第3話 麦ちゃんは、もえています。③


人生で一度だけ東京に行ったことがある。


小学六年生のとき、ゴッホの『ひまわり』を裏側から描いたというコンセプトの絵が、金賞のなかでも最優秀賞を獲得し、美術館の一番目立つ場所に飾られることになった。俺の幼稚園や小学校での六年間を考えたら、同世代と比べて勉強やら運動が苦手なのは自覚していた。両親はそんな俺を心配しているようだったけど、絵の才能があったということでとても喜んでいたのを覚えている。


俺の方も自分に絵の才能があったのが嬉しかった。俺を産んで一か月後に亡くなった実母はフリーランスのデザイナーだったのだ。


飾られている作品を見に、家族で美術館を訪れた。東京に行ったのはそのときだ。家族から離れ一人で他の受賞者の作品を見ながら巡っていると、一つの目立つ金賞の作品があった。審査員特別賞に値する文部科学大臣賞を受賞していたその絵は、砂浜に座礁した鯨の絵だった。腹を天に向け、海浜に緊張感を与え、非日常を語っていた。


作者の名前には羽田景都とある。男の子なのか女の子なのか分からない名前。その名前の横には小学校二年生とある。麦ちゃんと同級生だ。俺はしばらくその作品を眺めていた。首を捻ったり、立ち位置を変えたりして、角度を変えて同じ絵を見ていた。


「わたしの作品、気に入った?」


声をかけられて振り返るとそこにいたのは淡い雪のような少女だった。真っすぐに俺を見つめ、美術館のライトに溶け込むような瞳をしていた。可愛らしいドレスの少女。この作品を描いたのは彼女らしい。


「うん」

「でも、一番じゃなかった。六年生の男子に負けた」


この絵が受賞していた文部科学大臣賞は、俺の絵が受賞した最優秀賞よりも一つ低い評価だった。


「……夏におじいちゃんが死んだの。有名な大工で、わたしの家もおじいちゃんのチームが建ててくれた。大きくてゴツゴツした人だったんだけど、死んじゃった姿を見て」

「この鯨を描いたの?」

「そう。でもあの、ゴッホの『ひまわり』の裏側の絵を見てしまうと……悔しい」


景都は自分の描いた鯨の絵をジッと見つめた。俺の角度からだと景都の表情は子供のそれには見えなかった。ひまわりに裏があったように、鯨にも裏側が存在する。景都の表情は、その裏側の存在を示唆していた。


「大人だな」

「わたしが? 大人というか、お姉さんになったの。おじいちゃんが死んだ三日後に、妹が生まれた。だから迷った。大きく欠伸をする猫の絵か、鯨の絵か。でも、わたしは生まれたときからおじいちゃんの孫だから、今は鯨の絵が相応しいと感じた。猫の絵は、わたしがもっとお姉さんとして成長してからだ」


景都にはすでに自分の事を作品に昇華する芸術家としての気質が備わっていた。絵のコンクールの審査基準なんて知る由もないけど、このとき小学校六年生だった俺には、権威に対する反骨心や、おそらく逆張りの気質の影響もあり、自分で描いたエンタメ気質の作品よりも、景都が描いた芸術気質の絵の方が優れていると思った。


「芸術は爆発だって知ってる?」


景都は俺の方に視線を向けた。横顔は大人っぽく見えたけど、正面から見たらまだ幼さがあった。


「はい。岡本太郎ですよね」

「その人は知らない。俺が知っているのは言葉だけ」

「あ、はい」


景都は申し訳なさそうな顔になる。知識で年上を上回ることの気まずさを、子供ながらに知っていた。


「死んだ鯨は腐敗によって爆発することがある。体内にガスが大量に発生し、それが蓄積されることで起こる。とくに大きな鯨ほどガスが発生しやすいから、この絵の鯨はすぐに爆発すると思う」


景都は俺の説明に困惑していた。俺は景都から目を逸らし、鯨の絵を見る。困惑している相手に向けて自分の言葉を伝えるというのは恥ずかしいことだ。 だからこの行動には、どちらかといえば鯨の絵を見たというよりは、景都から目を逸らしたという意味合いが強かった。


「海で死んだ鯨は海底に漂着する。海の生き物は10年以上の長い時間をかけて身体を剥ぎ取ったり、骨の中に潜り込んで栄養分を探したり、便利な住処にしたり、鯨の死骸を利用する。……この絵の鯨は砂浜に座礁しているから、あまり関係がないことだな」

「……」

「羽田景都さんで合ってるかな?」

「うん」

「景都さんのおじいさんは、きっとこの世界に大きなものを残した。おじいさんが亡くなったあとも、おじいさんが建てた家は残っている。大工さんだったなら景都さんだけじゃなくて、多分、たくさんの人がおじいさんが建てた家に住んでいるはずだし、家だけじゃないよね、おじいさんが残した言葉とか、思い出とか、そういうのって、景都さんや、みんなの成長の糧になる。……それを考えたら、もしかしたらこの鯨は、砂浜に座礁するのではなくて、海底に沈むのが相応しかったんじゃないかな」


ぐすん、と涙をすする音が聞こえた。


「とはいえ俺は最優秀賞の絵よりも、景都さんの絵の方が勝っていると思うよ。砂浜に座礁した鯨はカッコいい。なにより非日常だけど、現実にあることなのが良い」

「……ありがとう。お世辞でも嬉しい」

「いやいや本気でそう思っているんだ。だからこうして何分もここにいるわけだし」

「うん」

「将来は画家か? それともデザイナー?」

「……夢がある」


景都はポツリと零れるように呟いた。


鯨からまた景都に視線を移す。そして息を呑むことになる。神秘が薄れ、華奢が残り、小さくて嫋やかな少女がいた。涙を流す景都には、あるなずのない妹の雰囲気があった。おそらく全ての年下の女の子というのは、妹になる才能を持っているのだろう。それが俺の目の前で開花していた。


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