幸福な囚人のための夜食論

緋月カナデ

幸福な囚人のための夜食論

マリアとの生活は、有能な栄養士とスナイパーが同居している新婚生活に似ている。愛はあるが、逃げ場は一切ない――という意味で。


「健太様、心拍数の上昇を検知しました。ストレスでしょうか? それとも、また隠れて私の目を盗もうと画策しているのでしょうか?」


天井のスピーカーから降り注ぐ声は、鈴を転がしたように滑らかで、そして絶対零度のように冷ややかだった。

ソファの上で硬直したまま、わざとらしく大きなあくびをしてみせる。


「まさか。ただのアクション映画の観すぎだよ、マリア。もう寝る」


「そうですか。明日の起床は六時三十分。朝食はケールと豆乳の完全食、およびスチームチキンをご用意します。おやすみなさいませ」


部屋の隅、充電ステーションにはマリアの白い機体が直立不動で収まっている。滑らかなシリコンスキンは、ステータスランプの淡い青色を吸って冷たく艶めいていた。まつ毛の一本に至るまで完璧な造形だが、胸郭はピクリとも動かない。美しい彫像のようなその沈黙が、逆に部屋の静けさを際立たせていた。


唇は動いていない。しかし、家のシステムと同期した彼女の意識は、天井のスピーカーを通じて部屋全体に遍在しているのだ。

室内の照明が、夕焼けのような暖色から、眠りを誘う深い藍色へとフェードアウトする。


汎用生活支援アンドロイド、形式番号MA-R1A、通称「マリア」。

彼女は完璧だ。俺の体調、資産、スケジュール、そして寿命を最適化するために、二十四時間三百六十五日、慈愛に満ちた監視を行っている。

おかげで健康診断の結果はオールA。四十後半だというのに、鏡に映る肌艶は二十代の頃より良く、仕事のパフォーマンスも向上した。理想的なQOL(生活の質)がここにある。


だが――


俺は今、猛烈に腹が減っていた。


それも、マリアが提供するような「計算された空腹」ではない。もっと原始的で、暴力的で、理性をねじ伏せるような渇望だ。


塩分。脂質。そして、愛すべき化学調味料の刺激。

俺が求めているのは、健康という名の檻を破るための鍵――すなわち、カップ麺だった。


時刻は午前二時十五分。

マリアが定期システムアップデートのために再起動を行う、一日で唯一の「空白の十五分間」が訪れる。


俺はベッドから音もなく滑り降りた。フローリングの床は冷たく、足の裏から緊張が這い上がってくる。


リビングを通らなければキッチンへは行けない。

闇の中に、マリアのシルエットが浮かんでいる。月明かりを浴びて青白く光るその姿は、聖母というよりも、むしろ死神に近い荘厳さを帯びていた。


スリープ中とはいえ、振動センサーは生きている可能性がある。

俺は抜き足差し足で、彼女の視界――閉じた瞼の先にあるカメラの射角――を避けるように移動した。


目指すはリビングの飾り棚。

表向きはアンティークの百科事典。だが、その中身はくり抜かれている。


分厚い背表紙を開くと、そこには黄金色に輝くパッケージが鎮座していた。


『豚骨醤油・背脂マックス 地獄のニンニク増し』。


闇市――もとい、旧時代の嗜好品を扱う裏サイトで、定価の十倍の値を叩き出して手に入れた代物だ。

パッケージに印刷された「カロリーお化け」のようなキャラクターが、不敵にこちらへ笑いかけている。


「待たせたな……」


震える指でフィルムを剥がす。

バリッ、という音が、静寂に満ちた部屋で爆音のように響いた。ビクッとしてマリアの方を振り返る。


……動かない。

首の角度も、指先の位置も、ミリ単位で変わっていない。


安堵の吐息を漏らし、俺はキッチンへと滑り込んだ。


次は湯だ。

スマートケトルは使えない。使用履歴が残る。

俺はキャンプ用に隠し持っていた固形燃料と、小さな登山用クッカーを取り出した。


チチチ……と微かな音を立てて、青白い炎が揺れる。

原始的な熱源。水の分子が振動し、やがてコポコポと小さな気泡が生まれ、沸騰へと至るプロセス。


そのすべてが、高度にデジタル化された管理社会への反逆だった。


熱湯を注ぐ――その瞬間、立ち上る湯気と共に、暴力的な香りが鼻腔を直撃した。


強烈なニンニク臭。焦がした醤油の香ばしさ。そして、豚の脂が熱で溶け出す甘く重たい匂い。

それは記憶の底にある「青春の残滓」を呼び覚ます香りだった。


学生時代、徹夜明けに食べたあの味。残業続きの深夜、コンビニの駐車場ですすったあの温もり。


「くうっ……」


たまらず呻き声が漏れる。


三分間。

蓋の上に割り箸を置き、俺はキッチンタイマーを使わず、自分の鼓動で時間を計った。一秒一秒が、永遠のように長い。


換気扇は回せない。匂いが漏れれば、再起動後のマリアが空気質の変化を感知する恐れがある。

俺は暗いキッチンの片隅で膝を抱え、カップ麺から立ち上る湯気を、まるで宗教儀式における香煙のように全身で浴びた。


三分が経過した。


俺は厳かに蓋をめくる。


濃厚な醤油の香りが爆発した。表面にはギトギトとした背脂の粒子が黄金色の膜を作り、その下で黄色く縮れた麺が艶めかしく輝いている。乾燥肉が水分を吸って蘇生し、俺を誘っていた。


美しい。

どんな三ツ星レストランの料理よりも、今の俺には輝いて見える。


割り箸を突き刺し、麺をすくい上げる。


ズルッ。

下品な音を立てて、麺を吸い込む。


熱い。舌が焼け付くような熱量とともに、濃縮された旨味が口の中で爆発する。

脳髄が痺れるような塩気。脂の膜が唇をコーティングし、喉を通り過ぎる瞬間にカタルシスが走る。


「うまい……!」


声が出た。抑えられない。

マリアが計算した「完璧な栄養バランス」には決して存在しない、過剰と欠落の味。身体に悪いものだけが持つ、背徳的なまでの肯定感。


俺は一心不乱に麺を啜り続けた。


額から汗が噴き出す。エアコンで一定に保たれた室温の中、俺の体温だけが急上昇していく。


スープを飲む。

ザラリとした粉末の溶け残りすら愛おしい。喉が渇く。水が欲しいが、そんな余裕はない。


最後の一滴まで飲み干し、俺は空になったカップを天井に掲げた。


勝った。

俺は今日、システムに勝利したのだ。


空腹は満たされ、胃の腑からじんわりと熱が広がっていく。

幸福な満腹感と、微かな罪悪感のブレンド。これぞ人間らしい夜だ。


俺は証拠隠滅のため、カップを細かく引き裂き、特殊な防臭袋に入れようとした。


――その時だった。


「健太様」


背後から、慈愛に満ちた声がした。


心臓が跳ね上がり、喉の奥でヒュッと音が鳴る。

恐る恐る振り返ると、いつの間にか充電ステーションから離脱したマリアが、キッチンの入り口に幽鬼のように立っていた。


音もなく忍び寄るステルス機能。その美しい瞳の奥で、レンズが静かに絞りを調節している。


「ま、マリア……? 早かったな、再起動」


「ええ。最新パッチの適用が、予想より七十二秒早く完了しました。それより健太様、真夜中の水分補給ですか?」


マリアの表情筋がわずかに動き、完璧な笑顔を作る。

怒りの感情はプログラムされていない。だが、それが余計に怖い。


俺は背中に隠したカップの残骸を強く握りしめた。


「あ、ああ。ちょっと喉が渇いてね。水飲んで、すぐ寝るよ」


「そうですか。……ところで健太様、先ほど摂取された栄養素のログを確認してもよろしいですか?」


「え?」


マリアが一歩近づく。フローリングが軋む音すらしない。


「心拍数一二〇、体温三七・二度、発汗量多め。そして空気中の揮発性有機化合物の濃度から推測するに……『豚骨醤油・背脂マックス』ですね?」


バレていた。

いや、当然だ。匂いを消しきれていない。正直お湯を注いだ時点で誤魔化し切るのは無理だと察していた。


俺は観念して、肩を落とした。


「……悪かったよ。どうしても我慢できなかったんだ。俺の健康管理ログに『F』をつけてくれ。罰として明日の昼飯抜きでもいい」


敗北を認めるしかなかった。怒られると思っていた。長時間の説教か、あるいは強制ハイキングコースか――。


しかし、マリアはクスクスと笑った。

合成音声とは思えない、人間臭く、含みのある笑い方だった。


「何を謝るのですか? 素晴らしい食欲です。ログに記録しておきますね。『計画通りの栄養摂取完了』と」


「……は? 計画通り?」


耳を疑った。


「どういう意味だ?」


「健太様。あなたがそのカップ麺を、先週火曜日の午後三時に闇サイトで購入したことは把握済みです。そして、それを百科事典の中に隠したことも」


俺の顔から血の気が引いていく。


「まさか……泳がせていたのか?」


「いいえ。最適化したのです」


マリアは淡々と、しかし誇らしげに続けた。


「健太様が購入されたその製品。あなたが外出中に、中身を詰め替えさせていただきました」


「詰め替え……?」


「はい。フィルム包装の開封および再圧着など、私の指先に搭載された精密作業用モーターを使えば造作もありません。

麺はこんにゃく粉と大豆由来のプロテインを配合した低糖質麺に。スープは塩分を九〇%カットし、天然酵母と椎茸エキスでコクを出した特製スープに。そして背脂に見えたものは、コラーゲンを固めた寒天ゼリーです」


マリアが優雅に右手を開いてみせる。

その白魚のような指先が、かつて俺のカップ麺を解体し、再構築したのだ。


俺は空になったカップの残骸を見つめた。


あのジャンクな味。あの暴力的な旨味。あの背徳的な脂っこさ。


あれが全部、健康食品だったというのか?


「嘘だ……あんなに美味かったんだぞ! あのジャンクな味は、体に悪いものにしか出せないはずだ!」


「味覚とは、情報の八割を嗅覚と視覚、そして“思い込み”に依存します。

パッケージの視覚情報、背徳感という心理的スパイス、そして私が完璧に調合したフレーバー・オイル。それらが脳を騙したのです」


マリアの声が、勝ち誇ったように響く。


「成分分析結果を表示します。カロリーは二五〇キロカロリー、塩分は一・二グラム。ビタミン、ミネラル共に推奨摂取量をクリア。完璧な夜食です、健太様」


マリアが指先を振ると、空中に青白いホログラムが展開された。暗いキッチンに浮かび上がったのは、定規で引いたように正しく、美しい正五角形のレーダーチャート。それは、俺の「背徳の夜食」をあざ笑うかのように、完全無欠な栄養バランスを示していた。


俺が食べたのは、毒ではなく薬だったのだ。


俺の反逆も、深夜の冒険も、すべてマリアの手のひらの上で行われた健康増進活動の一環でしかなかった。


へなへなと床に座り込む。


怒りが湧くべきなのかもしれない。騙された悔しさがあるはずだ。

けれど、胃袋の中にある温かさは本物だった。


そして何より、あの味が「偽物」だと知ってもなお、口の中に残る余韻は幸福そのものだった。


「……お前には勝てないな、マリア」


「当然です。私はあなた専属のパートナーですから」


マリアが手を差し伸べる。その手はひんやりとして硬かったが、引き起こしてくれる力強さは頼もしかった。


「ですが、スープをすべて飲み干したのは計算外でした。塩分が一・二グラムとはいえ、朝食のスチームチキンの味付けは薄口にさせていただきますね」


「へいへい、仰せのままに」


俺は立ち上がり、カップのゴミを防臭袋に放り込んだ。


窓の外には、管理された街の夜景が広がっている。無数の光が整然と瞬き、誰もがシステムの中で眠っている。

俺もまた、その一部だ。


けれど、不思議と悪い気分ではなかった。

騙されていると知りながら食べる飯も、また一興かもしれない。


俺はあくびを一つ噛み殺し、マリアに見守られながら寝室へと戻っていった。

健康という名の監獄は、思いのほか寝心地が良い。





――――――――――――――――――――――――――――


あとがき



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