灰色の漁村

古蔦蘆越嶁

灰色の漁村

 父は寡黙な人であった。子供に対して冷淡であったとか、或は何か厭世的な傾向があったという訳ではなく、ただひたすらに何かを真剣に考えているようであった。或る冬の昼下がり、薄暗い部屋の中で小さなノートを眺めながら思索の淵に沈んでいるところを、私の三度目の呼びかけに漸く引き上げられて、慌てて「ああ、鶏小屋だね」と言った父——恐らく五歳か六歳の頃の記憶であろうが、幼少期の記憶に特有の鮮明な情景として今でも脳裏に焼き付いている。快活で饒舌な私の母親とよく結婚出来たものであると、幼いながらに思ったこともあった。


 ——ところで、そんな父は、或る話題については、あたかも春に芽吹く草花の如く、一枚の古びた写真を見せながら、滔々と語るのであった。それなりに博識であった父は、私が寝る前に様々の話を聞かせてくれた。しかし、その話題については余りにも熱を込めて語るのであった。それは、或る海辺の小さな村についてである。

 父は、遥か西方のさる島の出身であり、あまり詳しくは語ってくれなかったが、十七歳の時に故郷を飛び出して流浪の旅を始めたのだという。我が母との出会いもその途中のことであったらしい——とまれ、父はその放浪の途中の冬の或る日に、その小さな村に立ち寄ったのであった。

「あの漁村に辿り着いたのは、冬の或る日の夕暮れ時だった。」

 父は毎度このように切り出した。

「あの風景は、私が海岸沿いの道の難所をようやく抜けて、今宵も野宿だろうかと思いながら小さな山道の峠を越えたときに、眼下に忽然と姿を現した。木のほとんど生えていない岬に挟まれた小さな湾の奥、崖のすぐ下の猫の額ほどの浜辺に、二、三十軒の窶れた家々が所狭しと並んでいて、浜辺の中央では今し方港に帰ってきたのであろう、恐ろしく旧式の漁船から魚の入った網を降ろす人影が見える。その寂寥たる風景が、曇天気味の西空の、冬の嵐の予感の中に黄昏れていく——あの風景はまさに灰色そのものだった……」

 まだ幼かった私にとっては、いささか難解めいた言葉を用いて語りながら、あのモノクロの写真を棚に置かれた箱から取り出して私に見せるのである。いささか黄ばんだその写真には、まさしく父の話した通りの漁村が写っていた。

「あまりにも恐ろしく、あまりにも美しく、繊細な硝子細工のような風景だと思った。そう思った瞬間に私はあの灰色に取り憑かれた。そして、フィルムが残り僅かとなっていたので、むやみに撮るのを控えていた写真を、思わず撮ってしまった。それがこの写真だ。」

 父が異様な熱を帯びて語っていたことも多分に影響していようが、その黄ばんだ写真に写る風景は、幼いながらに確かに極めて美しいものだと思ったものである——もっとも、繊細な硝子細工云々は理解出来なかったが。

   

 ところで、私が十一歳のとき——私の記憶では、少なくとも十回以上は灰色の漁村について聞かされているが、幾度も聞かされた灰色の漁村の話を、最後に父の口から聞いたのがこのときであった——私は父の異様な熱を帯びた語りに水を差そうと

「モノクロなんだから灰色に見えて当たり前じゃないか。そもそも灰色一色の風景なんてあり得ないのじゃないか。」

 と言ってみたことがあった。父は熱に浮かされたような顔をしながら暫く黙っていたが、静かに口を開き、

「モノクロ写真の灰色は人工的な灰色に過ぎない——あの風景は写真では到底説明し得ないほどに灰色そのものだった。空気も風も海鳴りも……確かに右手に広がる海は青みを帯びていたし、左手に見えていた松も青々としていたが、やはり総体としてあの風景は灰色そのものだった…」

 私は父に反論する気にはなれなかった。父は余りにも真剣であったし、私自身、父の言うことがなんとなく理解できたからである。

   *

 写真のくだりまで話すと、父は何か印象的な夢から醒めたような顔をして写真をしまいながら、

「私も疲れたし、もう寝なさい。」

 と言って、大抵話を終わらせた。が、一度だけ酒を呑んで珍しく上機嫌になっていた或る夜に、相変わらず子供には分かりにくい詩的な口調で続きを語ったことがあった。

「私は灰色の景色に取り憑かれたまま、今度は山道をゆっくりと下りていった。右手に見える荒ぶった海の咆哮はますます大きくなり、雲に隠された太陽は恐らく既に水平線の下に沈んだのだろう、ただでさえ曇天気味の空に鈍らされた黄昏の光は、次第に弱まっていった……景色は相変わらず灰色であったけれども、やはり峠から眺めた風景が灰色の具現であったと思う——そうそう、写真にも写っているが、あのときは灰色の景色にふさわしく、冬特有の悲哀に満ちた声を響かせながら漁村の上を猛禽の類が舞っていたっけ。私はこうして闇に覆われる直前の灰色の風景の中に入っていった……」

 酔いが回ったのであろう、いささか眠たげな父は、ここまで語ると話し疲れたのか目を閉じて黙ってしまった。

「それで、どうなったの?」

 すかさず、私は父に訊ねる。

「——何の話であったっけ……そうそう、私は今度は山道を下りて……ああ、ここはもう話したね、——私は今まさに黄昏ゆく灰色の風景の中に入っていったのだ。聚落の入口には棒が立っていてその先に赤い模様の描かれた長細い旗が狂ったように翻っていた。既に夜の帳は降り始めていて……私は入口に一番近い家の戸を叩いて……髭を生やした屈強な男が驚いた顔をして出てきたが、その日は一晩泊めてもらって………」

「それで?」

 私は再び眠りかけた父をゆり起こす。

「——入口の旗はつい二週間ほど前に嵐の海に……嵐の海に出て不幸にも溺死した或る勇敢な漁師を……ああ、男は魚を煮たものを出してくれて……あれはとても美味しかった…………」

 ここまで語り終えると父は本当に眠ってしまった。


   *


 父は私が十二歳のときに死んだ。俄かに猛威を振い始めた流行り病をこじらせて、あっけなく死んでしまった。母はいたく悲しんだが、医者の制止を振り切って父のなきがらに縋って泣いていた母の姿をよく覚えている。私は父の死の意味をあまり理解出来ておらず、ただ茫然と立ち尽くしていた——


 父の死より幾星霜、今度は母が病に臥せった。

 町外れの丘の上にある療養院の一室、静かに近づく終わりを、逃れ得ぬ運命として受け入れた母は、私に話しておきたいことがあると、体を起こして語り始めた。

「覚えていると思うけど、死んだお父さんがある海辺の村についてよく話していたでしょう。」

 私は心の臓が速くなるのを感じながら、いささか掠れた母の声を聞き漏らすまいと、耳を傾けた。

「——あの話はもちろん、本当の話で……お父さんは地図も持たずに闇雲に海岸沿いの道を辿ってあの漁村に辿り着いたの。お父さんは最後まであなたに話すことはなかったけれども、わたしはあの人に救われたのよ。そしてわたしは——わたしが、あの人を殺して・・・しまったのよ……」

 唖然とする私の顔を見て母は続けた。

「ああ、そんな血腥い話ではなくって、もっと運命的な話——お父さんは北側の丘のてっぺんから見た村の様子を灰色の風景といつも言っていたけれど、三十人くらいしかいなかったあの村はとても貧しくて、静かに滅びようとしていた……わたしはあの村の生まれで——彼が来たときには村唯一の若者になっていたわ。」

 母はここまで話すと暫く黙った。私は母の出自に驚きつつ、恐らく母がかなり無理をして体を起こして語っているということも忘れて、話を続けるように促した。

「——どう話そうかしら……とにかくあの村に未来はなかった。お父さんがやってきたのは冬の或る日だったわ。既に陽が沈んでこれから夕食だというときに、いきなり我が家の戸が叩かれて、驚いた私の父が戸を開けて……そこに立っていたのがお父さんだったのよ。」

 ここまで話すと再び母は口を閉ざした。私は、何を語り、何を敢えて語らずに心中に秘めておくか慎重に考えながら母が話していることが分かった。

「——お父さんは四泊村に滞在して……四泊目の早朝に仕方なく・・・・私を連れて村を発ったのよ……お父さんは自由な人だった・・・けれど、私は……」

 嗚咽する母を見るのは父の死以来のことだった。完全ではないものの、なんとなくことの顛末を察した私は、

「いや、お父さんは幸せだったと思うよ。」

 と母に言って、初夏の入り日の差す窓を眺めた——


 帰り際、母は、ある半島の先端あたりに赤い丸の書き込まれた一枚の地図と二枚の写真を私に渡してきた。

「もし、私が死んだら、お父さんの隣に葬ってほしい。あなたもよく知っているこの写真は……ああ、これはお父さんから大切にするようにって渡されたの——そしてこっちの写真をあの村に埋めて欲しい。」

 私が初めて見る写真には、幼い母を囲む、一度も会ったことはないが、既に知っているようにも思われる二人の人物——伝統衣装に身を包んだ男女が写っていた。


   *


 晩い夏の昼下がりにこの世を去った母の最後の願いに応えるべく、現時点で人間世界と人間の去った世界との境界となっている、或る小さな村の森林管理局の官吏の婉曲的な忠告も無視して、恐らくここ十年、人間がほとんど立ち入っていなかったであろう荒廃した道を辿り、遂に、かつて父が灰色の漁村の風景を見た丘の上に立っている。

 小さな湾の奥の崖下の浜辺には、僅かに石作りの壁のようなものが見え、かつて人間の生活がここにも存在したことを静かに証明している。右手には黒々とした北方特有の海が広がっている。そして、いささか曇りがちの空は初冬の寂しい風景を醸し出している——しかし、それは灰色ではなかった。少なくとも、父の語ったような、灰色そのものが結晶化した風景ではなかった。私は背嚢から何十年も前に父がまさにこの場所で撮ったあの写真を取り出して——そしてすぐに自らの愚かさを悟ってそれを背嚢へ戻した。

「今はむしろ――むしろ生の色だが、父の見た風景は、あの時点ではやはり間違いなく灰色だったのだ……」


 かつては村であった空間の入口に一番近い、朽ち果てつつある壁の前に、母から渡された写真を丁寧に埋める手を休め、今まさに黄昏ゆく西の方を見た。——海は凪いでいた。


畢り

 



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