雨粒がくれた最初の一行 ――猫と雨と、書けない私

神霊刃シン

カクヨムコンテスト11【短編】

お題フェス「天気」

第1話 Rainy Pagesで始まる物語 ☕📖

 雨の日は、胸の奥がざわつく。

 何かが始まる気がする――というより、何かを始めなければいけない気がして、落ち着かない。

 その焦りを抱えたまま、私は喫茶「Rainy Pages」のドアを押した。


 店内に足を踏み入れた瞬間、深煎りコーヒーの香りと紙の匂いが混ざり合い、張りつめていた息がふっとゆるむ。

 壁一面の本棚には、マスターの久遠さんが“本当に読んでほしい”と思った新刊が整然と並んでいた。

 どの本も、誰かの手に渡る瞬間を静かに待っている。

 窓際では雨粒がガラスを叩き、一定のリズムで店内の静けさを縁取っていた。


 ――やっぱり、ここが落ち着く。


 私は窓際の席に腰を下ろし、ノートパソコンを開く。

 このパソコンは、ここでバイトして貯めたお金で買ったものだ。

 軽くて扱いやすく、キーを叩く音が好き。

 けれど今は、その音すら出せない。


 カーソルが、せわしなく瞬いている。

 白い画面を前にすると、胸の奥がきゅっと縮む。


(また、書けない……)


 言葉が浮かばない。

 浮かんでも、形にする前に消えてしまう。

 書けない自分を責めるほど、指が動かなくなる。

 そんな悪循環から逃げるように、私は雨の日だけここへ来る。

 雨音に紛れれば、少しだけ自分を許せる気がするから。


 そんなとき、耳元で小さな声がした。


『紗月ちゃん、今日も雨だね』


 クロだ。黒猫型AIロボを通して、久遠さんがインカム越しに話しかけてくる。

 クロの首元の蝶ネクタイがマイク兼スピーカーになっていて、声に合わせて小さく光る。


『小説、進んでる?』

「……全然です」


 苦笑いが漏れる。

 自分でもわかっている。

 進んでいないのは、才能がないからじゃなくて、怖いからだ。

 書いて、誰かに読まれることが。


 クロはしっぽのようなケーブルを揺らしながら、声色を切り替えた。

 中性的で、どこか可愛らしい声。


「じゃあ、カフェラテで脳にエネルギー補給するにゃ。糖分は正義にゃ」

「……お願い」


 スマホのアプリで注文を送る。

 カフェラテ、ホット、砂糖少なめ。


 ほどなくして、白い配膳ロボが静かに近づき、トレーを差し出した。

 私はカップを受け取り、「ありがとう」と声をかける。

 ロボはライトを一度点滅させ、また無音のままカウンターへ戻っていった。


 テーブルに置いたカップから、湯気がふわりと立ちのぼる。

 深煎りの香りが、雨の匂いと混ざり合って胸の奥に染み込んでいく。

 ひと口飲むと、温かさが指先から心の奥まで広がった。


 その様子を見ていたのか、クロから再び落ち着いた声が響く。


『紗月ちゃん。雨の日は、物語が生まれる日だよ』


 私は思わずカウンターの方へ視線を向ける。

 白髪混じりの髪を後ろで束ねた久遠さんが、こちらを見ているような、見ていないような距離感で立っていた。

 眼鏡の奥の表情は読み取れない。

 けれど、どこか安心する“気配”だけが、静かに届く。


 胸が少しだけ熱くなる。


 ――いつか、あの棚に自分の本を置いてもらえたら。


 そんな願いを胸の奥にそっとしまい込み、私は画面に向き直った。

 雨音が、弱さも焦りも静かに包み込んでいく。


 ――雨の日は、やっぱり何かが始まる。

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