ソルの塔
らおん
第1話 はじまり
空は、濁った紫色に染まっていた。
魔界を覆う猛毒の霧――『瘴魔力(しょうまりょく)』。
魔族にとっては力の源だが、人間であるアーク・ヴァローにとっては、肺を焼く死の風だ。
「……あ、危ねぇな」
外縁区(ロウアー)のスクラップ場。アークは錆びた鉄屑の山を、軽やかな身のこなしで飛び降りた。
胸元には、淡く光るクリスタルの『居住許可証(パス)』。これの放つ微かな光だけが、彼の周囲にある死の霧を辛うじて退けている。
「アーク!またそんな鉄屑を……。ほら、準備はできたのか!」
スクラップ屋を営む義足の老魔族、バシュタが声を荒げる。その手には、一枚の奇妙な書状が握られていた。
「……バシュタ。やっぱり僕、行かなくちゃダメかな。何かの間違いだよ。僕みたいな『無能力(ゼロ)』の人間が、第一魔導院になんて……」
一週間前、このゴミ溜めのスラムに、突如として銀色の鳥が舞い降りた。
届けられたのは、魔界の頂点、魔導王ソル・バルバトスの紋章が刻まれた封書。
そこに記されていたのは、アークの入学を許可……いや、強制する「招待状」だった。
「間違いだろうが何だろうが、王(ソル)の印が入った書状だ。拒めば、次の瞬間にはこのスラムごと消滅させられる。いいかアーク」
バシュタはアークの肩に重い手を置き、その目を見つめた。
「お前は魔力もねぇ、親の素性も分からねぇ。だが、このゴミ山で生き抜いてきた『しぶとさ』がある。魔力がないなら知恵を使え。いいな」
バシュタはそれだけ言うと、アークに古びた剣を握らせ、その背中を力強く叩いた。
魔界国立・第一魔導院
内環区(アッパー)の頂点にそびえ立つ学園。そこは、アークの住むスラムとは別世界だった。
豪華絢爛な装飾、そして何より、会場を埋め尽くすエリート魔族たちが放つ魔力の圧。アークは、まるで海中に沈められたような重苦しさを感じていた。
周囲の視線は冷ややかだ。というより、困惑に近い。
「おい、あいつ……人間だろ? なんでこんなところに」
「魔力も感じない。家畜を紛れ込ませて、何の余興だ?」
アークはいたたまれず、講堂の隅で首をすくめた。
自分でも分かっている。ここは、自分がいていい場所ではない。
「静粛に」
その一言。ただの一言で、騒がしかった講堂が水を打ったように静まり返った。
檀上に現れたのは、魔界三傑の一人、学園長ヴォルガノ。
巨大な角を持つ厳格な老魔族。彼が放つ覇気だけで、アークの居住許可証が激しく明滅し、パキリと小さな亀裂が入った。
ヴォルガノの眼差しは、冷酷に新入生たちをなぞっていく。
そして――アークの姿を捉えた瞬間、その眉が不快げにぴくりと跳ねた。
(……あれが、あの方の仰っていた『イレギュラー』か。悪い冗談だ)
ヴォルガノはアークを無視するように、宣言した。
「これより、ランク判定の儀を行う。魔界は実力がすべて。ランクこそが貴様らの価値だ」
次々と生徒が測定器に触れ、手の甲に『魔印(メイン)』が刻まれる。
ランクが決まるたびに歓声と絶望が入り乱れる。魔力こそが法であり、血統こそが正義。その価値観が支配する、残酷な選別。
そして、ついにアークの番が来た。
アークが震える手を機械に乗せた瞬間――。
――ガガガガッ、ボムッ!
測定器が不気味な悲鳴を上げ、黒煙を吹いて沈黙した。
「……判定不能。魔力数値が低すぎて、測定器の最低保証値にすら届かん。ランク外。G(ゴースト)ランクだ」
ヴォルガノの冷たい声が響くと、一瞬の静寂の後、講堂は爆発的な嘲笑に包まれた。
「ハハハ!幽霊ランクだってよ!」「ゴミを測る秤はねぇってか!」
ヴォルガノは、アークを「不浄なゴミ」として見下ろし、吐き捨てるように言った。
「……魔導王様からの直々の編入指示があった故、籍だけは置いてやる。だが人間、私はこの学園を汚す者を許さない。身の程を知れ」
ヴォルガノが軽く指を弾いた。
それだけで、彼が放つ「魔力の重圧」が、物理的な衝撃となってアークを襲った。
「……う、あ……ッ!」
床に叩きつけられ、骨が軋む。呼吸が止まり、視界がチカチカと火花を散らす。
周囲の魔族たちは、その無様な姿を肴に笑っている。
(……ふざけるな。なんで呼ばれたかも分からないのに……勝手に呼び出しておいて、ゴミ扱いかよ……!)
アークの脳裏に、バシュタの顔が浮かぶ。
『いいか、どんなに惨めでダサくても、しぶとく生きろ』
その瞬間――アークの手の甲の、光を失っていたはずの「灰色の紋章」が、一瞬だけ真黒(しんこく)に染まった。
「……なんだ!」
ヴォルガノが目を見開く。
アークを押し潰していたはずの、数万もの魔力の粒子が、アークの肌に触れた瞬間に「消失(ゼロ)」していく。
重圧が消え、アークはゆっくりと立ち上がった。
「……消えない。僕は、消えないぞ……!」
アークは荒い息を吐きながら、檀上の三傑を、そしてその遥か上空――天に聳える、魔導王の居城『ソルの塔』を睨み据えた。
「あんたたちが決めるランクなんて関係ない。僕は、僕の足であの塔を登って、全部確かめてやる!」
その少年の叫びは、嘲笑の渦を切り裂いた。
会場の隅で、酒瓶を抱えていた一人の教師――ゼファーだけが、その光景を見て不敵に口角を上げた。
「……面白ぇ。消したんじゃねぇ、あいつ、今『喰った』な……」
無価値と笑われた少年が、世界を変える最初の一歩。
魔界の歴史が、音を立てて狂い始めた。
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