タイピストのミー

阿部2

第1幕

A

 マイクに向かって話しかけると手元の画面に文字が流れ込んでくる。

『えー、こんにちは。これはペンです。わたしは猫です。』

 はじめて作るノートなんだからなにかいい文を考えて来た方がよかったんだろうか。

「これってザワザワ、ガヤガヤしたところでもいけるんですか」

「キャリブレーションのところを押して設定してから使えば多少はいけますね」

「キャリブレーション……」

「歯車のアイコンをタップして、」「ああ」「基本的には静かなところで使うものではあるんですけど」「あ、はい」「教室結構騒がしいですか?」「あ、いや、そこまででもないと思います」

 マイクは青を選択した。青と黒しか選択肢がなかったからだ。家でも新しいノートをいくつか試した。専門用語のような、ちょっと珍しい言葉を使ったときは変換の精度が低そうだった。つまり、ぼくにもまだ多少は仕事が残されているということだ。


 机の上にマイクを置くと、

「なんか本格的だね」

と田中は言った。言ったというか、メモ帳にそう書いた。


 ノートテイカーは耳の不自由な学生の支援のためのアシスタントで、多くの場合は履修してる講義がかぶらない上級生がやる。


 田中と一緒になったのはコンピューターを使う演習の授業だったので、たまたま同じ班に割り振られたぼくが成り行きでノートテイクをしていたら、登録したらバイト代が出るよと教えてもらった。


 報酬は高いとは言えないにしても、授業のついでに音声認識の間違いを時々修正するだけでお金がもらえることを考えると悪くはないと思う。


 それから、この無料で借りれたミーエディタというアプリの入った音声認識の端末がおもちゃとして気に入ってしまって、家でもまたノートを作った。



B

 浅川は1週間丸々大学に来なかった。難聴だとどうしても周囲の会話には入っていきづらいので、俺としては浅川という友達ができて安心していたのだか。


 浅川はいつも機嫌がいいように見えた。先週末には音声入力を試したというメールをくれた。『渚にまつわるエトセトラ』という曲の歌詞だという。「蟹食べ行こう」の部分を最初誤変換だと思ったが本当にそういう歌詞らしかった。マイクに向かって律儀に歌って文字を入力している浅川が思い浮かんで笑ってしまった。


 同じ学年の何人かにも確認したがやはり来ていないようだった。浅川は一人暮らしだったのでメールを送ることにした。

「休んでるみたいだけど大丈夫? 風邪?」

「玄関に首吊り死体の幽霊がいて外に出られなかった」

 俺は浅川の部屋に行ってみることにした。

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