第22話:奪えなかったもの
サキュバス領から数千里、**カオス・ヘヴン(混沌諸国)**の辺境に位置する石造りの街。
ルシアは一人、安宿のバルコニーから夜の闇を見つめていた。表向きは気ままな一人旅。だがその内実は、あの日、あの撮影で植え付けられた「言いようのない空虚」からの逃避行だった。
「……美味しくない」
先ほどまでベッドを共にしていた男から吸い上げた精気。魔力は確かに回復している。だが、心が全く満たされない。これまでは欲望を煽り、それを吸い尽くすたびに圧倒的な全能感に包まれていたはずだった。
しかし今は、どれほど吸っても、砂漠に水を撒くような虚しさだけが残る。
(……吸えないわけじゃない。でも、私の中に“残らない”のよ)
深い違和感を抱えたまま、彼女はサキュバスの秘技を用いて、街の人々の「夢」へと潜り込んだ。
だが、そこで目にした光景にルシアは戦慄する。
本来、欲望や恐怖でどろどろとしているはずの他者の精神世界が、異様に穏やかで、静謐なのだ。
ある老人の夢の奥。そこには、真っ白なスタジオのような空間に、ただ真っ直ぐに立つ「無言の影」がいた。
鋭い視線、傷のある腕、そして世界を肯定するような静かな気配。
夢の主たちは、その影を視界の端に入れているだけで、魂が調律され、欲も恐怖も手放して深い安らぎを得ていた。
「あれは……あの子の眼差し?」
ルシアは逃げるように夢から這い出した。
【忘れられた図書館】
翌日、ルシアは街外れの古い公共書庫に足を運んだ。
観光名所でも、魔導学院の付属施設でもない。ただ、誰にも必要とされなくなった石造りの建物だ。
埃をかぶった棚に並ぶのは、年代も体系もばらばらな文献ばかり。
魔術理論書、民俗信仰の写本、そして――分類不能と書かれた一角にほんの数冊『言霊』に関する本が置いてあった。
古文書の断片には、そう記されていた。
だが内容は、彼女が知る魔術とは決定的に違っていた。
言葉は力ではない。
力は意味に宿らない。
正しい音は、ただ世界を“元の形”へ戻す。
それ以上は、どの文献も踏み込んでいない。
体系も、術式も、再現法も存在しない。
「……なにこれ? ふざけてるわ」
欲望を増幅させ、奪い取る。
それが力だと信じてきたルシアにとって、その記述はあまりにも曖昧で、無責任だった。
だが――
“与えることで、世界が静まる”
という一文だけが、どうしても脳裏から離れなかった。
立ち寄った場末の酒場。そこで出会った、老いさらばえたサキュバスが、濁った瞳でルシアに語りかけた。
「……あんたも感じてるんだろう? 最近、夢が『軽く』なった人間が増えた。欲望を吸っても、彼らは絶望しない。あれは“奪われた”顔じゃないんだよ」
その言葉で、ルシアは核心を突かれた。
自分は「火を焚べる側」。欲望を燃え上がらせ、その熱を食らう存在。
対して、あの新人の人間――美優は「火の前で人を落ち着かせる側」。荒れ狂う感情を、その存在だけで凪(なぎ)に変えてしまう。
(最初から、勝負なんて成立していなかった。私は奪うことしか知らず、あの子は与えることすら無意識だったんだわ)
夜明け前、丘の上に立ったルシアは、朝日を浴びて自嘲気味に笑った。
「逃げるのはやめる。……でも、大人しく従う気もないわ」
奪えなかったなら、並ぶしかない。
女王のプライドが、初めて自分以外の存在を「隣」へと招き入れた。
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