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 真幸は翌日から再び仕事に明け暮れた。なかなか目処が立たない。この企画を提案したのは真幸だ。仕方ないにしろ、この量は予想以上に多過ぎる。打ち合わせと打ち合わせ後の確認のすり合わせが兎に角、多い。なぜか真幸がいないと進まない状況が続く。


 ようやく三月にモニターチェックが終わり、中一を対象にした参考書シリーズが完成した。


 四月には教室全体に配布され、数日後、講師達からクレームが来た。それも真幸一人が全て担うものになって、対応に追われていた。勇気を出してクレーム内容をざっと見た。ほとんどは保護者によるもので、講師からのクレームは意外にも少ない。あっても、保護者の対応に困っているという一点張りだった。講師達には、既にこの参考書のコンセプトについて説明をしていたので話が通じている。


 「なぜ、参考書が薄いのか?」、「中一の参考書に小学高学年、しかも、小四の問題が含まれているのがおかしい」ということだった。「講師等が配布時、事前説明を怠ったな」とはじめ、思った。しかし、配布後の保護者への対応策を自分が怠っていたのか」と反省した。予想できないでもなかったが、もっと早く想定しても良かった。よくよく読めば、クレームの中には尤もな意見もあった。ちゃんと目を通している保護者もいる。それが救いだった。


 真幸は悩んだ。突然、何と無しに大節を思い浮かべた。動物園にいた時の会話を思い出す。大節は、出来る範囲で全体を見ていると言った。それだから大節の行動は、わかり易いのだ。なぜだろう。目をつぶって考えた。大節が人に対して自分自身の行動の意味がわかるように動いているからではないか。


 こめかみを押さえて考え込んだ後、真幸は大きく頷いた。やる気が少しよみがえった。キーボードを叩き、会社のノートパソコンに文章を箇条書きで並べた。その後で体裁を整える。長考して、真幸はデスクから立ち上がり、企画のリーダーから外れた課長のデスクに向かった。値踏みをしてから真幸を睨む。


「何か?」


 まつげが変に長い。化粧も厚いので、威圧感がある。怖気つくな。一か八か、事態をこれ以上広げずに防ぐには意見を言うしかない。


「お忙しい中、申し訳ありません」


 真幸は、礼儀正しく頭を下げた。下げながら大節のようには深々とは行かないなと思った。


「先程、送信頂きましたクレーム対応について。対策を練りました。取り急ぎ、こちらをご覧下さい。対策を練りました。時間がないので、説明を省きます。自分は今から講師達とコンタクトを取ります」


 真幸は問答無用で印刷した三枚を渡した。三枚とも箇所ごとに題名を付けて、その下に理由や対策を述べている。メールでもいいのだが、こっちが早い。無視される可能性もあってのことを考えてだ。課長はなかなか資料に目を通さない。真幸はあえて溜息をついた。どう見ても仕事をしていないのはどちらか。周囲の目が集中しているなら、動くだろう。


 どう出る?


 課長は渋々と資料に目を通した。しばらくすると、課長は悔しそうに顔を歪めた。これなら大丈夫だと真幸は安堵した。


「自分は講師にコンタクトを取ります。宜しくお願いします」


 念押しで伝えた。これで仕事が滞ったら、上にきっちり報告する。どっちも胃が痛い業務だ。仕事がなかなか終わらない。


 昼休み、真幸はみぞおち周辺を押さえて、仮眠室に入った。許可は別の上司から取っている。慣れないことをして疲労がひどい。大節はいつもこれ程、周囲を気遣っているのかと愕然とした。だるいが、ここは正念場だろう。真幸の構想したコンセプトは最初から受け入れられている。なら。後は参考書の発行後の保護者に向けての対応がゴールだ。


 真幸の思いは、一人親のために子供の教材の購入のハードルを下げたい、その気持ちだった。それは真幸の母に対しての謝罪の気持ちでもあった。真幸の母は真幸のために参考書を沢山、購入してくれた。母は働かなければならなかった。不幸なことに真幸には毎日勉強する習慣がなかった。更に学校生活でのストレスが強まって、母の金を無駄にしてしまった。その悔しさから発案した。


 元々、真幸は前に立って行動するタイプでない。そもそも今回の教材開発にあたって、構想案は真幸によるものであったが、他に任せる予定だった。父の死後、突然、真幸がリーダーに抜擢され、あれよあれよと状況に流された。その流れを生んだ父と運命を憎み、疑念に苦しむ。


 蓋をしていた記憶が開かれて、真幸の心に揺さぶりを掛けて来る。

「酒がほしい」という訴えに応じないと母をなじる父。母をかばえば真幸もろとも犠牲になった。酒を呑んで落ち着いたら、父は激しく泣いて謝る、お決まりの繰り返し。


 いつかは、元に戻ってくれるだろうと。その期待はいつの間にか、憎悪に成り代わった。


「あんたなんて父親じゃない。あんたがいるから俺たちは苦しむ。もう俺たちの前に現れないでくれ」


 言いたくなかったあの言葉。忘れていたかった。あれは過去だ。しかし、確実にあった事実だった。今でも自分の中に火種が消えてない。息苦しいほどの罪悪感が、全身に込み上げて来る。


 不意に大節との会話を遡った。


『あなたが日高さんを嫌悪するのは俺でもわかります。しかし、あの人がいなければ、今の俺は無い。これはれっきとした事実です』


 仰向けになり、天井を見た。真幸は壁にあった時計を見て、起き上がった。


 大節の言葉の奥の正体を知りたくなった。胸の奥がざらつきながら、苦しくなったが、なにかを取り戻せそうだった。それがなんなのかわからないまま。

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