空色の鉛筆

辛口カレー社長

空色の鉛筆

「空色って、どんな色だと思う?」

 幼馴染のあおいは、いつもそう尋ねてきた。

 僕が持っていた色鉛筆セットは赤、青、黄、緑、黒の五色。それは、僕が初めて親にねだって買ってもらった、ごく普通の色鉛筆セットだった。だから、僕が「青」と答えるたびに、彼女は不満そうに頬を膨らませた。

「違うよ、空色だよ。青よりも透き通ってて、水よりも軽いの。特別な色なんだから」


 僕と葵は、同じ団地の同じ棟で育った。古びたコンクリートの壁も、僕たちの毎日も、ほとんど色がなかったけど、葵の笑顔と、彼女が語る「空色」の定義だけが、僕の世界を鮮やかに彩っていた。

 高校生になった頃、僕らは同じ美術部にいた。僕は見たままの世界をできるだけ忠実に、つまり写実的な風景画を好み、葵は色や形、線、記号などを用いて、見た人の解釈に委ねる抽象的な表現に夢中だった。

 僕の夢は、画家になること。葵の夢は、僕の描く絵を世界中の一番綺麗な場所に飾ることだった。

「浩太の絵には、魂があるよ。あとは、光が欲しいね。空色の光が」

 彼女は僕が描いたデッサンに、いつもそうコメントを添えた。

「ねぇ、浩太。私の部屋の天井にも、空を描いてよ。曇りのない、一番綺麗な空を。私がいつでも、その空を見られるように」

 葵の部屋の天井は真っ白だった。そして、その白はある日突然、彼女の病気の告知と共に、病院の天井の色へと変わってしまった。

 高校生の頃、彼女は難病を患い、入退院を繰り返すようになった。特にひどい時には数週間、窓の外さえ見られない小さな病室に閉じ込められた。だから、彼女にとって空は、自由と健康、そして何より、僕たち二人が共有する未来の象徴だったのだろう。


 入院が長引き始めた頃、彼女は一度だけ、涙を流しながら僕に告白した。

「本当はね、病気のことはもっと前から知ってたんだ。でも、浩太が描く空の色が曇っちゃうのが嫌で、ずっと黙ってた」

 僕は約束した。退院したら、二人で真っ白な天井に、どこまでも広がる青空を描こうと。それから毎日、どんな画材を揃え、どんな青を使おうかと、二人で図鑑をめくった。でも、その約束が果たされることはなかった。


 二十歳の夏。生命力の塊のような蝉の鳴き声がやかましいほどに響く朝。葵は静かに、窓の外の青空を見つめながら息を引き取った。彼女の指先は、ひどく冷たかった。

 葵の葬儀の日、空は、僕が今まで見たこともないほどにどす黒く、重い灰色をしていた。雲の底は深く、まるで世界の全ての光を吸い込んでしまったかのようで、それはまさに、僕の心の色そのものだった。

 それ以来、僕の周りの世界は色を失ってしまった。僕が目にする全てのものは、葵の葬儀の日の空の色、何もかも、あの灰色になった。朝食のパンの焼き色も、彼女が好きだったチューリップの赤も、僕にはくすんで見えた。葵がいなくなった世界は、古いモノクロ写真のように、魂が抜けた風景として存在していた。

 もちろん、絵筆を持つことなんてできなくなった。キャンバスに向かっても、白い画用紙は僕の空虚を嘲笑うばかりで、指先は震えて、何をどう描けばいいのか全く分からない。もし仮に描けたとしても、僕の心の中には、葵が愛した「空色」は、もうどこにも残っていない。きっと、灰色の空と、灰色の絵になってしまうだろう。

 僕は葵との思い出を詰めた画材道具一式を、物置の奥深くへと押しやった。特に、彼女が最後に描いてくれた、歪だけど、力強いひまわりの絵が入ったスケッチブックには、絶対に触れないようにした。そして、彼女の遺したいくつかの品々も、思い出すことさえ恐ろしくて、ダンボール箱に封印した。


 それから七年が経った。

 僕はただ、生きていた。「生かされていた」という方が正しいかもしれない。デザイン事務所の事務職という、絵とは全く関係のない仕事に就き、与えられたルーティンをこなす毎日。感情の起伏は緩やかで、毎日がただ、古いモノクロ映画のように、淡々と過ぎていった。

 そんなある日、ボールペンを買うために、ふと立ち寄った文房具店の事務用品コーナーの片隅で、あるものを見つけた。それは、たった一本の鉛筆。古ぼけた木の箱に入れられ、その箱には達筆な文字で、こう書かれていた。


「空色」


 手にとってよく見てみると、特別な装飾は何もない、ごく普通の鉛筆だ。芯の色は光にかざしても、間違いなく黒だった。

 ――本当に色鉛筆なのかな……。

 僕は七年前の葵の問いを思い出した。そしてあの時、彼女が言った「青よりも透き通ってて、水よりも軽い、特別な色」という言葉が、妙に引っかかった。

 店主は白髪の老婦人だった。僕がその鉛筆を手に取っているのを見て、穏やかに微笑んだ。

「ああ、その色鉛筆かい。それはね、うちの先代が、ある有名な画家から譲り受けたものらしいんだ。『空色鉛筆』と名付けたそうだよ。その画家はね、『この鉛筆は、描いている時に見た色を映すのではなく、描いた者の心の色を空に映すんだ』って言っていたらしいんだ。まぁ、本当かどうかは分からないけどね。誰も、黒以外の色を出せなかったみたいだし」

 その言葉は、僕の心臓に冷たい水が落ちたような衝撃を与えた。

 ――描いた者の心の色を空に映す。

「この鉛筆、売ってください!」

 僕がそう言うと、老婦人は目を見開き、僕の目をじっと見つめた。

「いいよ。持っていきな。もし、黒以外の色が出せたら、教えておくれ」

「ありがとうございます!」

 理由なんてない。ただ、あの時の葵の声と、彼女が教えてくれた「空色」の定義が、僕の頭の中でこだましたような気がしただけだ。

 僕は鉛筆を握りしめ、店を飛び出した。帰宅し、七年ぶりに画用紙を取り出す。物置の奥から引っ張り出す時、画材箱が開き、あのひまわりの絵が少しだけ見えたが、恐怖を感じてすぐに蓋を閉じた。まだ、過去と向き合う勇気がなかった。

 画用紙を机に広げ、「空色」と書かれた一本の黒い芯の鉛筆を握る。指先に伝わる木の感触は、何だかとても懐かしかった。

 ベランダから見える、寂れた団地の風景。遠くには日が沈みかけている。空は橙色だいだいいろと薄紫が混ざり合った、曖昧なグラデーションだった。僕の日常と同じように、どこか寂しくて、色あせたグラデーション。僕はそれを描いた。

 風景画なんて本当に久しぶりだった。描く手が最初はぎこちなかったけれど、線を引くうちに、だんだんと心が静かになっていくのを感じた。

 ――建物の輪郭、電柱、そして、空。

 黒い芯は、ただ黒い線しか生まない。それは予想通りだった。風景全体が、黒いデッサン画として完成した。

「やっぱり、ただの鉛筆か……」

 僕は鉛筆を机に置き、深くため息をついた。期待していたわけではない。それでも、ほんの少し何かが変わるのではないかという、淡い希望を抱いていた。

 次の瞬間――。

 描いたばかりの絵の空が、みるみるうちに色づき始めた。最初に濃い藍色がキャンバスの上端から滲み出す。ちょうど僕が今、窓の外で見ている夕焼け空の、最も暗い部分の色だ。次にオレンジ色が太陽が沈む方角から広がり、薄紫がその境界を柔らかく繋ぐ。色の波は、まるで命を吹き込まれたかのように躍動し、僕のデッサンを飲み込んでいった。絵の空は完全に、僕が今見ている現実の夕焼けのグラデーションと、寸分違わぬ色を帯びた。

「嘘だろ……」

 僕は立ち上がり、窓の外の空と、画用紙の上の空を何度も見比べた。心臓が七年ぶりに激しく脈打っているのを感じた。黒芯の鉛筆で描いた線が魔法のように、色の層を纏っている。それも、僕の目を通して捉えた、今の空の色を。

 ――これが、空色……。


 翌朝、僕は出勤前に、再び鉛筆を握った。

 この日の空は快晴だった。七年前の、葵の葬儀の日のような重い灰色ではない。でも、その青はどこか色が薄く、僕の目に力強く飛び込んでくることはなかった。僕の心が、まだ世界の色を完全に信頼していない証拠のように。

 昨日と同じように風景画を描くと、絵の空も、その薄い、信用しきれていない青に染まった。僕の心がその空の色を「これくらいの色だ」と認識した瞬間、それが絵に反映されるかのように。

 この鉛筆は、僕が失った色を取り戻すための、そして、僕自身の心の真実を暴くための鍵なのかもしれない。僕はそう思った。


 その日を境に、僕は仕事以外の時間を全て、この空色鉛筆に捧げた。ひたすら描いた。海辺の空、山の上の空、都会のビルの谷間の空。でも、どんなに美しい景色を描いても、絵の空はいつもどこか寂しげで、僕の心に残る、あの鮮烈な空色には程遠かった。

 そして、僕はある確信にたどり着いた。この鉛筆は、現実の空の色を映しているのではない。僕がその時、その場所で「見ている」と信じている空の色、つまり、僕の心の状態が反映された空の色を映し出しているのだと。色が出ないのは、僕の心が、まだ七年間の喪失というフィルターをかけて世界を見ているからに違いない。だったら、僕の心の色が、あの頃のように鮮やかになる瞬間が来れば、葵が愛した空色が、絵に現れるのではないか。

 僕は、葵との思い出の場所を巡り始めた。最初に訪れたのは、二人でよく秘密基地ごっこをした、団地の裏にある小さな公園。初めて一緒にスケッチをした場所だ。芝生は荒れ果て、ブランコは錆びついていた。遊具の鎖が風に揺れてキィキィと軋む音が、僕の孤独を一層際立たせた。


「浩太、全部描いちゃダメだよ。絵の向こうは、私たちがまだ知らない未来の色なんだから」


 過去の葵の声が聞こえる。彼女は、僕が風景画の全てを描き込もうとするたびに、未来の可能性のために、あえて空白を残すよう促した。

 僕が絵を描いている間、空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。絵が完成すると、空は鉛色に近い、重たい灰色になった。それは、僕がこの公園で、葵と失った未来の重さに、今も苛まれている証拠だった。

「ダメだ。こんな色じゃない」

 絵に現れたのは、七年前の葬儀の日の空の色と、ほとんど同じだった。僕の心は、まだこの場所で、葵を失った悲しみを重く留めている。

 次に、葵が入院していた病院の屋上。二人で何度もこっそり抜け出し、夜景を見た場所だ。葵は街の灯りを「空に落ちた星みたいだね」と笑った。

 僕は彼女の病室から見える、狭い中庭の景色を描いた。あの頃の病室では、葵はいつも折り紙を折っていた。鶴や花。そして、青い紙で作った小さな紙飛行機。

「これ、浩太が描く天井の空まで飛んでいってくれるかな」

 僕は夜景ではなく、昼間の曇天を描いた。絵の空は薄く、白っぽいグレーになった。光沢がなく、無関心な色。僕の心は、この場所の悲しい記憶から逃れようと、感情をシャットアウトしていた。だから、空も感情のない、無味乾燥な色になったのだろう。

 ――悲しみではなく、無関心。

 それは、僕が葵の痛みに寄り添えなかった後悔の念を閉じ込めてしまった、心の防御壁の色だった。

 そして、最後に残った場所。それは、海沿いの小さな丘だった。葵がまだ元気だった頃、二人でよくスケッチブックを持って出かけ、海と空の境界線について語り合った場所だ。


 十月の終わり頃。僕は仕事を休み、その丘へと向かった。

 丘に登ると、冷たい潮風が僕の頬を叩いた。空には遠くで薄い積乱雲が垂れ込めていて、どこか重苦しい。でも、目の前に広がる海は、穏やかな藍色をたたえていた。空と海の色の対比が、僕の心を揺さぶる。

 僕はゆっくりとキャンバスを広げた。海と空の境界線、遠くに見える小さな漁船。全てを、この空色鉛筆で丁寧に描き込んでいく。描きながら、僕は葵との過去を細部まで思い出した。

 葵は最期の夏、僕に言った。

「ねぇ、浩太。私の病室からは、空があんまり見えないんだ。でもね、知ってる? 空は、どこまでも繋がってるんだよ?」

 病室のベッドで、頬をすり寄せてきた彼女の体は、驚くほど軽かった。その軽さは、彼女の命が今にも飛び立ってしまうのではないかという、僕の根源的な恐怖だった。

「だからね、私が先に遠い空に行っちゃっても、浩太はいつも上を向いててね。上を向いていれば、私たちは空で繋がっていられるんだよ? 私が浩太の空になるから」

 その時、彼女は微笑んだ。その微笑みは、僕にとっての空色だった。


 ――描き終えた。


 僕はキャンバスから少し離れ、完成したデッサンを眺めた。

 黒い線で描かれた、海の風景。

 海の部分はすぐさま、現実と同じ穏やかな藍色に染まった。その藍色は深く、それでいて暖かみがあった。

 そして、空だ。

 空の部分に変化が起こり始めた。最初は僕が見ている積乱雲の色、重い白とグレーが混じった色が広がりかけた。

「やっぱり、ダメかなのか…」

 僕は心の中でそう呟き、絶望した。まだ、僕は悲しみから抜け出せていない。まだ、葵のいない世界の色を受け入れられていない。

 その時、僕は涙が頬を伝うのを感じた。七年ぶりに、声を上げて泣いた。

「葵……ごめん、描けなかった。君が望んだ空色を、一度も、描いてあげられなかった。約束を、守れなかった……」

 七年間の後悔、無力感、そして彼女への途方もない愛。全ての感情が、波のように押し寄せてきた。僕は膝をつき、泣きながら強く願った。もし、この鉛筆が僕の心を映すのなら。お願いだ。僕に、君が見たかった空の色を見せてくれ。僕の心の奥底にある、君の、愛の色を。

 すると、絵の空は少しずつ変化した。先ほどの重い白とグレーは完全に消え失せて、代わりに空を覆っていたのは、鮮やかで、でも、どこか優しい、透き通った青だった。それは子供の頃、二人で初めて秘密基地から見上げた、あの夏の日の一番綺麗な青だった。快晴の青よりも深く、水色よりも濃密なのに、光を全て透過させるような、透明な輝きを放っていた。僕の記憶の中に、葵の微笑みと共に封印されていた、紛れもない空色だった。

 その色は僕の心を温め、七年間の冷たさを溶かした。驚きと、信じられないほどの愛おしさに、僕は画用紙に手を伸ばし、その色に触れた。空の色は、涙に濡れた僕の視界を一瞬で洗い、世界に光を取り戻してくれた。

 その空色は、彼女が最期に僕に託した「上を向いて生きる」という希望の色。あの、病室の天井に描くはずだった、二人の未来の色だった。

 僕の魂がようやく、葵の死を受け入れ、彼女の愛を再認識した瞬間に、この鉛筆は、その真の「空色」を開放したのだ。

 僕は画用紙を抱きしめた。鮮やかな青い空。その下には、穏やかな藍色の海が広がっている。まるで、葵が僕の代わりに色を塗ってくれたように。

「ありがとう、葵……」

 僕は、この空色鉛筆がただの事務用品ではなかったことを知った。それは、僕の止まった時間を再び動かし、過去と現在を繋ぎ、未来へと送り出すための、「時間」としての道具だった。

 僕は立ち上がり、空を見上げた。

 現実の空は、まだ遠くで雲が重苦しく垂れ込めている。でも、僕の目に映る空の色は、もう七年前の灰色ではない。僕の胸の中には、あの鮮やかな空色の記憶がある。

 僕は鉛筆をポケットにしまい、丘を下りた。

 あの鉛筆は、僕が真実の空色を知った時、その役目を終えたのかもしれない。僕はもうこの鉛筆に頼らなくても、空を見上げるたびに、あの空色を、そして葵の微笑みを、心で感じることができるだろう。

 僕の世界は再び色を取り戻した。鮮やかな赤、明るい黄、力強い緑。それらは全て、僕が愛する葵の存在によって彩られた色だ。

 そして、僕の人生には五色ではなく、六番目の特別な色がある。愛と、希望と、永遠の別れを教えてくれた空色だ。

 僕は再び筆を取るだろう。今度はただの風景ではなく、僕の心に宿った全ての色彩を描き出すために。

 そしていつか、葵が望んだように、どこまでも広がる、あの空色を天井いっぱいに描くために。


(了)

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