第3話 やす子の勇気

やす子は、自分のことをよく知っていた。


前に出るのが苦手。

注目されると、頭の中が真っ白になる。

視線が集まるだけで、心臓が早鐘を打つ。


失敗するくらいなら、最初からやらない。

できない自分を見せるくらいなら、いない方がいい。


そうやって生きてきた。

それで困ったことは、ほとんどなかった。


「ダンサーと、もう一人……」


休憩室で交わされる、けい子とよし子の会話。

やす子は書類を整理するふりをしながら、

心の中で一歩、また一歩と後ずさっていた。


自分には関係ない。

自分が出る幕じゃない。

そう言い聞かせるたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。


選ばれたのは辰雄。

「目立たない役割なので、いいですよ」

これで3人が揃った。


やす子は内心、少しホッとしていた。


しかし、それから数週間が経過したある日。

辰雄が介助中に腰をやってしまった、との事で、

忘年会参加は出来ないと言う申し出を受けた。


辰雄が抜けたと聞いた夜。


やす子は家に帰ってからも、妙に落ち着かなかった。


「ここまで来て、終わりか……」


何気なくこぼした、けい子の一言。

その声が、頭の中で何度も繰り返された。


——あの人たちの夢は終わり、なのか。


本当は、終わらせたくないんじゃないか。

そんな感情が、自分の中にあることに気づいて、

やす子は戸惑った。


数日後。

村山が笑いながら言った言葉を聞いた。


「どうせ寒い舞台になるだろう、いっそ大コケしたら面白いよね、二度とまともに何かやろうなんて思わなくなる、それで静かになるだろう。やらせておけばいいんだ。」


その瞬間、胸の奥で何かがバチンと音を立てて切れた。


悔しかった。

怒りとも違う、苦くて熱い感情。


自分に向けられた言葉じゃない。

それなのに、まるで自分の存在ごと否定された気がした。


——また、笑われる側なのか。


目立たず、波風を立てずに生きてきた。

その選択を、初めて後悔したやす子。


「あの……」


声を出した瞬間、足が震えた。

喉が張りつき、息がうまく吸えない。


「私でよければ……やります」


言ってしまった。

言葉が、空気の中にそっと落ちた。


直ぐに後悔した、取り消したい。

でも、言ってしまった、もう戻れない。


けい子が目を見開く。

よし子が、一瞬言葉を失う。


「無理しなくていいよ」


やす子を良く知るからこその、優しい言葉だった。

だから尚更、胸が痛んだ。


逃げる理由を、差し出された気がした。


やす子は、ゆっくり首を振った。


「怖いです」

声が震える。

「正直、吐きそうです」


それでも、続けた。


「でも……やりたいです」


その一言を言うのに、

今までの避ける事に使った時間を全部を使った気がした。

人生の貯金がゼロになった。


逃げなかった。

やす子にとっては誇らしい事ではなく、

足元がぐらつくほど怖かった。


よし子が、ゆっくりと笑った。


「じゃあ、仲間だね」


けい子も微笑む。


「ようこそ、反乱軍へ。」


その言葉を聞いた瞬間、

胸の奥に溜まっていたものが、溢れそうになった。


まだ何もできていない。

失敗するかもしれない。

それでも——


逃げなかった自分が、ここにいた。


新しい扉を自分の手で開けた気がした。

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