夜明け前、君の名を呼ぶ

あるらかいん

夜明け前、君の名を呼ぶ

 ビルの合間を吹く冷たい風に、久我凪くが・なぎは、首を竦めた。


 12月――街にはイルミネーションが輝き、あちらこちらで音楽が鳴り響き、世間はどことなく浮かれているように見える。


 けれどそれを見つめる凪の瞳は、どこか寂しげに陰っていた。


 冬季休暇に向けて仕事が多忙を極めているうちはまだ良かった。決めたタスクをこなす毎日は、余計なことを考えないで済む。

 入社2年目、がむしゃらについていくだけの毎日は去り、訪れた余裕は凪を否応なく考えさせる。自分はひとりで、そしておそらく、これから先もそうなのだと。


 通り過ぎるサラリーマンの、通話する声が耳に入った。スピーカーにしているのか、家族の男性を呼ぶ声も聞こえる。


 家族の団欒――羨ましいと思う一方で、そこから目を背けてきたのも自分だった。実家は一人暮らしをしているアパートと同じ圏内にあり、両親もまだ健在だが、凪は高校卒業後に家を出てからほとんど帰っていない。


 不仲ではなく、むしろ彼らは、滅多に顔を見せない一人息子を案じてくれている。善い人たちだからこそ、凪はそんな両親の傍で隠し続けることが辛くなり、逃げ出したのだ。


 自分は、たとえ誰かを好きになり、恋仲になったとしても、それを両親に告げることはできない。普通に結婚し、孫を抱かせてあげることも。


 凪は両ポケットに手を突っ込み、失笑した。

 両親からだけでなく、あらゆるものから逃げてきた自分は、恋人を作るどころか、告白すら――同性に対する思いそのものを封印してきた。もしも、という恐怖がいつも先に立ち、凪を殻に閉じ込めるのだ。


 そうした日々は決して居心地が悪くはなかったが、こうして街の景色を眺めると、時折無性に寂しくなり、殻の中から動けない自分を歯痒くも思うのだ。


(……かと言って動けていれば、悩むこともない、か)


 堂々巡りになりそうな感情を、凪はため息で吐き出した。


 視界の端、会社の入り口付近で、同僚たちが輪を作っているのが見えた。

 飲み会に誘われていたが、仕事とは無関係のプライベートな集まりと聞いて断っている。


 その集団の中、一際背の高い男がこちらに振り向きそうな気配を感じ、凪は慌てて背を向けた。身を潜め、足先に意識を落とす。


「水瀬は強制参加だぜ、この前の――」


 男を取り囲み、楽しそうな笑い声が起こる。

 それから逃げるように、凪は早足でその場を離れた。




 ◇ ◇ ◇




 水瀬朔真みなせ・さくまは、世間一般の幼馴染よりほんの少しだけ濃い関係――だったかもしれない。


 家が隣同士だけでなく、同じ日の、わずかな時間の差で生まれた。物心つく前からまるで双子のように一緒に過ごし、お揃いの服を着て育った。

 保育園から小学生、そして思春期へと成長して行く中で、常に同じ時間を過ごすことは薄れていったが、それでも凪にとって朔真が常に一番だった。


「――ちゃんて、可愛いよね」


 中学1年の秋だ。誰がそう言ったのか、誰のことを指していたのかは忘れたが、景色だけは今も鮮明に思い出せる。

 放課後の教室、夕焼けが室内を照らしていた。

 席を立ちかけた凪の行く手を阻むように、クラスメイトの女子がふたり立っていた。


「久我君もそう思わない?」


 凪は何も言えなかった。確かに可愛いと思った記憶がある。けれど彼女たちが求める回答はそれではないことも察していた。同じく察したクラスメイトたちが囃し立て、彼女たちは満足そうに笑った。


「おい!」


 教室のドア付近から、朔真が怒鳴るように呼んだ。

 凪は反射的に立ち上がり、何か言いかけた彼女たちを無視して駆け出した。


 教室を出る間際、朔真が室内に向けて何を言ったかは覚えていない。ただ、朔真に肩を抱かれ、引き寄せられ、彼の熱を感じた時、凪は唐突に自分の気持ちに気づいてしまったのだ。


 その日、いつもならくだらない話をしながら帰るのに、二人とも終始無言だった。凪は朔真の隣を歩くことができず、一歩下がって、朔真の背中と、秋色に染まる雲を眺めていた。


 不意に立ち止まった朔真が振り返り、凪を見た。怒っているのか、呆れているのか、読み取れない表情で、朔真は凪に片手を差し出した。


 今でも、何度考えても、朔真がどういう意図でそうしたのか、凪はわからない。


 ただ、怖くなった。自分が朔真に――誰よりも大事な幼馴染に抱いてしまった感情を気取られたかもしれない恐怖。それによって起こることを想像してしまい、凪はその場から逃げ出した。


 あの時から、凪は徹底的に朔真を避けた。

 幼馴染という関係を周囲から疑われるほどに距離を取り続け、そして――今に至る。


(……逃げグセは、あの頃からまるで変わらないな)


 キーボードに打ち込んでいた手を止め、凪はため息をついた。仕事中にすることじゃないなと、気を取り直して書類に視線を落とす。


「あ、水瀬さん、また今度飲みに行きましょうよ」


 パーティションの向こうから声が聞こえ、凪は一瞬手を止めた。

 そこにあるリフレッシュスペースを利用しているのか、複数の声が聞こえる。


「水瀬君すぐに帰っちゃうんだもんなあ」

「まあ、いつも断られてるから、参加してくれただけでもいいか」


 彼らの声に続いて「ははっ」と聞き覚えのある笑い声が聞こえ、凪は無意識に手を握りしめた。


「悪いな、ちょっと用があってさ」


 朔真の声だ。

 凪は思わず席を立った。


「あーあれだ、彼女さんでしょ」

「付き合い長いんだって?」

「尻に敷かれてんだよな。大学の時からこいつ――」


 背を向けてその場を離れる。

 使っていないミーティングルームに入り、鼓動を落ち着かせるように、深く息を吐いた。


 朔真に遠距離の彼女がいるらしいという噂は、大学の頃から何度も耳にしていた。


 中学時代、一方的に距離を取り始めた凪に、それでも朔真はしつこく接触してきた。孤立しがちだった凪を気にかけ、登下校は凪の後ろをただ黙ってついてきた。ただ、凪がなぜ朔真から離れようとしているのか、その理由は一度も聞いてはこなかった。


 当然のように同じ高校を進学先に選んだ朔真だが、その頃から凪のことを「久我」と苗字で呼ぶようになった。自分から距離を取っておきながら、最初にそう呼ばれた時のことを思い出すと今でも胸が痛む。


 朔真はふたりでいる時は相変わらず「凪」と呼んでいた。その分、人前で「久我」と呼ばれるたびに、凪は、もう自分たちは特別な関係ではないのだという事実に、身勝手ながら寂しさを感じていた。


(……本当に、勝手だな。そうなることを望んだのは俺なのに)


 あれからずっと、胸にはかすかな痛みがしこりとなって残っている。


 同じ大学に進んでも関係は変わらず、けれど誰かから「水瀬にはずっと付き合っている彼女がいる」という話を聞いて、凪は自分だけが立ち止まったままであることを知った。


 凪は大きく息を吐いた。

 せめて、仕事はきちんとしなければ。そう自分に言い聞かせ、ミーティングルームを出る。


 だが、数歩進んで足を止めた。


「久我」


 まるで凪が来るのを待っていたかのように、朔真が立っていた。


「あ……水瀬君」


 そう呼ぶと、朔真は気に入らないことでもあるのか、小さく舌打ちをした。


「……少し痩せたんじゃねえの」

「そう、かな。変わらないと思うけど」

「ちゃんと食ってんのか?」


 凪は頷いた。本当は最近あまり食欲がない。

 俯いた凪は、朔真の左手の薬指を見て、一瞬息を止めた。何度見ても、その瞬間、胸の奥が重く沈む。


「元気にやってんのかって、おばさん心配してたぞ」


 ため息混じりに朔真が言う。


「……あ、ごめん、水瀬君に迷惑かけて」

「迷惑じゃねえよ」


 そう言いながらも、朔真はやはり苛ついているようだった。


「……ごめん」


 もう一度謝り、凪は朔真の前を通り過ぎた。


「おい、な……久我」

「仕事に戻るよ」


 これ以上朔真といたら、変なことを口走ってしまいそうだった。

 凪が朔真から距離を置いても、彼がずっと構い続けていた最大の理由。凪の両親から、色々と言われているからだろう。高校卒業後に早々と一人暮らしをした凪とは対照的に、朔真は今も実家に住んでいる。


 義務感や、責任感、あとは昔からの腐れ縁か――それらも全て、朔真が新しい家族を持つまでの、期間限定のものに過ぎない。


 朔真が彼女と結婚したら、自分と完全に縁が切れたら、そうしたら今より少しは楽に呼吸ができるのだろうか。そう思う一方で、その風景を想像することすら拒否している自分に気づき、凪は少し泣きたくなった。




 ◇ ◇ ◇




 クリスマスを間近に控え、街はより一層華やかさを増していた。

 喧騒を早足で通り過ぎ帰宅した凪は、入浴のあと、スマホを手に深呼吸を繰り返していた。


 数日前、このままではいけないと現在の心境をネットで相談してみた。回答はすぐに来て、その多くが『もっと気楽に考えれば』というアドバイスだった。


 おすすめのゲイ向け出会い系アプリもいくつか教えてもらったものの、登録する勇気はなく、そのままいつもの生活に戻る――はずだった。


「水瀬君、いよいよプロポーズするらしいね」


 終業間際、隣の席の同僚がそう耳打ちしてきた。

 距離を取っているから当然だが、朔真についての話題は、いつも本人から何ひとつ知らされることなく、他人経由の噂だけが耳に入る。


「やっぱクリスマスかなぁ」


 自分のことのように浮かれて話す同僚に、ちゃんと笑みを向けられたか自信はない。


 ただ、それが凪を動かした。

 帰宅後、教えてもらったアプリのうち、初心者向けと書かれていたものを選んでダウンロードをし、開いた。


 プロフィール写真はテンプレートの風景写真。紹介文は『ネコです。初心者です』とこれもテンプレートをそのまま採用した。ただ、『寂しさを埋めてくれる人』その一文だけを付け加えた。


「気楽に、気楽に……」


 もらったアドバイスを反復する。頭の片隅に『自暴自棄はダメだよ』という言葉もよぎったが、凪は頭を振ることでそれを追い払い、ボタンを押した。


 しばらくして、スマホが通知音を鳴らした。

 まるでそれが合図のように通知音は止まらず、凪は困惑した。


 再度アプリを開くと、いいね欄に20以上の数字が記されていた。コメントには体の関係だけを示唆するものから、テンプレートをなぞったものまで、色々な言葉が書かれていた。


 凪はその中から、『まずはお話だけでもしませんか』とコメントをしてきた相手を選んだ。自分より5歳年上の自営業。プロフィール写真の横顔が、なんとなく朔真に雰囲気が似ているのも決め手のひとつだった。


 何度かコメントを交わし、クリスマスイブはどこも混んでいるだろうからと、その前日の仕事終わりに会うことを約束した。相手は終始紳士的で、『初対面だからお酒だけ軽く飲みましょう』と提案し、男同士でも気兼ねなく入れるバーを指定してきた。


 コメントでの会話を終え、スマホを閉じ、凪は大きく息を吐いた。

 長年殻に閉じこもっていたのに、ほんの少しの行動であっけないくらい簡単に進んでしまった。


 少しの高揚感は、だがほどなくして急速にしぼんでしまう。その度に自分を鼓舞するが、心と体がまるで違うようで、落ち着かなかった。




 ◇ ◇ ◇




 数日後、凪は一度帰宅してから、アプリに書かれていたエチケットに倣い簡単にシャワーを浴び、スーツから普段着に着替えた。『服装は気負わず友人と遊ぶ格好でOK』と書かれているのを見て、凪は、今までまともに友人と遊んだこともなかったな、と今さら思った。


 色々と考えると全部なかったことにして殻の中に戻ってしまいそうで、凪は敢えて淡々と身支度を整え、家を出た。


 そうして電車を乗り継ぎ、来たことのない街に降り立った。地図を頼りに裏通りにある小洒落たバーのドアを開くと、店内にいた数人が、凪へと視線を向けた。


 約束した通りカウンターの右端に座り、男を待つ。すぐに、肩を叩かれた。


「ナギくん?」


 名前を呼ばれ、顔をあげる。下の名前を呼ばれるのは久々で、ほんの少し落ち着かなかった。


「はい。ユウさん、ですか?」


 男は頷くと、顔を綻ばせた。実際に会うと朔真とは全く違う。

 ユウは左耳のピアスを指先で弄りながら、目を細めて凪を見た。


「へえ。写真なかったからちょいブスかと思ってたけど、かわいーじゃん」


 交わしていたコメントにあった誠実さの欠片もない、軽薄な口調だった。


「はじめてってマジ? めちゃ興奮すんだけど」

「あの……」

「オレうまいからさ、マジ期待してて」

「え、あの、今日はお話だけって」


 男は目を丸くし、小馬鹿にするように口端を歪めた。


「かっわいーの。あれ信じたんだ。ガチ初心者じゃん」

「あ、あの」

「変なのに捕まったらダメだよー。ま、オレは優しいほうだけどさ」


 そう言った男が、カウンターに五千円札を置いて凪の腕を引っ張る。バーのマスターはそれを止めることなく、無言で背を向けた。


「ちょ、ちょっと待ってください。俺は――」

「いーからいーから」


 強引に店の外へ連れ出される。そのまま手を引かれ、暗がりへと引きずられそうになり、凪は慌てた。


「い、いやだ、待てって――!」


 凪が男の手を振り払ったのとほぼ同時に、逆側の腕を強く掴まれた。ぐいと後ろに引かれ、一瞬、鋭い痛みが走る。

 痛みはすぐに去ったが、その直後に背後から伸びてきた腕が、凪の胸元に回された。


「え……?」


 顔を向け、そこに朔真の姿を見て、凪は硬直した。


(なんで……なんで?)


 疑問がぐるぐると頭を駆け巡る。


「なに、ナギくんの知り合い?」


 男が挑発する目を朔真に向ける。

 背後の朔真が舌打ちした。体を掴む腕の力が強くなる。


「喧嘩なら受けますけど、通報されて困るの、あんたじゃないですか」


 朔真が淡々とした口調で言うと、男はつまらなそうに肩を竦めた。


「すぐヤレると思ったのに、面倒なの飼ってんじゃねーよ!」


 捨て台詞を吐いた男が去ったあとも、凪はしばらく、何が起きたのか理解できなかった。

 心臓の音だけが、やけに大きく耳に残る。


 背後で、朔真が深々と息を吐いた。


「お前なあ――」


 朔真は何か言いかけたが、口を閉じると凪の腕を掴み歩き出した。


 なぜここにいるのか、なぜ怒っているのか。

 けれどそんなことより――ずっと隠していた秘密を知られてしまった。その事実が、凪を恐怖のどん底に叩きつけた。


(どうしよう、どうしよう……)


 凪は顔をあげることができず、朔真に手を引かれるまま、歩いた。


 どこかの建物に入り、エレベーターに乗り、部屋に入る。冬の冷たい外気から一転して暖かな空気が肌に触れたが、それすら気づく余裕がなかった。


 そうしてまた手を引かれ、座らされた。


「凪」


 間近から名前を呼ばれても、凪は俯いたままだった。


 頭上でため息が落ち、直後、両肩を掴まれた。

 押され、背中から倒れる。その時ようやく、凪はベッドに座らされていることに気づいた。


 凪の両肩を掴んだまま、朔真が苛立たしげに口を開いた。


「お前、俺のこと好きなんじゃねーのかよ!」


 想像もしていなかった言葉に、凪は呆然とした。

 咄嗟に逃げようとするが、両肩を強く掴まれて動けない。まるで、凪がそうすると見越していたかのようだった。


(知ってた? いつから? いつから朔真は気づいていた?)


 喉が詰まる。呼吸がうまくできない。

 いっそこのまま、心臓も止まればいいのに。


「凪、俺の話を聞いてくれ」


 今まで聞いたことのない、朔真の真剣味を帯びた声音が、凪を現実へと引き戻した。


「頼むから……逃げないで聞いてくれ」


 凪は、自分の肩を掴んでいる朔真の手が、わずかに震えていることに気づいた。


「……朔真」


 思わず名前を呼ぶ。

 目を見開いた朔真が、今にも泣き出しそうな顔で、凪を見た。




 ◇ ◇ ◇




 夕焼けの下で、凪に手を差し出した。

 あの時の凪の顔を思い出すたびに、後悔で胸が張り裂けそうになる。


 いつから凪のことを好きだったのか、何がきっかけだったのか。

 気づけば好きになっていた。という言葉はあまりに安直で、けれど朔真の心情にこれほどぴたりと寄り添う言葉は、他にはない。


 物心つく前から絆のある、特別な存在。

 一緒にいるのが当たり前で、それは永遠に続くのだと思っていた。

 だから、凪への気持ちが男女のそれと同じだと気づいた時、朔真は自分でも驚くほどすんなりと受け入れた。


 そうした気持ちを抱えて凪を見ていた朔真は、中学に入り、凪に同性愛的嗜好があることに気づいた。そして、それを必死に隠そうとしていることも。


「久我くんに告白するの手伝ってあげるね」


 中学1年の秋。凪のクラスメイトが教室まで来てそう言った時、朔真は一瞬自分に言われたのかと思って焦った。けれど彼女たちが話していた相手は朔真の近くの席の女子で、彼女は恥ずかしがりつつもお礼を言っていた。


 誰かが凪に告白する。

 そんな当たり前のことに、朔真はその時はじめて気づき、同時に怖くなった。


 もし、凪が受け入れたら?

 相手は当たり前のように凪に触れて、名前を呼ぶのか?


 朔真は気づいたら教室を飛び出していた。

 凪のクラスに行き、囃し立てる室内の空気を一声で壊した。

 そして走ってくる凪の肩を掴み、抱き寄せた時、凪の顔を見て――気づいた。


(俺と、同じだ)


 凪も俺のことを、同じように想ってくれている。

 帰路の間、朔真は凪に伝える言葉を探していた。


(俺も好きだ、は唐突すぎるかな。けど好きって言うだけじゃ、凪は鈍いからわからないかもな)


 朔真は浮かれていた。

 だから、凪の心にある恐れや不安に、気づかなかった。


 決心した朔真は、振り向き、手を差し出した。

 ずっと一緒にいた仲だ。言葉で語るより、触れれば気持ちが伝わると思った。


 あの時の――凪の絶望した顔。

 後悔しても仕切れない。自分の傲慢さと軽率さが、凪を苦しめた。


「――二度と失敗したくなかった」


 凪を見下ろしながら、ぽつりと朔真は言った。


「あの後からお前に距離を取られて、もう絶対に失敗できないと思った。気持ちを伝えても凪はきっと逃げる。だから凪が自分自身を受け入れるまで、待とうと思った」


 離れてしまった関係に焦る気持ちをひた隠して、それでも『いつか』を信じて待ち続けた。凪が自分に背中を向けるたびに、傷つきながら。


「さすがに『水瀬君』って呼ばれた時は、しばらく立ち直れなかったけど」

「それは朔真が」


 混乱から抜け出せないまま、凪は咄嗟に反論した。凪の言いたいことを察した朔真が、少しだけ笑う。


「俺のは自衛。人前でまで凪って呼んだら自制心ぶっ壊れそうだったし、俺がそう呼ぶことで誰かに同じように呼ばれるのも嫌だったし」


 そう言った朔真が、「なのにお前は」とため息をついた。


「珍しく出かけたと思ったら、あんな場所で、知らない男に『ナギくん』なんて軽々しく呼ばせやがって」

「……俺が、騙されたから、怒っているのか?」


 まだ理解しきれていない頭で言うと、朔真はまたため息をつく。


「ああ、色々怒ってるよ。けど俺が一番頭にきてるのは――」

「俺だって動こうと思ったんだ!」


 凪は朔真の言葉を遮って怒鳴った。


「いつまでも立ち止まってちゃダメだって、そう思って。朔真が彼女と――」


 はっと気づき、口を噤む。

 肩に触れる左手には、今も指輪があった。


「お前は俺を置いて行くくせにっ!」


 凪は感情のままに怒鳴り、左手を掴んだ。


「凪……」

「そうだよ、好きだよ! ずっと好きだよ! けどお前は俺を置いて行くし、怖いし、寂しいし、どうしようって言うんだよ。今更、昔好きだったなんて言われたって俺は――」


 とめどない感情の渦は、朔真からのキスに呑み込まれた。

 すぐに離れた唇を、凪は呆然と見つめた。


「凪、俺の話聞いて?」


 朔真は凪の手を掴み優しく外すと、左手の薬指を凪に見せた。


「これ……お前だから」

「え?」

「俺の脳内彼氏、お前だよ」


 目を瞬いた凪に、朔真は深く息を吐く。


「最初は女避けだったけど、凪も俺のこと好きだし、付き合ったらこういう指輪するんだなって思ったら外せなくなって」


 言葉を返せない凪を見て、朔真が苦笑を浮かべた。


「あーやっぱ引くよな。今の凪に言ってもそういう反応されると思って、誤魔化すつもりだったのに」


 そう言いながらも、朔真の目に後悔の色はなかった。


「だからさ、俺も同じ。昔からずっと……今も、この先も、凪が好きだよ」


 朔真の言葉が、心に入ってくる。


「距離を取られても、傍にいることだけは諦めたくなくて、同じ進路を選んだ。お前が一人暮らしを始めた時、近くに住みたかったけど、我慢した」


 朔真が口端をわずかに吊り上げる。


「その代わり、頻繁にお前の様子を見に行ってたの、気づいてなかっただろ?」


 部活もサークルも入らず、凪の動向を見守っていたこと。一緒にいられる基盤を作るためだけに、勉学に励んだこと。


 どうしたら一生凪と生きていけるか。そればかりをずっと考えていたこと。


「両親にも男が好きだって言ったし、凪の両親にもそれとなく話はしてある。もしかしたら凪のことだって、気づかれてるのかもしれないな」


 次々に明かされる事実に、凪は言葉を失った。


「朔真……」


 もう混乱はしていない。

 けれど何と言っていいのかわからず、凪は言葉を探して視線を落とした。


「……重いよ」


 ぽつりと、言葉を漏らす。


「あ、ごめん」


 朔真が慌てて凪の体からどいた。

 そういう意味じゃなかったんだけどと思いながら、凪は身を起こした。

 改めて周囲を見回して、ホテルの一室にいることに気づいた。


「ああ、別に何かするつもりでここに来たんじゃないから」


 凪の内心を察した朔真の弁明に、凪は小さく息を吐いた。


「……さっき」

「え?」

「怒ってるって言ったの、俺がアプリ使ったからじゃないの?」

「ああ、それもあるけど、待つことを理由に凪から離れすぎていた自分に一番腹が立った」


 そう言った朔真が、頭を凪の肩へと預けた。


「なあ、凪。俺もう、待たなくてもいい?」


 ずっと、ずっと、逃げていた。

 周囲の目から、朔真から、自分の気持ちから、逃げ続けていた。


 子どもの頃の自分が朔真の気持ちを知っていたら、やっぱり逃げていたと思う。


 今もまだ、恐怖は完全には消えてくれないけれど――。


「……プロポーズの話、どこから出てきたんだろうな」


 返事を別の話題で誤魔化すと、朔真の吐息が近くに触れた。


「ああ、会社でパートナーシップ制度の導入が決定したって聞いたから」

「は?」

「凪とそうなれたらいいなって妄想してたの、誤解されたんだろ。……まあ俺は、現実にしたいと思ってるけど」


 朔真は自分の指から指輪を外すと、凪の手を取り、躊躇なくはめた。


「親への根回しは済んでるし、いつでも引っ越せるように準備もしてるし、物件も頻繁にチェックしてる」


 指輪のはまった凪の手を、朔真は握りしめた。


「だからあとは、凪が覚悟を決めるだけだ」


 凪は思わず天井を仰いだ。


「……朔真、お前、重すぎるよ」


 呆れと、安堵と、諦めが、言葉となって口から溢れた。


「ほんと、重すぎる」


 けれどそんな朔真がいたから、自分は今こうして受け止められているのだろう。

 凪は、朔真の頭に、自分の頭をこつりとぶつけた。


「もう待たなくていいよ」


 中学の頃の、手を差し出されて逃げていた凪は、まだ心の底で、そっとこちらを伺っているのかもしれないけれど。


「凪」


 名を呼ばれ、唇が重なった。


 きっと、歩いていける。

 暗い夜を抱えて道が見えなくても。

 それでも――朔真が照らしてくれるから。


 そんな確信めいた感情を抱きながら、凪は目を閉じた――。



〈完〉

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