ペトリコール。

shikanote。

匂い、残る

 ペトリコール。ペトリコール。

実に口滑りの良い言葉じゃないだろうか。


どんなものを指すのか、私はよく知らない。

ただ、雨の匂いのことだと聞いた。


私は意味よりも、この口滑りの良さを気に入っている。

今降っているこの雨にも、ペトリコールはあるのだろうか。


急に降られた雨に濡らされまいと、私は喫煙所に寄った。

煙草を燻らせながら、何の役にも立たないことを案じている。


そういう時間が大半になるほど、私の人生は空虚だ。


起床し、歯を磨き、ぬるい飯と味噌汁を胃に入れる。

三十手前の男の生活としては、珍しくもない。


この繰り返しの毎日に、少しだけ色が加わる何かを私は待っているのかもしれない。


食の話であれば、漬物を足すだけで幾許か味気は増す。

だが、この空虚な毎日に、都合のいい一品を自分で用意することはできないだろう。


しかし、こうざあざあと降られては、帰路に着く気持ちをごっそり削られる。


二本目の煙草に火をつけ、咥えた頃。

喫煙所に人が入ってきた。


ぷんと香水の匂いが、煙の匂いに混じる。

夜の街に出ればいくらでも感じる匂いだ。


香水自体は悪くない。

だが、煙草の匂いと混ざると、甘ったるい芳香剤の置かれた便所を思い出した。


私が一歩、喫煙所の奥へ動く。

香水を漂わせている人は、首だけを動かすように会釈をしてきた。


煙草を八割方吸い、匂いにも慣れてきたころ。

気づけば雨足も弱まっていた。


これくらいなら、帰路についてもひどいことにはならないだろう。


灰皿で吸いかけの煙草をもみ消す。

喫煙所から出ようとしたとき、最初に嗅いだ香水の甘さが鼻についた。


それから何度か、雨の日にこの喫煙所を使うようになった。

特に理由があるわけではない。

ただ、雨宿りには向いている。


喫煙所の灰皿に馴染みを覚え始めたころ。

すでに煙草を吸っている人がいた。


一度嗅いだ、何とも言えない匂いがまた鼻をつく。

私より一回り近くは若いだろうか。

その人が、遅れて一歩奥へ動いた。


煙草がじりじりと音を立てる。

今日の雨はやけに静かだ。

屋根を雨が伝い落ちる音が聞こえてくる。


煙草から一つ目の灰が落ちるころ、前を匂いが通り過ぎる。

その人はまた会釈をして、止みかけの雨に濡れていった。


雨宿りを繰り返すうち、相手の銘柄を覚える程度には、同じ匂いの中にいる。


「最近は雨が多いですね」


私がそう話しかけると、


「ええ、そうですね」


彼女は少し口角をあげながら、こちらに目をやった。

他愛もない会話と呼べるかも怪しいほどのものだった。


すっかり慣れた匂いを感じながら、今日は私が先に煙草を消した。


今日は雨に濡れる心配はない。

ただ、気まぐれで喫煙所へ寄る。


今日はやけに匂いがおとなしい。

物足りなさを感じるほどだ。


ふと横を見る。

そこには灰色のコンクリートと、くすんだ銀の灰皿が置いてあるだけだった。


煙草に火をつけようとした時、間の悪い雨が降り始める。

雨足が強くなる前に帰らなければならない。


つけかけた煙草を戻し、帰路につこうと喫煙所を後にする。

慣れない匂いが鼻についた。


「あゝ、これがペトリコールか」

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