宛先は、君の隣。
淡綴(あわつづり)
第一話:冬の陽光と、剥がされた擬態
二〇〇〇年、二月。 朝の昇降口は、吐き出す息の白さが際立つほどに冷え込んでいた。
私はわざとらしく弛ませたルーズソックスを、デコラティブなネイルを施した指先で引き上げた。この緩さ、この見た目。それは私がこの平坦な学園生活を「適当に」やり過ごすための、最も効果的な擬態だった。
「おはよ、成瀬。……昨日のは、サンキュな」
背後から声をかけてきたのは、サッカー部の久瀬誠(くぜ まこと)だった。
整った顔立ちに、嫌みのない笑顔。男子からも女子からも慕われる、まさに「光」の擬態を完璧にこなす男。
私と久瀬は、世間から見れば意外な組み合わせかもしれない。けれど、中学が同じだった私たちは、時折こうして言葉を交わす程度の「相談相手」という妙な距離感にいた。
「別に。あんたと五十嵐さんが並んで歩いてたら、学園中がパニックでしょ。手紙にしなよって言ったのは、単なる合理的な判断」
私は肩をすくめて答える。数日前、彼から五十嵐澪(いがらし みお)への恋心を打ち明けられたとき、私は迷わず手紙での告白を勧めた。
学園のスターである久瀬と、深窓の令嬢である五十嵐。
二人が公衆の面前で接触すれば、たちまち尾ひれがついて、彼女の静かな環境を壊してしまう。それは彼女を「守りたい」という久瀬の本意ではないはずだった。
「……今日、返事が入ってるはずなんだ。下駄箱に」
久瀬は、緊張を隠すように少し照れくさそうに笑った。 彼は私の忠告を守り、昨日の放課後、一晩かけて書いたという誠実な手紙を彼女の下駄箱へ投函したらしい。
「楽しみにしてるよ。久瀬のその『誠実さ』が、あのお人形さんにどう響いたか」
「お人形さんって言うなよ。……じゃあな、また放課後」
久瀬は軽く手を振って、自分の教室へと向かっていった。彼が去った後、私は一人、冷え切った昇降口で自分の下駄箱、一一八番の前に立った。
2
久瀬の下駄箱は、すぐ隣の一一九番だ。
彼が期待に胸を膨らませて自分の扉を開ける前に、私は自分の扉に手をかけた。
カタン、と乾いた音がして、中から一通の白い封筒が滑り落ちた。
「……え?」
宛名には、端正な筆跡で「久瀬誠様」と書かれている。
それは、本来なら隣の一一九番に入るべきものだ。
「何やってんの、五十嵐さん。……天然?」
私はそれを拾い上げ、隣の久瀬の枠に放り込もうとした。
けれど、指先に触れたその封筒の重みが、私の好奇心を刺激した。
ただの「ごめんなさい」なら、これほど厚くなるはずがない。 私は周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、吸い寄せられるようにその封を切った。ギャルの成瀬 日向(なるせ ひな)なら、間違いなくゴミ箱に捨てるか、笑い草にするだろう。けれど、私の内側に潜む「もう一人の私」が、その封筒に宿る強烈な知性に反応していた。
中から現れたのは、三枚にわたる、懐紙のような上品な便箋。 そこに踊る文字は、端正でありながら、紙を突き破らんばかりの鋭さを秘めていた。
『久瀬様。貴方は私に宛てたお手紙の中で、私のことを「光のような人だ」と表現されました。けれど、それは貴方が勝手に投影した、貴方自身の善良さに過ぎません。
私の沈黙を「奥ゆかしさ」と呼び、私の無表情を「高潔さ」と定義する。その傲慢なラベリングによって、私の実存がどれほど削り取られているか、貴方は想像したことがあるでしょうか。
貴方の光は、私を照らしているのではなく、私という個を塗り潰し、消し去っているのです。』
「……ははっ、マジか」
乾いた笑いが漏れた。
これは、告白の返事ではない。
これは、この退屈で、レッテルだらけの世界に対する、美しき絶縁状だ。
五十嵐 澪。
あの、常に静かに微笑み、誰の期待も裏切らない「完璧な令嬢」が、これほどまでに獰猛で、論理的な牙を隠し持っていたなんて。
私は、自分の胸の奥が、熱くなるのを感じた。
私が隠し持っている、ルーズソックスの内側に潜ませた純文学の思考。世界の構造を冷めた目で見つめる虚無感。 それらが、この手紙の主と、激しく共鳴し合っている。
放課後。私は再び昇降口にいた。
手元には、自分の下駄箱に戻されたあの手紙。そして、私のポケットには、一枚の付箋がある。
私は、あえてギャル文字を使い、けれど内容は極めて冷徹な「赤字」を書き込んだ。
『貴方のロジックは完璧。でも、一点だけ間違いがあるよ。
久瀬誠という男は、この比喩を理解できるほど、言葉の重みを知らない。
このまま送ったら、彼は「自分が力不足だったから、彼女を悩ませてしまった」って、自分勝手な悲劇のヒーローに酔うだけ。
もっと、彼に伝わる言葉で。 でも、二度と立ち上がれないくらい正確に、急所を射抜かなきゃ意味がない。』
私は、その付箋を封筒に貼り付け、迷いなく一一九番――ではなく、彼女が明日開けるであろう、一二〇番の「澪」の下駄箱に滑り込ませた。
宛先は、君の隣。 けれど、その言葉を届けるべき相手は、私のすぐ隣にいたのだ。
「楽しみにしてるよ、五十嵐さん。あんたの“本当の言葉”を」
冬の夕日が、埃の舞う昇降口をオレンジ色に染め上げる。
私の擬態は、まだ剥がれていない。けれど、この手紙を介した「誤配」が、私たちの不自由な世界を、少しずつ書き換えようとしていた。
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