真実を暴いて殺された敏腕記者は、異世界で悪役令嬢の謎を解く

角煮カイザー小屋

プロローグ 前世の私

 東京の夜は、腐ったような甘い匂いがする。  降りしきる冷たい雨が、アスファルトに染み込んだ排気ガスと埃の匂いを巻き上げ、都市の空気を澱ませていた。  時刻は深夜二時を回っている。本来ならば静寂が支配するはずの港区の裏通りは、遠くを走る首都高速の走行音が絶え間なく響き、神経を逆撫でするような重低音を奏でていた。


 奥田さやかは、濡れたトレンチコートの襟をかき合わせながら、ヒールの音を殺して歩いていた。  三十代半ばにして大手新聞社の社会部エース記者と呼ばれた彼女の顔には、今、余裕の色はない。あるのは焦燥と、獲物を追い詰めた猟犬のような鋭い眼光、そして――隠しきれない恐怖だった。


 彼女の懐、ジャケットの内ポケットには、プラスチック製の小さな記録媒体――SDカードが一枚、肌着越しに体温を伝えている。  たかが数グラムのチップ。だが、その中身には、現職大臣と大手ゼネコン、そして反社会的勢力を繋ぐ決定的な「帳簿」のデータが眠っていた。  裏取りは済んでいる。金の流れ、接待のリスト、そして「消された」関係者の名前。  明日の朝刊でこれが世に出れば、内閣が1つ吹き飛ぶ。  それだけの爆弾を、さやかは今、抱えていた。


(……甘かった)


 さやかは唇を噛みしめる。口の中に鉄錆のような血の味が広がった。  取材源の秘書は「絶対に安全な場所」だと言って、この廃ビル裏の駐車場を指定した。だが、そこに待ち受けていたのは情報提供者ではなく、仕立ての良いスーツを着た、目の笑っていない男たちだった。  罠だったのだ。  あるいは、秘書も既に消されたか。


 背後で、水たまりを踏む音がした。  1つではない。2つ、3つ。  包囲されている。  さやかは歩調を早めた。走れば、相手を刺激する。あくまで自然に、大通りへ抜ければ、タクシーの一台くらいは捕まるはずだ。  だが、その希望的観測は、唐突に現れた黒塗りのセダンによって断ち切られた。  路地を塞ぐように停車した車のヘッドライトが、容赦なくさやかを照らし出す。視界が真っ白に染まり、彼女は反射的に腕で顔を覆った。


「奥田さやかさんですね」


 機械的な声だった。  光の向こうから男が近づいてくる。手には、雨に濡れて鈍く光る何かを持っていた。  ナイフではない。サプレッサー付きの拳銃か、あるいはスタンガンか。  さやかは後ずさりしようとして、背中に冷たいコンクリートの感触を覚えた。行き止まりだ。


「……記事にするつもりはないわ。データも返す。だから」


 震える声を必死に抑え、交渉を試みる。  嘘だ。生きてここを出られれば、何がなんでも記事にする。それが記者の、いや、奥田さやかの生き様だ。  だが、男はさやかの言葉など聞こえていないかのように、淡々と距離を詰めた。


「残念ですが、交渉の余地はありません。先生がお困りになりますので」


 先生。  その言葉が出た瞬間、さやかは悟った。これは警告ではない。処分だ。  逃げ場はない。  次の瞬間、乾いた音が雨音に紛れた。


 熱。  焼けるような熱さが、腹部を貫いた。  痛みは遅れてやってきた。内臓を直接火箸で掻き回されるような激痛に、さやかの膝が崩れ落ちる。  泥水の中に倒れ込んだ彼女の視界に、自分の腹から流れ出る赤い液体が映った。雨水と混じり合い、黒いアスファルトにおぞましい紋様を描いていく。


「データは回収します」


 男がしゃがみ込み、さやかの懐に手を伸ばす。  やめて。  それは私の魂だ。  何ヶ月も足を使い、何人もの涙を聞き、ようやく手に入れた真実だ。  奪われる。隠蔽される。  悪が栄え、真実が闇に葬られる。  そんなことが許されていいはずがない。


(動け……動いてよ……!)


 さやかは泥水に濡れた手で男の足首を掴もうとした。  だが、指先に力が入らない。  視界が急速に狭まっていく。  男がSDカードを抜き取る感触があった。  遠くで車のドアが閉まる音。エンジンの始動音。タイヤが水を跳ね上げる音。  それらが全て遠ざかっていき、後にはただ、冷たい雨音だけが残された。


 寒い。  体の芯から熱が奪われていく。  意識が混濁する中で、さやかの脳裏に浮かんだのは、かつて取材した老婆の言葉だった。  ――正直者が馬鹿を見る。そんな世の中じゃあ、死んでも死にきれないよ。


 まったくその通りだ。  こんな理不尽な最期があるか。  私はまだ、何も伝えていない。  巨悪の正体も、虐げられた人々の声も、何ひとつ世界に届けていない。  無念が、悔しさが、痛みを超えて胸を焼き尽くす。  もしも。  もしも次の機会があるのなら。  今度こそ、誰にも真実を隠させはしない。  どんな手を使ってでも、闇を暴き、白日の下に晒してやる。


 その強烈な執念だけを灯火にして、奥田さやかの意識はプツリと途絶えた。  東京の片隅、名もなき路地裏で、1つの命とともに、1つの真実が死んだ。  ……はずだった。

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