わたしの雷雲
尾八原ジュージ
わたしの雷雲
母が亡くなる前、わたしに小箱をくれた。むかし家にあった徳用マッチ箱よりもふた回りくらい小さな箱。上下は水色で側面は緑色、白い鳩が描かれている。この箱を検索窓に詰めたら「牧歌的」という言葉が表示されそう。そういう箱をくれた。
「この箱の中には、百年前の雷雲が入っているんだよ」
母はそう言った。
小箱に耳を当てると、ごろごろという音がした。目を閉じてじっと聞いていると、まぶたの裏にパチパチ光る稲妻が見えてきた。
「いざという時使いなさい。わたしは使うことがなかったけれど」
わかった、と答えた。翌日、母は病室のベッドの上で息を引き取った。
「いざという時」とは果たしてどういう時なのか、母は何も言わなかった。この箱を開けたらどういうことになるのかも、教えてもらえなかった。
それからというもの、わたしの人生は「いざという時」を待つためのものになった。
何しろ箱を開けたかった。小さな牧歌的な箱は、常に雷雲の不穏な気配を放っていた。でもそれは「いざという時」でなければならなかった。それが母の遺言であるならば。
しかし「いざという時」は訪れず、そもそも何が「いざという時」なのかもわからないまま、年月が過ぎた。「いざという時」に備えて結婚などせず、子どもも持たなかったので、わたしは箱を譲る先を持たなかった。
つまり、なんとしても私の代でこの箱を開けなければならなかった。それで旅支度をして、箱を携えて、杖をついて旅に出た。
「いざという時」は暖かい地域よりは寒い地域にありそうだと思って、まずは北へ向かった。歩けるところまで歩き、暗くなればそこで野営した。いつでも開けられるよう、小箱を胸に抱いていた。小さな雷鳴を聞きながら眠った。
そうするうちにいよいよ北の端へ到着した。
陸地はそこで途切れ、深い深い断崖がどこまでも続き、底は真っ暗で何も見えなかった。いかにもこの下に「いざという時」がありそうな気配を醸し出していた。
さて断崖の底へ至るには、陸地の端に設置された高い柵を越えなければならない。しかししばらく歩いてみても、柵に切れ目はない。
これほどままならない状況に陥ったことはなく、さては今こそが「いざという時」なのかと一瞬色めき立ったが、しかしこの小箱を開けてしまえばそこで目的は終わり、柵を越えたとて、もはや何の意味もない。かといってこの北の端にとどまったところで、「いざという時」が訪れる予兆もなかった。
ベンチに座って弁当を食べ、柵の手前に設置された望遠鏡に硬貨を入れて、断崖の彼方の闇を覗いた。することがなくなったので、小箱を取り出して頬ずりをした。小箱は猫のようにごろごろと鳴った。
わたしは立ち上がった。今度は南端を目指そうと決めていた。
わたしの雷雲 尾八原ジュージ @zi-yon
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