Sand Lowe

Isuka(交嘴)

第1話

砂漠に朝が来ると、世界は一度だけ優しい顔をする。


熱を孕む前の空気は薄く、霧が地表を撫で、遠くの輪郭をぼかす。

その中を、人の列が進んでいた。足並みを揃え、前だけを見て。


音がある。

規則正しい靴音と、遠くから聞こえる拍手のような響き。

乾いて、軽くて、気持ちのいい音。


それは行軍を祝福する音だった。


「前へ」


少年はそう言われて歩いていた。

腕に巻かれた布には「導く勇士」の印がある。

彼自身は勇士などと思っていない。ただ、止まれないだけだ。


止まれば、後ろの誰かが倒れる。

倒れれば、列が乱れる。

列が乱れれば、全員が死ぬ。


それを教えられた。


だから歩く。

霧の中で、月を見ずに。


一方、遠く離れた石造りの広間で、王は静かに立っていた。

白いベールが顔を覆い、感情は読み取れない。


王は窓の外の砂漠を見ている。

正確には、見ていない。

砂漠という概念を眺めている。


人の流れ、資源、恐怖、従順。

砂はそれらすべてを飲み込む器だ。

そして器は、獣でなければならない。


砂はライオンだ。


弱い者を選び、噛み砕き、残る者だけを生かす。

それが自然であり、秩序であり、平和だ。


「進捗は」


王が問う。


「予定通りです。霧時に突入。月は雲に隠れています」


「よい」


王は頷く。


月は人に考えさせる。

考えさせれば、疑問が生まれる。

疑問は、統治に不要だ。


「歌は?」


「繰り返されています。意味は問われていません」


意味など、必要ない。

音だけがあればいい。

快音だけがあれば、人は進む。


王の罪は、ベールの裏にある。

だが王は、それを罪と呼ばない。


それは“必要”だ。


霧の中で、少女は歯を食いしばって歩いていた。

砂が靴に入り、体温を奪う。

喉は乾き、指先は痺れる。


それでも歩く。

止まれば、終わる。


隣を歩く少年が、少しだけ水筒を差し出した。


「……飲む?」


少女は一瞬迷い、首を振った。


「あなたが飲んで」


「大丈夫。……最低限は残ってる」


最低限。

その言葉が、砂より冷たかった。


「ねえ」


少女は小さく声を出す。


「これ、誰のため?」


少年は答えない。

答えられない。


「愛と平和、って言ってた」


やっと、それだけ言った。


少女は笑った。

笑った拍子に、涙が出た。


「愛と平和で、人は死ぬんだ」


少年は何も言えなかった。

否定できなかった。


彼も知っている。

砂はライオンだということを。


倒れた人間を、誰も助けない。

助ければ、自分が食われる。


それが“自然”だと教えられた。


少女はポケットの中の紙を握る。

汗で湿った、小さなメモ。


彼女は書いている。

数。

距離。

倒れた人数。

時間。


秘密ならば、緻密に暴いて。


感情ではなく、記録で。


王は広間で歌を聞いていた。

遠くから、反響する声。


意味のない言葉。

異国の響き。

進歩と理想を並べた標語。


人はそれを理解しようとしない。

理解しないまま、正しいと感じる。


それが一番、扱いやすい。


「被害は」


王が問う。


「許容範囲です」


「なら問題ない」


王はため息すらつかない。


被害は数字だ。

数字は感情を持たない。

感情を持たないものは、罪にならない。


王は、自分が人を殺しているとは思っていない。

ただ、選別しているだけだ。


砂漠では、霧が晴れ始めていた。


視界が開けると、現実が露わになる。

倒れた人。

動かない人。

置き去りにされた荷物。


少女は足を止めそうになる。

少年が振り返る。


「行こう」


声が震えている。

彼も限界だ。


「どうして、王は来ないの」


少女が問う。


「どうして、命令するだけなの」


少年は唇を噛む。


「王は……顔を見せない」


「卑怯だね」


少年は否定しない。


「仮面の裏に、全部隠してる」


その言葉が、少女の中で形になる。


王者の罪は、仮面の裏に。


彼女は書いた。

王は来ない。

王は見ない。

王は数だけを見る。


それが、彼女の武器だ。


やがて、砂嵐が来る。

砂は本当に獣のように唸る。


ライオンだ。


噛みつく。

引き裂く。

容赦しない。


列が崩れ、叫びが上がる。

快音は、もう聞こえない。


少年は少女の手を掴んだ。


「走るな!」


走れば転ぶ。

転べば、食われる。


二人は必死に歩く。

歩くしかない。


遠くで、王は報告を受けていた。


「砂嵐です。想定以上の被害が出る可能性が」


王は静かに言う。


「進め」


「……陛下?」


「進め。止まるな」


止まれば、意味がなくなる。

意味がなくなれば、犠牲が無駄になる。

無駄は、許されない。


王はベールの奥で目を閉じた。


愛と平和のためだ。


砂漠で、少女は倒れた。


足が動かない。

体温が奪われ、視界が揺れる。


少年が支えようとする。


「離して……」


「だめだ!」


「いいから……記録を……」


少女はポケットの紙を押し付ける。


「これ、外に……」


少年の手が震える。


「一緒に行く」


「無理……」


少女は笑った。

もう、怖くない顔だった。


「砂はライオンだよ……」


そう言って、彼女は動かなくなった。


少年は立ち尽くした。

砂嵐が迫る。


彼は紙を握り、歯を食いしばり、歩いた。


歩いて、歩いて、歩いて。


それが、彼の裏切りだった。


後日。


王の前に、一束の紙が置かれた。


記録。

数字。

時間。

証拠。


緻密で、冷静で、否定できない。


王は初めて、沈黙した。


仮面の裏で、何かがひび割れる。


愛と平和の言葉が、音を失う。


砂は、まだライオンだ。

だが、その牙は、王にも届いた。


物語は、そこで終わる。


英雄はいない。

完全な勝利もない。


ただ、暴かれた秘密と、食われた命と、

それでも残った記録だけがある。


そして問いだけが残る。


——その仮面を、次に被るのは誰か。

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Sand Lowe Isuka(交嘴) @k-tsuruta

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