天気は気まぐれ、ままならない
葉山 宗次郎
第1話 天気はままならない
「天気はままならないものだな……うおっ」
ぼやいた直後、岩に乗せた足が滑った。
慌てて両腕で手近な岩を掴み、転倒を防ぐ。
「ふうっ」
間一髪で地面との顔面激突を免れ、ため息を吐いた。
立ち上がろうと顔を上げたところで、動きが止まる。
「畜生め」
高い杉林の間から見える灰色の空を睨みつけながら、昨日からのことを思い出した。
今回の山登りはうまくいくはずだった。
天気予報は快晴。運良く休日で仕事も休み。
昨日は多めに食事をしてスポドリを二本飲んで、早めに寝た。
今日は夜明け前に起きて準備を整え、電車に乗って登山口の最寄り駅へ向かった。
その間に夜が明け、降りた時には雲ひとつない真っ青な快晴だった。
最高の歩き始めだった。
久々の登山としては最高の出だしだ。
車はもちろん、人も多くない早朝の舗装道路を軽々と進んでいった。
途中から暑くなって、上のジャンパーを脱いだ。
ただその時、空に一つ、白い雲が浮かび上がってきた。
そのうち消えるだろうと思って歩き続けていったが、その小さな雲はだんだんと大きくなっていった。
登山口に到達する頃には空に広がり始め、山道を登っている間に低く広がって空を覆いつくした。
山道が険しくなってきた頃には、周囲に霧が立ち込めた。
いや、雲の中に入ったと言うべきだろう。
まったく真っ白で、周りがよく見えない。
幸い、利用者の多い人気のコースなので、標識はもちろん踏み跡もあり、迷うことはない。
だが視界がないので、道を見つけるために注意力を向けなければならず、気力が削がれる。
さらに本来なら絶景が見られるはずなのに、霧で何も見えない。
「ちくしょう……」
苛立ちから独り言が増えるが、声に出さないと足が止まってしまう。
引き返してもいいのだが、山頂に登らずに帰るのが嫌だった。
もしかしたら山頂は晴れているかもしれない。
雲に覆われていたとしても、わずかな隙間から絶景が見られるかもしれない。
その可能性がある限り、山頂に立つことを諦めてはいなかった。
水筒の水を飲もうとしたが、出てこない。
どうやら飲み口が凍結して詰まったようだ。
「まだ、いける」
水筒が使えなくても、前日、スポドリを飲んで体に水分をため込んでいる。
それにザックの中に二リットルの水袋と魔法瓶がある。
一時間に一回の休息で飲めば歩ける。
しかし登り続けていくと、細かい氷の粒が襲いかかってきた。
「うおっ!」
不意に叩きつけられた驚きと痛みに、思わず叫んでしまう。
どうやら予想より寒いらしい。
防水加工されたジャンパーを取り出し、再び着る。
これで濡れる心配はない。
「さあ、いくぞ」
空に注意しながら登っていこうとする。
しかし敵は足元にいた。
「うわっ!」
足元が凍っていたため滑ってしまい、背中から転げ落ちてしまった。
ザックのおかげで頭を打つことは避けられた。
「助かったけど……疲れてるな」
足のこわばりを感じる。
腕時計を見ると、登山開始から三時間。
一時間に一回の休憩を除き、歩き詰めだった。
「昼食とするか」
ザックを外し、手近な岩に腰を下ろした。
ふと上を見ると、赤い前掛けをかけた小さな人形――八十八体のお地蔵さんがこちらを見ていた。
「失礼します」
一礼してから、ザックから昼食を取り出す。
と言っても、寒い冬の昼食はバーナーなど使えない。
料理している間に凍えてしまうからだ。
そのため、凍らない干し柿などのドライフルーツや羊羹を食べる。
おにぎりなどは持ってこない。
水分が凍ってパサパサになり、とても食べられたものではない。
魔法瓶を取り出して、中に詰めていたお湯を飲む。
口から入ったお湯が体の中に染み込み、じんわりと温めてくれる。
その後、ドライフルーツを食べて腹を満たす。
「少しは元気が出てきたな」
多少でも腹が満たされて気分がよくなり、元気を取り戻すと、ザックからチェーンスパイクを取り出した。
軽アイゼン、チェンスパとも呼ばれるこの道具は、突起のついたチェーンを靴底に当て、ゴムで固定する簡単な滑り止めだ。
本格的なアイゼンと専用登山靴よりはるかに安く、金欠登山家にはありがたい装備だ。
ポーチに入るくらい小さくできるからザックの中に入れられて持ち運びが楽。
「よし、いくか」
一分もかからず靴に装着すると再び山を登り始める。
分厚い靴底から、凍った大地にスパイクが突き刺さる感触が伝わる。
おかげで足下が安定している実感を得られ、安心だった。
本格的なアイゼンより性能は劣るが、かなり使える。
足元が安心になったおかげで歩みが軽くなる。
もちろん周囲への注意は怠らない。
霧で周りが見えないという状況は変わらないが、確実に前に進んでいるという自信が背中を押した。
「……おお」
目の前に氷の塊――氷瀑が現れた。
普段はちょろちょろと流れるだけの小さな滝だが、幾重にも水が流れては凍り、流れては凍りを繰り返し、いつしか分厚くなり、大きな氷瀑となったのだ。
「凄い……」
分厚い青い氷と細く白いつららの折り重なる美しい造形。
氷と雪の芸術に心を奪われる。
気がつけば、カメラを構えて撮っていた。
「だが、どうやって通るんだ」
シャッターを切った後、現実に引き戻される。
登山道、頂上への道はこの氷瀑の真下を通る小さな橋だ。
しかし橋の上は、すべてが氷に覆われていた。
チェーンスパイクは付けているが、あの分厚い氷の上を歩けるか、スパイクが突き刺さるか、少し心配だ。
一歩、氷に足を入れた。
だがスパイクが氷に噛まない。
万が一滑ったら、急斜面ゆえに下に転落。
大けがは免れない。
足がすくむ。
「さて、どうする」
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