トラと一花の〆切ウォーズ
STUDIO QAZXOO (スタジオ・
トラと一花の〆切ウォーズ
偵察員§∞は、水の星への降下中、擬態プログラムを確認した。この星の支配種族「水の星人」が最も警戒心を抱かない生物——データベースによれば「イエネコ」。彼らの生活圏に自然に侵入できる完璧な選択だ。
変身は一瞬で完了した。茶色の縞模様を持つ、ごく平凡な猫。住宅街の路地裏に着地し、§∞は任務を開始した。
アパート二階。漫画家志望の一花が机に突っ伏していた。
「あーもう! なんで決めポーズが思いつかないのよ!」
液晶タブレットの画面には、描きかけのヒーロー漫画。コンテストの締切まであと一週間とちょっと。
窓の外から、猫の鳴き声が聞こえた。
「にゃーん」
一花は顔を上げた。窓を開けると、隣の家の屋根に茶トラの猫がちょこんと座っていた。
「あら、かわいい。お腹すいてるの?」
一花は猫を抱き上げて部屋に入れた。牛乳とツナ缶を与えると、猫はすぐに平らげた。
「すごい食欲ね。この縞模様……トラって呼ぼうかな」
トラは記録を開始した。『個体識別:イチカ。脅威レベル:測定中』
「よろしくね、トラ」
トラは、この個体「イチカ」を生態分析のターゲットにした。
数日間、トラは一花の部屋で暮らしながら、任務を遂行していた。
今日も一花は液晶タブレットに向かっている。集中している今が、データ収集の好機だった。トラは彼女の背後に回り込むと、軽やかにジャンプして背中に着地した。
「ちょっとー、トラ重いよー」
トラは肉球から微細な走査波を放出した。バイタルスキャン開始。
ターゲットが作業に没頭している最中の接触すら、咎められないどころか許容される。イエネコに与えられたこの特権は、実に効率的だ。
スキャン完了。結果は予想通りだった。
§∞は収集したデータを月の裏側へ送信する。
『水の星人の戦闘能力は極めて低い』
月の裏側では、巨大な艦隊が静かに浮遊していた。司令官がディスプレイを確認する。
「ふむ、予想通り貧弱な種族のようだな」
司令官は艦隊全体に指令を発信する。
『全艦に告ぐ。水の星が七周したのち、侵略を開始する。それまで各自訓練をしておけ。§∞は、最終分析データを提出するように』
侵略開始までの七日間、トラは一花の観察を続けた。
一花はトラに温かい寝床、美味しい食事、仕事の合間には惜しみない愛情を注ぐ。
§∞の定期報告には「快適」といった謎のデータが並び、月の裏側で待機する司令官の元へ自動送信された。
「偵察員§∞からの『快適』という報告は、一体何のことだ?」
司令官は不可解なデータに首を傾げる。
カウントダウンは、確実に進んでいた。
侵略まであと三日。一花は相変わらず漫画制作に苦戦していた。
「ダメだ、決めポーズが思いつかない」
液晶タブレットには、主人公の勝利の決めポーズのコマ。何度描き直しても、しっくりこない。
煮詰まった一花が、息抜きに猫じゃらしでトラと遊び始めた。その時、じゃれつくトラのしなやかな体のひねりを見て、一花が叫ぶ。
「それだ!」 彼女は液晶タブレットに飛びつき、今見た動きを必死に描き留めていく。
「このポーズを人間に置き換えれば……完璧な必殺技になる! トラ、ありがとう!」
イチカの創作に貢献できた。彼女の笑顔を見た瞬間、トラの胸に温かいものが込み上げ、システムはそれを未知のバグとして記録した。
トラの動きにヒントを得た一花は、残りの数日間、猛烈な勢いで作画に集中した。
食事も睡眠も最小限。一花はひたすらスタイラスペンを走らせる。画面には次々とコマが埋まっていく。
トラは一花の背中を見つめながら、内心で思う。
『この少女の努力を無駄にしたくない。だが任務は絶対だ。ごめんよ、イチカ』
侵略当日の朝。疲労困憊になりながらも、一花はついにコンテスト用の漫画原稿をすべて完成させた。
「やった……完成だ!」
トラは、達成感に満ちた一花の横顔をじっと見つめた。
『自分の星まで破壊した我が種族とは違う。これがつくることか……よくやった、イチカ』
侵略当日の午後。
一花は応募データをファイルにまとめた。
「よし、あとはこのファイルを送るだけ!」
彼女はデスクトップにファイルを保存すると、安堵のため息をつき、そのまま机に突っ伏して眠ってしまった。数日間の徹夜作業の疲れが、一気に押し寄せてきたのだ。
トラは眠る一花と、デスクトップに保存されたファイルを交互に見つめた。侵略開始まで、あと数時間。
侵略開始時刻が到来した。
§∞の頭の中に、司令官の声が直接響いてきた。
「これより侵略を開始する。§∞、水の星人の最終分析データを提出せよ」
§∞の全身が凍りついた。最終分析データ? そういえば……送ってない! 猫生活の、あまりの快適さに完全に忘れていた!
「おい§∞! データはどうした!」
司令官の怒鳴り声で、トラは慌てて一花のパソコンに飛び乗った。えーっと、データ、データ……あった! デスクトップにファイルが! とりあえずこれを送っとこう!
ポチッと送信。
月の裏側、旗艦のブリッジ。
「データ受信完了。ほう、ヴィジュアルレポートか。最近の偵察員は気が利いているな」
司令官がディスプレイを展開すると、カラフルな画像が表示された。
「おお、絵で説明とは分かりやすい!」
副官もクルーたちも画面に釘付けになった。
画面をスクロールしていくと、金髪の男が指を鳴らし、周囲の全てが静止するシーンが現れた。
副官が息を呑んだ。
「司令官! この金髪の男、時間を止めています!」
「なんと、我々の科学技術をもってしても実現できない、時間停止を……!」
司令官の声が震えていた。
さらに、スクロールしていくと、どうやら、主人公の妹は金髪の男によって化け物にされたことがわかった。その妹を元に戻すために主人公は戦っているようだ。
そして、後半は主人公と金髪の男のバトルシーンだった。
「うおおおおお!!!!!」
「司令官スクロール遅すぎー」
「早くしてくださいよー」
「うるさい!」
震える手で画面をスクロールする司令官。今度は主人公が空に向かって両手を掲げ、巨大なエネルギー球を生成している。
次の画面——ドカーン! 惑星が木っ端微塵に。
「ひいいいい!」
誰かが悲鳴を上げた。
最終画面。主人公が決めポーズで勝利している。
ブリッジに静寂が流れた。
そして——
パチ。
パチパチ。
パチパチパチパチ!
「文字読めんけど、なんかすげえ!」「あの決めポーズ、カッケー!」「全星が泣いた!」
司令官も、副官も、クルーも、全員が立ち上がって拍手していた。いわゆる、スタンディングオベーション。
「って、拍手している場合じゃなーーーい!!!」
司令官の絶叫が響き渡った。
「これは水の星の戦闘記録だぞ! 見ろ、星を破壊してるじゃないか! こんな化け物どもと戦えるか!」
司令官の額から冷や汗が滝のように流れ落ちていた。
「ぜ、全艦緊急撤退! もたもたするな! この星の住民に見つかったら、我々も木っ端微塵だぞーーー!!!」
侵略艦隊は文字通り一目散に、月の裏から宇宙の彼方へと逃げ去っていった。
こうして水の星は救われた。
一花とトラ、涙の別れ、感動のエンディング……
「司令官~わたしのこと忘れていますよ~」
……にはならなかった。
水の星に取り残されたと悟ったが、不思議と絶望感はない。
振り返ると、一花が机に突っ伏して眠っている。ひどい寝癖によだれの跡。それでも、その寝顔は満足そうだった。
トラは安堵のため息をつき、一花の傍で丸くなる。
『人づかいの荒い司令官より、一花のほうが百万倍マシだ!』
トラの喉から、小さくゴロゴロと音が鳴り始めた。
数カ月後、一花がコンテストの結果通知を受け取った。
メールを開く。結果は落選。選評には「既視感のある作品。設定がありきたりで、独創性に欠ける」と書かれていた。
しかし一花は……
「そうだ! トラ、次は主人公が序盤で命を落とすのはどうかな? 読者が驚くよ!」
……相変わらずだった。
しかし、落選した漫画をSNSに投稿したところ、一部でバズった。一花の願いと違って、パロディマンガとしてだが。
そんな彼女の傍らで、トラは満足げに喉を鳴らす。一花の手が優しく背中を撫でる。温かい。
ふと、トラが一花の体の上に乗った。いつものように、四本の足でバランスを取りながら。
『バイタルスキャン完了。よし! 今日もイチカは絶好調!』
……あなたの家にいる猫も、もしかしたら宇宙人かもしれません。
ほら、今日もあなたの体の上で、バイタルスキャンをしていますよ。
トラと一花の〆切ウォーズ STUDIO QAZXOO (スタジオ・ @STUDIO_QAZXOO
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