黒海にしまった記憶
藤沢ローリング
黒海にしまった記憶
5月。
木々が青々と茂る中、学生たちは夏服へと変わっていく。
私はようやく履き慣れたパンプスで、職場へと向かっていた。
「よし、今日も時間通り。」
私はドアの前に立ち、呟いた。
息を吸って、ゆっくりと吐く。
ここから私の一日が始まる。
「おはようございます。井戸田先輩。」
「おお、朝倉か。おはよう。
今日も私に同行してもらうからな。」
机で資料をまとめていた先輩が私を見上げる。
「はい!本日もよろしくお願いします。」
私は満面の笑みで、頭を大きく下げた。
「今日は3件ほど回るから、資料を用意しておいて。
10時には出るから、そのつもりで。
あと、自分の名刺も忘れないように。」
「はい。では資料の準備に取り掛かります。」
先輩がパソコンに視線を戻したのを合図に、私は自分のデスクに向かった。
「よし、そろそろ時間だ。
朝倉、準備はいいか?」
「はい、3件分の資料の準備できています。」
私は両手に資料を抱えて、先輩の机に向かう。
前は30分かかった資料集めも、今は半分の時間でできるようになった。
「どれどれ。…。
うん、ちゃんと揃っているね。
名刺は持った?」
「あ、しまった。」
「まだまだ詰めが甘いな。
俺が行ったことはちゃんとメモするように。」
先輩は小さく微笑んだ。
「すみません。」
私は肩を落とし、トボトボと自分の机から名刺を拾った。
「これから行くところは、お前に任せたいと思っているところでな。」
信号を待ちながら、運転席から先輩が私をチラッと見た。
「えっ?私が担当になるんですか?」
私は横に座る先輩の横顔を、バッと見た。
先輩はハンドルを握ったまま、真っ直ぐ交差点を見つめたままだ。
「俺も来月から海外だからな。
これから少しずつお前に担当を下ろしていく。
これから忙しくなっていくけど、よろしくな。」
先輩は私に振り返って、ニコっと笑った。
「はい!!先輩を越えられるように頑張ります!!」
私は背筋をピンと伸ばし、声を張った。
「ははは。期待しているよ。」
信号が青に変わり、車は軽やかに進みだした。
ガチャ。
「ただいま~。」
私は玄関のドアを開け、ようやく仕事からの重荷を下ろした。
「お母さん、ご飯なに~。」
私がトボトボとした足取りで居間に入ると、母はテレビを見ていた。
「あら、美咲おかえり。
鍋にカレーがあるから、温めて食べて。
あと冷蔵庫にサラダもあるから。」
そう言うと、母はまた夕方のニュースに視線を戻した。
台所に向かうとカレーの匂いで、少しだけ元気を取り戻した。
「サラダ、サラダっと。
あれ?この白い箱何?」
私は冷蔵庫の中に見慣れない箱を見つけた。
「ああ、それ。今日園田さんが持ってきてくれたのよ。
最後の一個だから食べちゃいなさい。」
箱を開けると木いちごがたくさん乗ったタルトがあった。
「やった。今日のデザートはこれにしよう。」
私は集めた食べ物を持って、軽い足取りで食卓に向かった。
「ふ~美味しかった。
ここのケーキ美味しいね。」
お皿の上を空っぽにして、私は吐息を漏らした。
「駅前の有名なところだからね。
お皿はちゃんと食洗機に入れておくのよ。」
「はーい。」
ガチャ。
「ただいま。」
「おお、翔太おかえり。
こんな時間まで部活?」
居間にジャージ姿の弟が入って来た。
「うん、月末大会だからね。」
「翔ちゃんおかえり。カレー用意するから手を洗ってきなさい。」
母が立ち上がって台所に向かう。
「ちょっとお母さん。何で翔太にはご飯用意するの?
私は自分で用意したのに。」
私はご飯をよそおっている母に文句を投げた。
「翔ちゃんは部活で疲れてるんだから、仕方ないでしょ。」
「そうだよ姉ちゃん。俺は疲れてるんだ。」
翔太は舌をベッと出した。
「そういえば翔太、さっき駅前のケーキ食べたけど美味しかったよ。」
台所から鍋の蓋が落ちる音がした。
「え?ケーキあるの?俺あそこの食べてみたかったんだ。」
翔太は突然ニッコリと表情を変えた。
「美咲、あんた!!」
台所から足早にカレーを持った母が戻って来た。
「あ、けど。もう私がさっき食べたんだった。」
「はぁ?何だよそれ。
だったら言わなくていいじゃん。
ねえ、母さん。俺の分、本当にないの?」
先ほどまでの笑顔は消え、弟は母に詰め寄った。
「ごめんね、翔ちゃん。美咲ので最後だったの。」
「何だよ、最悪。今度俺のも買っておいてよね。」
バタンと勢いよくドアを閉め、弟は出ていった。
「美咲。あんた何で余計な事言うの?」
母は両手を腰に当て、私を見下ろした。
「いや、だって。美味しかったから。」
「あんたのそういうところは、直した方がいいわよ。」
母はため息をついて、台所へと消えていった。
「何がいけなかったっていうのよ。」
その言葉に、返事はなかった。
「井戸田先輩。おはようございます。」
翌日、私はいつものように先輩のところに向かった。
「朝倉おはよう。
早速だが、今日は昨日の取引先の情報をまとめる。
覚えることが多いから、メモをしっかりするように。」
私はその言葉に、はっとした。
「どうした?何か質問か?」
「あ、いえ。あの。」
昨日の帰り、あまりに疲れてメモを買うのを忘れてしまった。
先輩の探るような視線から、目を背けてカバンの中を探すふりをした。
「あれ?これ何だろう?」
カバンの中に、見慣れない黒革の手帳が入っていた。
取り出してみると、A5くらいの大きさで品が感じられた。
「なんだ、いい手帳を持っているじゃないか。
それじゃ、荷物を置いたら始めるからな。」
「はい、よろしくお願いします。」
私はホッと息を吐いて、カバンを自分の机に置いた。
「昨日最初に行った三日月町の会社から始めるぞ。
分からないところがあったら、その都度聞くように。」
「はい!」
私は見覚えのない手帳を開いた。
「あれ?なにこれ?」
開いた手帳にはすでに文字が記されていた。
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「井戸田先輩。おはようございます。」
「朝倉おはよう。
早速だが、今日は昨日の取引先の情報をまとめる。
覚えることが多いから、メモをしっかりするように。」
「どうした?何か質問か?」
「あ、いえ。あの。」
「あれ?これ何だろう?」
「なんだ、いい手帳を持っているじゃないか。
それじゃ、荷物を置いたら始めるからな。」
「はい、よろしくお願いします。」
「昨日最初に行った三日月町の会社から始めるぞ。
分からないところがあったら、その都度聞くように。」
「はい!」
「あれ?なにこれ?」
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綺麗な活字がずらりと最初の1ページをすでに占領していた。
「しかもこれって、さっき私たちが話したこと?」
すると、手帳の最後に
-------------------------------------------------------
「しかもこれって、さっき私たちが話したこと?」
-------------------------------------------------------
が追加された。
「朝倉、どうした?質問か?」
気が付くと先輩が私をじっと見ていた。
「い、いえ。何でもありません。」
その言葉もまた、最後に追加されていた。
「とりあえずここで休憩しよう。
覚えることが多いが大丈夫か?」
「はい、一言一句漏らさずメモしたから大丈夫です。」
「まったく朝倉は大げさなんだよ。
それじゃ、コーヒー飲んでくるから。
10分後に再開ね。」
先輩は席を立って、ドアの向こうへと消えていった。
「これはすごい手帳だ!!」
私は文字でぎっしり埋まったページをぱらぱらとめくる。
先輩の説明で、すでに5ページは使われていた。
「これさえあれば、メモをしなくても済む!
あ、けどページがなくなったら困るか。」
その言葉さえ追加されていった。
「ああ、しまった。余計なことを言って行を使っちゃった。」
すると、手帳におかしなことが起きた。
「え?文字が勝手に??」
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「■■■■■■■■だ!!」
「これさえあれば、メモをしなくても済む!
あ、けどページがなくなったら困るか。」
「ああ、しまった。余計なことを言って行を使っちゃった。」
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突然手帳の文字が黒塗りになり始めた。
それはどんどん進んでいき、
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「■■■■■■■■■!!」
「■■■■■■■、■■■■■■■■■■!
■、■■■■■■■■■■■■■■■。」
「■■、しまった。余計なことを言って行を使っちゃった。」
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最後にはすべてが黒塗りになった。
「あれ?私何していたんだろう?
とりあえず、この手帳さえあればメモを取らなくて済むから、大事に使おう!」
そう言って私はパタンと手帳を閉じた。
「おーい、誰だ?こんなことをしたのは?」
オフィスの角で白澤先輩が頭を掻いていた。
「先輩、どうかしましたか?」
「ああ、朝倉か。
誰かがプリンターの紙を切らしたままにしたんだ。
切らした人が替えるのがここのルールだって言うのに。」
「それなら先ほど太田がプリンターを使っていましたよ。」
私は机で猫背になっている太田を指差した。
彼はビクッと背中を動かし、ゆっくりとこっちを向いた。
「太田!!お前紙が切れたら取り換えろよな!!」
「す、すみません。」
バッと立ち上がった太田は、駆け足で私たちのところに来た。
そして私の耳元で小さく、
「お前余計なこと言うなよ。」
と呟いた。
「しまった。言わなきゃバレなかったのか。」
がみがみと先輩に叱られている太田を見て、ようやく気が付いた。
すると、頭の中が揺さぶられるような、ぐらっと眩暈がした。
「いてて、何だったんだろう今の?
あれ、白澤先輩に、太田。こんなところで何しているんです?」
頭を押さえながら目を開くと、二人がボーっと立っていた。
「え?俺何でこんなところにいるんだ?」
「うん?朝倉に太田。こんなところで何突っ立っているんだ。
サボってないで仕事に戻れ。」
「はい。」
3人とも首を傾げながら席に戻った。
手帳を見ると、先ほどよりもさらに黒塗りの部分が増えていた。
「一体ここに何が書いてあったんだろう?」
黒塗りを指でなぞったところで、何も分かるわけもなかった。
「おーい、井戸田くん、朝倉くん。ちょっといいかな。」
オフィスの奥から部長が呼んでいた。
「はい、何でしょうか?」
先輩の横に立った私は、背筋をピンと伸ばした。
「井戸田くんがもうすぐ海外に転勤でしょ。
次の朝倉くんの教育係を白澤くんにしようと思うんだが。」
すると後ろから白澤先輩が現れた。
「井戸田がいなくなってからは、私に付いてもらう。
私は井戸田のように甘くはないからな。」
白澤先輩はじっと私を見つめながら、はきはきした声で言った。
「はい。よろしくお願いします。
井戸田先輩ほどではないと思いますが、先輩なら安心です。」
その瞬間、周囲から音がなくなった。
部長も先輩たちもなぜか口を開けたままにしている。
私がそれぞれの顔を交互に見ていると、
「朝倉、お前ってやつは!!」
井戸田先輩が激しい口調で唾を飛ばした。
白澤先輩は顔を真っ赤にしている。
「私では役に立たないかもしれないが、よろしくな。」
「あ、ああ。なんてことだ。」
私は額から汗を流し、手が震えた。
「しまった。またやってしまった。」
その瞬間、また眩暈がして目を閉じた。
ゆっくり目を開けると、部長も先輩二人もボーっと立っていた。
「あ、あれ。井戸田くんたち、どうしたのかね。」
部長が首を傾げながら、私たちを順番に見た。
「え?あの、部長からお話があったのだと、思います。」
井戸田先輩が言葉を詰まらせながら答えた。
「あ、ああ。そうだった。
次の朝倉くんの教育係を白澤くんにしようと思ってね。」
「そうでした。そういうわけだから、来月からよろしくな。朝倉。」
白澤先輩はすっと私に手を伸ばし握手を求めた。
「はい。よろしくお願いします。」
私が手を伸ばすと、優しく握り返された。
「じゃ、そういうことだから。みんな仕事に戻って。」
部長の言葉で、私たちは自分の机に戻った。
「あれ、また黒塗りが増えている。」
手帳には見慣れない箇所がまた増えていた。
しかし黒塗りに気になるところがあった。
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「■■■■■■■■■■■■■■■■、■■■■■。」
「■、■■。■■■■■■。」
「しまった。■■■■■■■■■。」
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「『しまった』だけが消えてない?」
その瞬間、またしても眩暈がした。
どうにか目を開けて手帳を見ると、
-------------------------------------------------------
「『しまった』■■■■■■■■?」
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「もしかして、これを言うとなかったことになる?」
黒塗りの海に浮かぶ四文字を見て、私は小さく微笑んだ。
その日から私は、この言葉を呪文のように唱えるようになった。
「朝倉、お前今何て言った?」
「しまった!!」
「姉ちゃん、俺抜きでご飯行ったってどういうこと?」
「あ、しまった。」
「それは、機密情報なのでは?」
「しまった~。」
私はもう、手帳を手放せなくなった。
そして、多くのページを黒塗りが占めていた。
それからあっという間に1カ月が経ち、井戸田先輩が旅立つ日が来た。
「わざわざ見送りありがとな。」
「いえ、お世話になった先輩のためなら当然のことです。」
キャリーケースを片手に、先輩ははにかんだ。
多くの人が右へ左へ流れる中、私たちは立ち止まっていた。
「すみません。見送りが私だけで。」
「いいんだよ。送別会もしてもらったし、みんな仕事なんだから。
むしろこの時間をくれた部長に感謝しろ。」
ニッコリと微笑む先輩を見ると、そのまま流れる人の中に消えてしまう気がした。
「今日まで本当にお世話になりました。
会社に入りたての、右も左も分からない私に丁寧に教えてくださり、
ありがとうございました。」
気が付くと、ジワリと目から涙が溢れ出した。
「俺はお前を最後に受け持ててよかったよ。
最初はメモも取らない、失言ばかりする、手がかかる後輩だった。
けど、今は言ったことはちゃんとできているし、変なことも言わなくなった。
こんなにも成長してくれて、俺は誇らしく思う。」
先輩が私の頭をゆっくりと撫でた。
「うぅ。先輩。私、私…。」
ボロボロとさらに涙がこぼれて言葉が出なくなった。
失言が減ったのは、本当は手帳のおかげだと、どうしても言えなかった。
「俺と一緒にいたお前なら分かると思うけどな、
言葉は心を込めて伝えるんだぞ。
相手のことを想って、気持ちを届ける。
これは営業でも日常でも一緒だ。
最後の教えとして忘れるなよ。」
「はい!私、忘れません!!」
何度も手で涙を拭きながら、私は声を振り絞って答えた。
やがて、先輩の手が私の頭から離れた。
ぐしゃぐしゃになった顔を上げると、先輩は私に微笑んだ。
「それじゃ、俺は行くから。
最後くらいは笑ってくれ。」
「は、はい。先輩、ありがとうございました!!」
頬を濡らしながら、私は満面の笑みで先輩を見送った。
「あー、あの飛行機に先輩乗っているのかな。」
展望デッキに移動した私は、ボーっと空を眺めていた。
白い飛行機が、雲一つない青空を真っすぐに進んでいく。
「とうとう行ってしまったかぁ。」
私は白い点だけを見つめながら、息を漏らした。
すると、急に背中がぞわっとして眩暈を覚えた。
「え?何で?これって。」
私は慌てて手帳を開くと、
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「■■■■■■■ありがとな。」
「いえ、お世話になった先輩のためなら当然のことです。」
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「そんな…どうしていきなり?」
私は手帳を読み進めていき、ハッと息を飲んだ。
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「とうとう行って『しまった』かぁ。」
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「違うの、これはそういうことじゃないの。」
私は必死に手で黒の浸食を止めようとする。
しかしいくら指こすっても、動きは止まらない。
「待って。お願いだから!!
私の大切な思い出を消さないで!!」
-------------------------------------------------------
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、
■■■■■■■■■■■■■■。
■■■■■■■■■、■■ちを届ける。
これは営業でも日常でも一緒だ。
最後の教えとして忘れるなよ。」
-------------------------------------------------------
「私が悪かったから!
もう都合よく消そうなんてしないから。
だから…。
…。
…。
あれ、私何してたんだっけ?」
見上げると雲一つない青空が広がっていた。
「あ、先輩の見送りに来ていたんだった。
もう行っちゃったし、職場に戻るか。」
私が建物に戻ると、展望デッキには冷たい風が吹いた。
10月。
うろこ雲が広がる空の下、私はオフィスにいた。
「ねえ、朝倉。ちょっと頼みたいことがあるんだけど。
って何書いているの?」
「あ、白澤先輩。実は井戸田先輩に手紙を書いてるんです。」
机には便箋が広がっていた。
「井戸田も向こうで頑張っているみたいだな。
けど、今時手紙なんて手間じゃない?
メールで送ればすぐでしょ。」
「いいんです。こういうのは手書きの方が気持ちがこもるんです。」
「そういうものかな。
ま、それ書いたらちょっと私のところまで来て。」
白澤先輩はチラッと私を見て去っていった。
「井戸田先輩。先輩の言ったことを私は忘れません。」
私は再びペンを手に取り、書き始めた。
机の端には、開いたままの黒革の手帳があった。
そこにはシミがいっぱいの黒塗りのページがある。
その隅に、
『相手のことを想って、気持ちを届ける。』
と私の走り書きのメモが滲んだまま残されていた。
黒海にしまった記憶 藤沢ローリング @fujisawa-rolling
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