黄昏のローマ、暁の知恵
ro-ne
降臨と奇跡の章
アッピア街道の異邦人
鼓膜を揺らす轟音と、視界を白く塗り潰す閃光。それが、佐伯航が「現代」から受け取った最後の記憶だった。
橋梁点検の現場、老朽化したコンクリートの亀裂を覗き込んでいたはずの彼は、気づけば硬い地面に叩きつけられていた。鼻を突くのは、真夏の舗装道路が放つアスファルトの匂いではない。乾いた土と、獣の糞、そして何かが焦げたような、生命の生々しい臭気だった。
「……っ、おい、誰か……」
掠れた声を絞り出し、航は泥にまみれた顔を上げた。視界がゆっくりと焦点を結ぶ。まず目に飛び込んできたのは、見たこともないほど巨大で、かつ精密に敷き詰められた石畳の道だった。その両脇には、現代の電柱の代わりに、等間隔で並ぶ石造りの墓碑と、天を突くような糸杉の列が続いている。
航は自分の姿を確認した。反射材のついた作業服、腰に下げた工具袋、そして左手首に巻かれたタフな構造の腕時計。衝撃で風防にヒビが入っているが、針はまだ時を刻んでいる。ポケットを探ると、スマートフォンの無機質な感触があった。取り出してみるが、画面は暗いまま。落雷による電磁パルスか、あるいは物理的な衝撃か。文明の灯火は沈黙していた。
「……ここは、どこだ?」
立ち上がろうとした時、遠くから規則正しい振動が伝わってきた。ドスン、ドスンと、大地を刻むリズム。それは複数の人間が歩調を合わせて進む音だ。街道の先から現れたのは、幻覚かと思うような光景だった。
赤いマントを翻し、鈍く光る鉄の胸当てを装着した兵士たちの小隊。彼らが手に持つのは小銃ではなく、長大な投槍(ピルム)と、巨大な半円形の盾(スカトゥム)だ。その中心には、煌びやかな馬車が一台、土煙を上げて進んでいた。
航の全身に鳥肌が立った。土木技師としての知識が、目の前の石畳の工法を瞬時に鑑定する。この深く掘り下げられた基礎、排水のための絶妙な傾斜、そして「アッピア街道」を象徴する巨大な玄武岩の敷石。夢ではない。ここは歴史の教科書の中だ。
「……まさか、二千年、戻ったのか?」
呆然と立ち尽くす航に、小隊の先頭を行く十人隊長(デクリオ)が気づいた。彼は馬を寄せ、鋭い眼光で航を見下ろした。その口から発せられたのは、荒々しく、しかしどこか音楽的な響きを持つ未知の言語だった。
「Quis nam tu es? Cur tam foede vestitus es?」(貴様は何者だ? なぜそのような薄汚い格好をしている?)
航の脳内を、大学時代に教養として、そして土木用語の語源として学んだラテン語の片鱗が駆け巡る。意味は辛うじて理解できた。だが、言葉が喉に張り付いて出てこない。不審に思った十人隊長が、腰のグラディウス(短剣)に手をかけた。兵士たちが一斉に槍の先を航に向ける。現代の作業服は、彼らの目には「悪魔の装束」にしか見えない。
殺気が走る。航の心臓が早鐘を打った。ここで殺されれば、歴史の塵として消えるだけだ。航は無意識に、腰の工具袋に手を入れた。指先に触れたのは、現場で使い古した「水準器」と、一本の「ステンレス製水筒」だった。
刹那、航の視線は街道の脇にある小さな水場に釘付けになった。そこは旅人が喉を潤すための公共の井戸だったが、泥が混じり、周囲には汚物があふれている。水面には腐敗した藻が浮き、見るからに疫病の温床のようだった。十人隊長が馬を蹴り、剣を抜き放とうとしたその瞬間、航は地面に跪き、精一杯のラテン語を叫んだ。
「Siste! ……P-periculum! Aqua……venenum!」(待て! ……危険だ! 水が……毒だ!)
その言葉に、馬車の中から一人の老人が顔を出した。深く刻まれた眉間の皺、理知的ながらも疲労を湛えた瞳。彼は十人隊長を片手で制し、航をじっと見つめた。その男の纏うトガの縁には、高貴な身分を示す紫色の帯が鮮やかに染め抜かれていた。航は直感した。目の前にいるのは、この時代で最も賢明で、かつ最も苦悩している男。第16代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌスその人であると。
「異邦人よ」皇帝は静かに問うた。「水が毒だとは、どういう意味か。この井戸は神々の恵みだぞ」
航は震える手で、水筒の蓋を開けた。中に入っているのは、今朝、現代の浄水器から注いだばかりの、
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