60年目の解法~詐欺と離婚、毒親の呪縛。エラーだらけの「人生実験」を愛するまで~
篠宮 律
第1話 夜逃げの産声
夫・義之(よしゆき)の携帯電話の画面が光ったのは、彼が泥のように眠りこけた深夜のことだった。
着信画面に表示された名前を見て、私は心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような息苦しさを覚えた。
それは、夫が「借金まみれの悪妻」だと罵っていたはずの、前の奥さんの名前だったからだ。
私は震える指で通話ボタンを押し、音を殺して寝室を出た。
薄暗い廊下で受話器を耳に当てる。
「……もしもし」
『突然ごめんなさい。あなた……もしかして今の奥さんかしら?』
電話の向こうの女性の声は、夫から聞かされていたようなヒステリックなものではなく、深く、沈痛な響きを帯びていた。
『単刀直入に言うわ。逃げなさい。その男は、あなたの人生を食い尽くす怪物よ!』
窓の外、横浜の夜景が滲んで見えた。
数ヶ月前から感じていた違和感。給料日のたびに起きる「銀行の振込ミス」、突然の「会社倒産」、そして私の退職金が湯水のように消えていく恐怖。
それらすべての点と点が、受話器越しの言葉で一本の線に繋がっていく。
私の背筋を、悪寒が駆け抜けた。
寝室に戻ると、夫は幸せそうな顔で寝息を立てていた。
一級建築士だという肩書き。管理職だという名刺。私よりも7歳年上で、すべてを包み込んでくれるはずだった包容力。
そのすべてが、嘘。
この男は、建築士などではなかった。会社に通うふりをして、私の金で遊び、私の人生に寄生していただけの詐欺師だったのだ。
殺意にも似た怒りが湧き上がるのと同時に、私は自分の愚かさに唇を噛み締めた。
私はそこそこ偏差値の高い理系の大学を出て、高校教師として教壇に立ち、論理的な思考ができる人間だと思っていた。
それなのに、なぜ?
なぜ、こんな見え透いた嘘に気づかなかったのか。
なぜ、私は簡単に仕事を辞めて退職金を差し出してしまったのか。
「……ん、どうした?」
寝返りを打った夫が、うわごとのように呟いた。
私は反射的に携帯電話を隠し、作り笑いを浮かべた。心臓が早鐘を打つ。ここで感づかれたら終わりだ。この男は、私の行動を監視するために、どこへ行くにもついてくるような粘着質な奴なのだから。
「ううん、なんでもないわ。寝てて」
夫は再び高いびきをかき始めた。
私は暗闇の中で、ベビーベッドを覗き込んだ。
そこには、生後間もない娘が眠っている。
温かいミルクの匂い。柔らかい頬。
この子だけは、守らなければならない。この男の「餌食」にするわけにはいかない。
私は覚悟を決めた。
翌日、私は賭けに出た。
「久しぶりに友人と会ってくるから。子供も連れて行くわ。あなたは家で休んでいて」
夫は一瞬怪訝な顔をしたが、私が「気分転換したいの」と殊勝な顔を見せると、疑うことなく送り出してくれた。彼は、私が完全に自分の支配下にあると信じ切っているのだ。
必要最低限の荷物と娘を抱え、私は逃げるようにマンションを出た。
冬の風が冷たい。けれど、それは自由の冷たさだった。
待ち合わせ場所には、昨晩電話をくれた「前妻」の女性が待っていた。
カフェで向かい合った彼女は、私を見るなり哀れむような目を向けた。
「また被害者を増やしたのね……」
彼女の口から語られた真実は、私の想像を遥かに超えていた。
結婚詐欺まがいの手口、親の遺産の食いつぶし、次々と女性を渡り歩く寄生虫のような生き方。
そして、私は7人目の被害者……。
夫が語っていた「可哀想な自分」の物語は、すべて彼自身が加害者として作り上げた虚構だったのだ。
話を聞き終えた私は、震える手で実家の父に電話をかけた。
「お父さん……助けて!」
言葉にした途端、張り詰めていた糸が切れ、涙が溢れ出した。
「事情は後で話すから、とにかく駅まで迎えに来て……」
私は腕の中の娘を強く抱きしめ、実家に向かう電車に飛び乗った。
横浜の街は、クリスマスのイルミネーションが華やかに輝いているはずだ。けれど、私の目には何も映らなかった。
所持金は底をつき、帰る家もなく、あるのは借金と、幼い命だけ。
これまで生きてきて、人生のどん底は何度かあった。
けれど、この「夜逃げ」の夜ほど、自分の無力さを呪ったことはない。
車窓に映る自分の顔を見る。やつれて、化粧も崩れて、見る影もない。
ふと、祖母の声が脳裏に蘇る。
『お前は先生の子なんだから、1番になりなさい』
厳格だった祖母。
そして、私が何をしても決して褒めず、風邪をひいて熱を出しても「バカが風邪をひく」と冷たく言い放った母。
『あんたなんかに、まともな家庭が築けるわけないじゃない』
そんな幻聴が聞こえた気がした。
完璧でなければならなかった。
誰よりも優秀で、誰よりも正しく、誰よりも幸せでなければならなかった。
そう育てられた私が、1度の離婚を経て、再婚した詐欺師に騙され、夜逃げをしている。
なんて滑稽な喜劇だろう。
「ごめんね……」
胸の中で身じろぎした娘に、私は謝った。
「こんなお母さんで、ごめんね」
けれど、不思議と涙はすぐに乾いた。
どん底まで落ちたら、あとは這い上がるしかない。
私はそもそも、理系で論理的な人間なのだ。実験が失敗したら、条件を変えてやり直せばいい。
この失敗は、私の人生という実験における、巨大なエラーデータに過ぎない。
電車を降りて改札を出ると、遠くから、父の車のヘッドライトが見えた。
私は涙を拭い、背筋を伸ばした。
今から24年前。これが、私の60年の人生における、本当の意味での「闘い」の始まりだった。
ただ愛されたかっただけの私が、嘘と裏切りにまみれた泥沼を泳ぎ切り、ようやく「自分」という陸地にたどり着くまでの、長い長い物語。
その幕が、今、最悪の形で上がろうとしていた。
次の更新予定
2026年1月14日 12:05 毎日 12:05
60年目の解法~詐欺と離婚、毒親の呪縛。エラーだらけの「人生実験」を愛するまで~ 篠宮 律 @kumaneko36
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