第5話 静謐の律
数日が過ぎた。
レンは中央庭園に繋がる閲覧室で、ひとり本を読んでいた。
天井まで届く大きなアーチ窓から、午後のやわらかな日差しが降り注いでいる。窓の外に広がる庭園には白や橙の花が咲きこぼれ、陽光の下で淡く輝いていた。
閲覧室には、主に稀人関連の書物が保管されている。壁一面の本棚には、伝承から日記、さらには絵本のような創作物まで様々な書物が並んでいた。
レンは中央のソファに身を沈めながら、ページをめくった。読んでいるのは先代稀人が残した日記だ。
異世界での生活は少しずつ馴染んできて、日常の端々で驚くことはあっても、不自由に感じることはほとんどなくなっていた。一方で、自分に宿るという稀人の力は感じられないままだ。
稀人の力を発動するためのヒントはないかと閲覧室に通っていたレンだったが、望む結果は得られずにいた。この日記にも『すぐにあらゆることがわかった』という曖昧な一文が記されているだけだ。
「少し休憩したらどうだ?」
声と共に、甘い香りがレンの鼻腔をくすぐった。
視線を上げると、リュイがソファの前のローテーブルに紅茶とクッキーを並べている。柑橘のジャムが沈んだ紅茶と、生地にナッツが練り込まれたクッキーは、数日前に初めて食べたレンがおいしいと絶賛した組み合わせだ。
「あまり根を詰めすぎてもよくないぞ」
そう言ったリュイが、レンの対面に腰を落とす。毎日の食事だけでなく、こうした間食もリュイと二人で過ごす時間となっていた。
「わかってはいるんだけどね……」
レンは歯切れ悪く答え、小さく吐息を漏らす。
「せめて瘴気を祓うやり方くらい書いてあればなぁ……。『なんとなくわかった』とか『手をかざすだけ』とか、そんなのばっかり」
「稀人の力が発露すれば、すべて解決することだ」
だから焦るな、とリュイは言っているのだろう。ここ数日レンが思い悩んでいることにリュイは気づいているようだった。
「ほら、冷めるぞ。レンの好みの甘さにした」
「ありがとう」
紅茶を口にしながら、レンはなんとなく室内を見回した。
「稀人の本って、ここにあるのが全部なんだっけ」
「判別不明な石板の類以外は、全て副本にしてここに収めていると聞いている」
レンは「ふうん」と呟き、クッキーに手を伸ばす。
稀人の召喚が百年周期ということもあり、残っている資料はどれも古い。少しでも長く保管するために、原本は墨封の塔と呼ばれる保護魔法がかけられた書庫に厳重に保管されている。
「何か気になることでも?」
「いや……最初のエメルって人が召喚されてから一万年以上経つんだろ? それだけ長い期間の割には、量が少ないなって」
「瘴気と……大災害で失われたと伝えられている」
リュイが「大災害」という前にひと呼吸おいたのは、その原因が稀人の不慮の死にあるからだろう。
「大災害が起こるたび全て灰塵に帰したそうだ。もっともそれすら数百年以上前の話で、初代稀人様が召喚された時代については、もう神話の領域だな」
レンはクッキーを齧りながら、遠い昔に思いを馳せる。この世界と元の世界の時間軸が同じなら、エメルが召喚された頃は旧石器時代にあたる。世界最古の文字は、確か五千年ほど前だったか――。
「瘴気による消失も深刻だったようだ。瘴気はあらゆるものを闇に溶かす。汚染された大地を清めても、草木は芽吹くが失われた命は二度と戻らない」
「……今も瘴気が迫ってるんだろ。俺が早くなんとかしないと」
レンがそう呟くと、リュイは眉間に皺を寄せた。レンの焦りを誘発してしまったことを後悔しているようだった。
「先代稀人の残した結界がある。神殿魔術師の見立てでは、当分壊れる心配はないようだ」
レンを安心させるためか、リュイはそう言うとクッキーの皿をレンのほうへと押した。
「それよりも、俺の作った菓子の反応を聞かせてくれ」
「えっ……これリュイが作ったの!?」
レンは口の中にある欠片を飲み込むと、すかさずもう一枚手に取った。
「菓子も作れるんだ。すごいな。最初に食べた時のよりうまいかも!」
途端に顔を輝かせたレンを、リュイは安堵の眼差しで見つめた。
◇ ◇ ◇
「俺はもう行くが、ほどほどにな」
リュイが立ち上がり、背を向けて歩き出す。
その時、扉の横に置かれた観葉植物の葉の裏で、小さな光が跳ねた。差し込む陽光のせいだろうか――リュイはそれを一瞥することなく部屋を出ていく。
ふと、レンの頬を風が掠めた。
『――翡翠の王様』
耳元で、遠い鐘の余韻のような幼い声が響いた。
「だれ?」
レンは驚いて声の主を探した。レンの視線から逃れるように光の粒が部屋中を駆け巡る。それはクッキーの上でくるくると回ると、音もなく弾け、ふわふわした白い球となった。小さな毛のようなものが表面を覆っている。
レンは、子どもの頃に飼っていたハムスターを思い出した。白い毛並みの小さなジャンガリアンハムスターだ。
「……スピカ?」
思わず名を呼ぶ。直後、白い球体は宙をぴょんぴょんと跳ね、またくるりと回った。
「スピカ! ボクのなまえ! 翡翠の王様がボクになまえをくれたよ!」
突然しゃべりだしたそれを、レンは呆然と見つめた。
「しゃべ……え?」
白いそれは、理解が追いつかず目を瞬かせるレンの顔に近づいた。よく見ると、背中に小さな羽が生えている。つい先日読んだ絵本に、このような絵が描かれていた――精霊と人々が語らう場面だ。
「……精霊?」
口にしてから、レンは自分の言葉に少し戸惑った。
目の前のそれが、まるで肯定するかのようにくるくると踊る。
「精霊……ほんとうにいるんだ……。しかも喋れるって……」
そう考えた瞬間、レンの中で小さく何かが弾けた。
「あ、もしかしてこれ、稀人の力なのか……?」
希望がレンの胸に湧く。レンが確認しようと身を乗り出すと、その鼻先にスピカがちょんと触れた。
「ふつうのことだよ、翡翠の王様!」
聞く前にスピカが答える。
普通なのかと脱力するレンの前で、スピカは嬉しそうに跳ねた。
「……なあ、瘴気を祓う方法、わかる?」
さほど期待せずに問う。くるくる回っていたスピカが、ぴたりと動きを止めた。
「……翡翠の王様は、しってるよ?」
「知らないから困ってるんだよ……あと、その『翡翠の王様』っていうのやめてくれないか? 翡翠宮には住んでるけど、俺は王様でもなんでもないし……」
「翡翠の王様は翡翠の王様だよ! ボクに名前をくれた翡翠の王様!」
レンはため息を吐いた。
「……君のことスピカって呼ぶから、俺のことはレンって呼んでくれないか」
「レン! ボクはスピカ!」
「うん……ねえスピカ、稀人の力のこと、何か知らないか? どうすれば力が使えるようになるんだろう?」
またスピカがくるくると踊り出す。
「ぜんぶぜんぶ、すぐにわかるよ!」
「……またそれかよ」
気落ちするレンの周囲を楽しそうに飛び回ると、スピカは「またね」と虹色の光を弾いて消えてしまった。
(結局何もわからないままか……)
それとも、スピカが言うように全部すぐにわかるのだろうか。
レンはため息をつくと、紅茶を一口飲んだ。
柑橘のほろ苦さが、前に飲んだ時よりも強く感じたような気がした。
◇ ◇ ◇
自室に戻ったレンは、椅子に座りぼんやりと考えていた。視線の先にあるのは、わずかな光を放つ台座に載った『魔晶球』と呼ばれる半透明の球体だ。球の下部は白く、上にいくほど濁っていて、てっぺんに至っては墨が塗られたように黒い。
魔晶球は、瘴気の状態をわかりやすく視覚化した魔道具だ。黒い部分は瘴気で、すべて黒くなると世界が滅ぶと言われている。
数日前、神殿魔術師がこの魔晶球を部屋に運び込んだ時、それはすでに三分の一ほどが黒くなっていた。魔術師が言うには、先代稀人が亡くなって五十年ほど経つが、その頃からほとんど変わりがないらしい。
(……けど、そんな時間が経ってたら、いつ結界が壊れてもおかしくないんじゃないか?)
レンの不安は尽きない。
三分の一が黒くなっていればそう思うのも当然だろうが、レンの心情に反して周囲は冷静だ。
元々、瘴気がたびたび迫る辺境地帯はほとんどが無の大地となっていて、瘴気と人里を隔離する森が間に広がっている。瘴気がこの森に到達すると瘴気氾濫の合図となるが、ここ数百年はそうなる前に稀人により浄化されていたという。
つまり今の状態が、この国による平常状態だ。
そう説明されても、やはりレンは考えずにはいられない。
この世界に召喚され、二度と帰れない事実を突きつけられ、けれど肝心の瘴気を祓う力は得られていない。レンが発揮したのは、召喚初日に怒りで嵐を呼んだことだけだ。あれが稀人特有の力だとしても、そんなものは誰にとっても不要だろう。
レンはため息をつくと、魔晶球から目を逸らした。
何かしていないと落ち着かない気分になり、夕飯でも作りに行こうかと立ち上がる。前にリュイが作ったスープのレシピを聞いておけばよかったなと思いながら歩き出すと同時に、部屋にノックの音が響いた。
「レン、夕飯にしよう」
リュイが部屋に姿を見せる。傍にある配膳台にスープを見つけ、レンは思わず顔を綻ばせた。
「それ……」
「ああ、前においしそうに食べていたから、気に入ったのだろうと思ってな」
紅茶とクッキーもそうだが、今日のリュイはレンを甘やかしすぎているのではないか……妙な気恥ずかしさを感じながら、レンは皿を並べた。
「俺、そんなに顔に出やすい?」
リュイは答える代わりに口端をかすかに上げた。別の者がやれば気障に見える仕草も、リュイがやると不思議と様になっている。
「リュイの家……クォーリア家って、三大伯爵家のひとつって言ってたよな」
「そうだが、何か気になることでも?」
「仕草とかいちいち決まってるなと思ってさ」
レンの言葉に、リュイはわずかに目を見張る。
翡翠宮の中では軽装になることの多いリュイだが、それでも常に背筋を伸ばし凛とした姿勢を崩さない。貴族の血脈と日々の習慣がそうさせているのだろうか。
「レン。それは……気に障ったということか?」
「え? 逆だよ逆」
レンがそう言うと、リュイは小さく吐息を漏らす。
「それなら良かった。態度を改めるとしても、多少の時間はかかるからな」
また甘やかされている気配を感じ、レンは話題を変えた。
「俺、爵位には詳しくないけど、三大伯爵ってどれくらい偉いの?」
「ああ、公爵に次ぐ第二位だ。三家をあわせた領地は広大だが、稀人関連に従事する性質上、政治への発言は控えることになっている」
「ふうん、政教分離みたいなものか。……あ、そういえば」
レンはふとはじめて会った日のことを思い出し、顔を上げた。
「最初会った時に宰相がいたけど、王政ってことは王様がいるんだろ?」
「……ああ」
頷くリュイの瞳が一瞬だけ翳るのを、レンは見逃さなかった。不思議に思いながらも、頭に浮かんだ疑問を優先する。
「えっと……俺、王様に謁見しなくていいのかな」
「……いずれは」
リュイは短く答えると、レンから視線を逸らした。
その言葉の裏に含まれる『何か』が、レンの胸に引っかかる。
(会わせたくない……? それとも、王様のほうが俺に会いたくない、とか……?)
会いたくないなら会わなくてもレンは問題ないが、それよりもリュイの態度のほうが気になった。
「……気のせいならいいけど、もしかして、俺に言えないことがある?」
リュイはレンから目を逸らしたまま、無言で配膳を始めた。その態度がレンの問いへの答えに見え、レンは思わず目を伏せた。
「お、おれ、お腹空いたな!」
咄嗟に出した声は変に裏返り、レンは慌てた。
「こ、このスープのレシピ教えてもらおうと思ってたんだ。豆の食感が特に良くて……リュイが考えたのか?」
「いや、これは母から教えられた。母も祖母から教えられたそうだ」
リュイが答えてくれたことにレンは安堵した。
「お母さんは神殿の外で暮らしてるの?」
「クォーリア伯爵領で暮らしている」
「ああ、キアニア地区の外だっけ」
エメル神殿を中心にしたキアニア地区。その三方に三大伯爵家の領地があると教えられたことを、レンは思い出す。
「ここの生活にもう少し慣れたら、キアニア地区にも行ってみたいな。あとリュイの実家も見たいし、他の場所も見てみたい」
レンは何気なく言ったが、リュイが何の反応も返さないことに気づいて視線を泳がせた。
なぜか鼓動が激しくなり、胸の奥が締め付けられるような感覚に陥る。
「……リュイ?」
そっと名前を呼んだが、リュイはレンを見ようとせず、険しい顔のまま虚空を睨んでいる。
深掘りしてはいけない。レンの直感がそう告げた。これ以上、聞いては駄目だと。
「…………もしかして、神殿から出るのに面倒な手続きがある、とか」
駄目だと思いながら、レンの口から言葉がついて出た。リュイの表情の変化を見て、レンは自分の言葉があながち間違いではないと気づく。
「そ、そうだよな。万が一外で怪我したら大変だし。警護つけるなら色々決めることも多いだろうし。お、俺の国でも、そういう話聞いたことあるよ。一年くらい前から計画決めたりするんだろ? 俺はそれでもいい……から――」
レンは口を噤んだ。リュイの目がレンに向けられたからだ。そしてそこには、レンが初めて見る緊張の色が宿っていた。
レンの前へと向き直ったリュイが、突然跪く。
二人の間に張り詰めた空気が流れた。
「……貴方に」
静かな、けれど重苦しさの孕んだ声で、リュイが言う。
「……貴方に、伝えなければならないことがあります」
◇ ◇ ◇
「……伝承によれば、最初の稀人――エメル様が亡くなられてから、数百年後のことだ」
リュイは一度言葉を切り、静かに息を整えた。その声音には、ただ事実をなぞるだけではない、微かな重みが滲んでいる。
「二代目の稀人の時代、奇妙な死が続いた。稀人に触れた女性たちが、次々と命を落とした」
それは抱擁のような明確な接触だけではなかった。
指先が、ほんのわずかに触れただけの者すら――例外なく。
「聖職者たちは、その原因を『女性の穢れ』に求めた。真偽を確かめることもなく、神殿とそれを囲むキアニア地区は女人禁制となった」
リュイの言葉に、レンは今更ながら気づいた。
召喚されてから今まで、一度も女性に会っていないことを。
「こうして生まれたのが――『稀人は、女性に触れてはならない』という掟だ」
だが、とリュイは低く続ける。
「それで終わりではなかった」
亡くなった女性たちを憐れんだ稀人は、ある日神殿を抜け出した。
残された家族に、せめてもの償いとして金品を渡すために。
「そして次の悲劇が起こる……神殿の外へ出た直後、稀人が急逝したのだ」
その瞬間、大地が裂け、天が荒れ、かつてない災害が世界を襲った。
「当初は偶然だと考えられたらしい。だが、同じことが繰り返された。三代目、四代目と……」
リュイはそこで言葉を濁した。数を語ること自体に、意味がないとでも言うように。
「稀人が神殿を離れるたび、必ず死が訪れ、そのたびに災厄が起きた。……こうして定められたのが、『稀人は神殿の外に出てはならない』という掟だ」
深い呼吸のあと、リュイは視線を伏せたまま続けた。
「そして、稀人の死が世界に禍をもたらす以上――稀人自身が、いかなる禍も受けてはならない」
それら三つの戒めは、やがて一つにまとめられた。
「……『エメルの
静謐――稀人が、世界を静かに保つための律。
レンは息を吐こうとして、口の中が乾いていることに気づいた。
耳に入る言葉を理解したくないのに、リュイの声は、残酷なほど優しく、レンの心に突きつけている。
これが、紛れもない真実だと。
「……あ……おれ……」
ようやく出た声はひどくしゃがれていた。縋るようにリュイを見る。
リュイは跪いたまま、レンを見上げている。
そんな目で、そんな姿勢で、話さないで欲しかった。
「……レン。貴方は……稀人の貴方は、エメル神殿の外では……生きられない」
どくどく鳴る鼓動で全て掻き消えればいいのに。
「この神殿の中で生涯を過ごす。それが稀人の……貴方の定めです」
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翡翠の王は、まどろみの夢を見る あるらかいん @ARLcain
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