夜雨に打たれし獣ーー炎を宿す異形の狼の物語ーー
SeptArc
第一夜 四重の遠吠え
生まれ落ちたその瞬間から、獣には仲間など居なかった。
三つに分かれた首、複足の異形、そして何より、その身から燃え上がる炎。
真冬の吹雪の中で生まれ落ちたそれは、異形の狼などという括りではなく、
もはや別の生き物と呼ぶべき風情であった。
それはまさしく、神話の類だった。
だが群れの中では、当然のように忌まれるべき異端であった。
首の分かれた獣など狼にあらず。
異形を憎まれ、その首を疎まれ、その身に宿る炎を怯えられた。
群れの中で獣は、孤独を抱いて生きた。
幼い獣は、まともな育ても受けなかった。
生後まもなく群れの食事から外され、
狩りの仕方も知らぬまま、ただ身の糧を探して奔走する日々が続いた。
飢えた夜、獣の腹の奥で炎が疼いた。
それは温もりではなく、焼き尽くすための熱だった。
爪を立て、雪を掘り返しても、
その熱は獣自身を焦がすばかりだった。
その異形の身は、常に飢えに苦しんでいた。
獣を産み落とした母は、見せしめに喰われてしまった。
共に生きた時間こそ短いが、母だけは獣に優しく接していた。
群れから憎しみの目が向けられる中、
母は最後に、優しくその頬を舐めてくれた。
母の腹から兄弟は生まれなかった。
否、いたのかもしれない。
何かの間違いで、その身に宿ってしまったのかもしれない。
獣に残されたのは、群れの中からただ一頭、
獣を見つめ続ける父との血の繋がりだけだった。
ーーーーーーーーーー
その夜、獣は初めて群れに追われた。
理由は分からなかった。
ただ、風向きが変わり、匂いが変わった。
次の瞬間、背後で雪を踏みしめる音が重なった。
振り向いた瞬間、牙が迫っていた。
反射的に跳ねた。
遅れて爪が頬を掠め、熱と痛みが同時に走った。
獣は走った。
走りながら、自分が速いのか遅いのかも分からなかった。
ただ、止まれば噛み殺されると理解していた。
吹雪が視界を奪い、匂いも音も混じり合った。
どこが群れで、どこが逃げ道なのか分からない。
足元が崩れ、雪に埋もれた瞬間、腹の奥で炎が暴れた。
吠えようとして、声が出なかった。
炎が喉を焼き、息が熱に変わった。
その時、父の影が前に立った。
父は吠えた。
それは怒りではなく、警告でもなく、
「戻れ」という命令だった。
群れは一瞬、足を止めた。
その隙に、父は獣を押し出した。
その夜、獣は初めて知った。
自分が守られる存在であることを。
群れは徹底的に獣を迫害した。
視界に入れば爪で斬りつけ、
気に触れば牙で噛みついた。
群れにいた狼すべての歯形が、
その身にはきっと刻まれていただろう。
群れは一頭の獲物を仕留めれば、それを分け合った。
だが獣は、自分で獲物を仕留めなければならなかった。
そんな獣に、父は夜陰に紛れ、
獲物を仕留めて持ってくることがあった。
だが狼の耳は、その違和感を逃さなかった。
群れは、獣に向けられた父の姿勢を、決して良しとはしなかった。
ある夜、父は戻らなかった。
その翌日も、父は戻らなかった。
獣は同じ場所で待った。
風の向きが変わっても、雪が止んでも、
獣は動かなかった。
獣は腹を焼かれるような飢えの中、
風に混じる父の匂いを、ただ待っていた。
夜が更け、星が動き、
それでも父の姿が見えない時間があった。
腹の奥で炎が揺れ、熱が全身に回った。
だが、炎を放てば父の匂いを消してしまう。
獣はそれを本能的に理解していた。
遠くで群れの吠え声が聞こえた。
獣は身を低くし、息を殺した。
その声の中に、父のものが混じっていないか、
ただそれだけを探した。
夜が更け、星が同じ位置に戻る頃、
獣はようやく理解した。
待つこともまた、生きるための術なのだと。
そして日が昇る前、
獣はようやく父の匂いを嗅いだ。
それは安堵よりも先に、
胸の奥を強く締めつけた。
やがて風が、血の匂いを運んできた。
夜闇の中から現れた父は、傷だらけで、
どこか悲しそうな目をしていた。
ーーーーーーーーーー
その夜から、迫害の矛先は、
獣を庇う父にまで及ぶようになった。
それでもなお、父だけは獣から目を離さなかった。
群れから向けられる侮蔑の雨を共に受け、
父は狼としての威厳を失わず、
迫り来る牙と爪のすべてから、獣を守り続けた。
自身の身など、顧みることなく。
父は何度も、獣の前に立った。
爪を立てず、牙も剥かず、
ただ群れに向かって吠えた。
その吠えは威嚇ではなく、
「ここまでだ」と線を引くためのものだった。
父の体から血が流れるたび、
獣の内に宿る炎だけが、すくすくと育っていった。
父が倒れた夜、獣は初めて、自らの炎を恐れた。
父の血の匂いに呼応するように、
炎は胸の奥で荒れ狂った。
もし近づけば、父を焼いてしまう。
獣は、それを理解していた。
それでも父は、一歩も退かなかった。
やがて父は、群れの目を盗み、
獲物を狩る術を獣に教え始めた。
それは終わりを察してか、
我が子を生かすためか。
それから、何度も夜が来た。
狩りが成功する日も、失敗する日もあった。
獣は獲物を仕留め、父はそれを見守った。
父は多くを語らなかった。
だが、獣が間違えれば、必ず同じ場所に立ち、
同じ風を嗅がせた。
何も起きない夜もあった。
ただ雪の上に並び、星を見上げるだけの時間。
炎は静まり、父の体温だけが隣にあった。
その時間が、永遠に続くとは、
獣は考えなかった。
だが、終わるとも思っていなかった。
ある日、父は歩みを止めた。
ほんの一瞬の躊躇だった。
それでも獣には分かった。
時間が、父から奪われ始めていることを。
最初の狩りで、獣は獲物を逃した。
牙は届いていた。
だが、力の入れ方を知らなかった。
父は何も言わず、
ただもう一度、風下へ回るよう鼻先で示した。
父の教えは、母とは対照的に厳しかった。
獣の牙で獲物を仕留めるまで、
二匹は食事にありつけなかった。
それでも父は、熱心に生きる術を叩き込んだ。
だが、群れを欺く生活は長く続かなかった。
父の体には、見るたびに傷が増えていった。
親子は薄々、監視の目に気づいていた。
やがて獣が狩りに苦労しなくなった頃、
父の動きに鈍さが見え始めた。
野兎一匹で息を荒らす父を見て、獣は悟った。
自分の体が、父を見下ろすほどに
大きく、逞しくなっていることを。
そして同時に理解した。
父は、あまりにも多くの時間を、
この身に費やしてくれていたのだと。
もはやこの群れで、
獣を守れる者は、父しかいないのだと。
ーーーーーーーーーーー
その夜、獣は眠れなかった。
父はすぐ近くにいた。
呼吸の音も、体温も、はっきりと分かる距離だ。
それでも獣は、決して近づかなかった。
炎が、静かに燃えていた。
それはこれまでで最も穏やかな炎だった。
獣は理解していた。
この炎は、もう群れの中では収まらない。
もしここに留まれば、
次に倒れるのは父だ。
そうなれば、獣は炎を抑えられない。
その結果が何をもたらすかも、
考える必要はなかった。
獣はゆっくりと立ち上がった。
一歩踏み出せば、もう戻れない。
それでも振り返らなかった。
振り返れば、
父の目に迷いが映ってしまうからだ。
来たる明け方、獣は群れを去ることを決めた。
この身が去れば、父が虐げられることはない。
夜闇が薄れ始めたころ、
獣はひっそりと山を離れた。
生きる力を与えてくれた父へ。
この身を育んでくれた土地へ。
異形の我が子にも優しさをくれた母へ。
感謝を込めて、ただ一度、力強く遠吠えをした。
白く照らされ始めた山々に、
四重の遠吠えが響いた。
振り向くと、離れに父の姿があった。
群れの中で、ただ父だけが、
我が子の旅立ちに気づいたのだろう。
最後に見つめた父の片目には、
何が映っていたのだろうか。
次の更新予定
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