話をした。そのことだけは覚えている。週明けには、街の方では雪が降るのだとか、そんな他愛もない会話をしたはずだ。だが男は、ここでの会話を、今でも思い出せずにいる。


 翌朝、見送りの場に彼女の姿はなかった。


 近所の人間が、花束を用意しないといけないね、と彼女に声をかけたと言う。別れが惜しくなり、泣いている姿を見られたくなかったのだろうと、村の人間は男の肩を叩いて、寂しげに笑った。

 明るくよく笑う、屈託のない少女だったから、誰もがそう思っていた。

 定刻通りに来た汽車に、男は乗り込んだ。

一本遅らせて、村の人間と一緒に、彼女を探しに行くことも出来た。だが、男はそうしなかった。

 なぜ、そうしなかったのか、後になってもわからない。


 この日の記憶は、男の中に残り続けている。


 兵役の間、命令があれば動き、消灯したら眠る生活の中、男が考えすぎることはなかった。手先が器用なことで重宝され、木枠を組んで道具を作り、馬車を直した。

 時々届く故郷からの手紙を受け取り、居室に戻った男が、その封を切ることはなかった。


 休暇になり、帰省することもできたが、男は村に帰らなかった。


 兵役を終えたあとは、いくつかの国を転々としながら、日銭を稼いで暮らした。屋根を直し、家具を組み立て、時には木の皮を編んでカゴを作った。


 やがて男は、時間ができると、絵を描くようになった。

 花の絵が多かった。

 野山の日陰で咲く花、刈られた畑の隅に残されている花、公園に植えられた花。

 それらを絵葉書に描いて売った。

一つも売れない日はあったが、それで困るようなことはなかった。


 旅の途中で、故郷が戦火によって失われたことを知った。男が詳しい話を聞くことはなかった。ただ地図の上から、その名が消えてしまっただけだった。


 ある春先、男は海沿いの小さな村に辿り着いた。


 岩場の多い海岸は、波が大きく打ち寄せて、霧のような飛沫が腕にかかった。

 浜に降りた男は、波打ち際を歩いた。踏みしめた指の間から、水を含んだ砂が滲んで、寄せる波はそれを濯いだ。

 白い光をさざなみが拡散して、目の下を照りつける。男は追いやられるように、海岸の端に辿り着いた。


 岩屋の中に、傷ついた人魚の子供を見つけた。

 黒く沈んだ砂利の上に、力なく横たわっていた。

 鱗は剥がれ、髪は乾いて岩に張り付き、尾ひれからは血が滲んでいた。

 波の音が遠くに聞こえた。男はしばらく、子供の動きを見ていた。

 ここには、何の理由もなかった。助けることも、助けないこともできた。それでも、男は子供に近づいた。

 微かに背中が膨らむのが見え、呼吸しているとわかった。

 子供の肩に触れ、抱き起こすと、冷たいはずの表皮と裏腹に、肉の奥から確かな体温が伝わってきた。

 指先との温度差を感じながら、男は動揺していた。


 水瓶や、金貨の袋とは明らかに違う、生き物の重さだった。


 手を離せばどうなるかを、考えてしまった。

 男は岩屋に留まり、子供の世話をした。


 潮の満ち干きの中で、子供との日々は過ぎていった。


 日が高いうちに海藻を採り、魚を釣って、夜になると眠った。

 子供に強請られて、貝殻や流木を拾いに行くこともあった。


 岩屋には花が生えない。

 男は花を見ない時間を過ごした。


 旅の中で、名乗ることも無くなっていた、自分の名前を呼ぶ子供の声に、思い出せないはずの声が、重なって聞こえる瞬間があった。

 水遊びをする子供が伸ばした腕を、月明かりが照らし、潮の香りが立ち込める岩屋から、男はそれを見ていた。


 子供が笑うと、胸の奥がかすかに痛んだ。

この痛みが、花を見つけた時と同じだと気づいた。


 やがて、子供の傷は癒え、泳げるようになった。


 沖へと泳いでいく人魚の子供が、一度だけ男の方を振り返った。男は手を振らなかった。

 人魚の姿は水面から消え、見えなくなった。


 子供のいない岩屋に、男は横たわった。


 春の砂浜を、花束を抱えた少女が通り過ぎたのを見て、男は眠りについた。

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