アルケオン 霊鏡物語

れんP

霊鏡漂着編

第1夜 霊鏡に迷いしもの

「……はぁ……はぁ……」


喉が裂けるように熱く、息を吸うたび胸の奥が痛んだ。

足はとうに感覚を失い、ただ前へ、前へと動かしているだけだった。


「……もう……歩け……ない……」


言葉は風に溶け、返事はない。

夜とも夕暮れともつかぬ薄闇の森の中で、少女は一人だった。


「お父……さん……お母……さん……」


名前を呼ぶことすらできず、かすれた声が漏れる。

思い出そうとするたび、炎の色が脳裏を焼いた。赤く、黒く、すべてを呑み込む光。

叫び声。土の焦げる匂い。倒れる家々。


足がもつれ、少女は前のめりに倒れた。

乾いた音がして、膝が地面に打ちつけられる。


「……っ……」


痛みを感じるより先に、力が抜けた。


「……ここ……どこ……?」


見上げた空は、知っている夜空とは違っていた。

星はぼんやりと滲み、木々は異様なほど静かだ。

虫の声も、風の音も、いつの間にか遠ざかっている。


風が、止んだ。


「……寒……い……」


指先から体温が失われていく。

少女は身を縮め、そのまま地面に身を預けた。


視界が暗くなり、意識が沈んでいく――。


 


「………………」


森の奥で、空気が揺れた。

風がないはずの場所で、葉がわずかにざわめく。


闇の中から、人影が現れた。


「……血……と……焼けた……匂い……」


低く、掠れた声が漏れる。

その影は少女の傍らにしゃがみ込み、じっと見下ろした。


「……子供……か……」


横たわる少女の着物は煤に汚れ、ところどころが焼け焦げていた。

腕や足には擦り傷があり、浅いが新しい。


「……来……ないで……陰陽……師……」


眠りに落ちきれぬ意識の底で、少女が呟いた。

怯えきった声だった。


「……違う……」


影は小さく首を振る。


「……私は……人間……じゃない……」


少女の呼吸が浅くなっているのを確かめると、影は周囲を見渡した。


「……気を……失ってる……」


森は静かだが、完全に安全とは言えない。

この世界には、弱ったものを狙う存在がいる。


「……ここに……いては……“悪いやつ”に……食われる……」


しばし沈黙。

そして、ため息にも似た気配。


「……仕方ない……」


影は少女をそっと抱き上げた。

その動きは驚くほど静かで、風すら立たない。


森の奥へ、二つの影は溶けていった。


 


――――


 


「……」


かすかな暖かさを感じ、少女は目を開けた。


天井があった。

古びた木の梁。隙間から差し込む淡い光。

焚き火の匂いが鼻をくすぐる。


「……ここは……どこですか……?」


声はまだ弱いが、はっきりとしていた。


「……霊鏡の……山小屋……」


答えた声は、先ほど森で聞いたものと同じだった。


少女はゆっくりと顔を向ける。

そこには、年若い女性の姿があった。だが、どこか人とは違う。

鋭さを秘めた瞳。風を裂くような気配。

そして、その背後でわずかに揺れる、刃のような風。


「……私の……家……」


女は火のそばに腰を下ろし、少女を見た。


「……半妖……名前は……何ていう……?」


少女は一瞬、言葉に詰まった。

名を名乗ることが、こんなにも怖いと思ったことはない。


「……亜由あゆ……です……」


ようやく絞り出した声。


「……私は……亜由……です……」


女は小さく頷いた。


「……私は……ナチカ……」


その名を告げると、静かに続ける。


「……鎌鼬……」


亜由は目を見開いた。


「……ナチカさんは……妖怪……ですよね……」


問いかけに、否定はなかった。


「……そう……私は……妖怪……」


炎がぱちりと音を立てる。


「……今日は……ここに……泊まっていくと……いい……」


ナチカは焚き火に薪を足しながら言った。


「……後で……“あの方”に……見てもらう……」


「あの方……?」


亜由が聞き返す。


「……半妖のことなら……」


ナチカの視線が、どこか遠くを見る。


「……あの方が……一番……知っている……から……」


そして、優しくも厳しい声で告げた。


「……今は……もう……寝るといい……」


亜由は小さく頷き、目を閉じた。

恐怖はまだ消えない。

けれど、炎の温もりと、この不思議な妖怪の存在が、ほんの少しだけ心を緩めてくれた。


外では、霊鏡の森が静かに息づいている。

この夜が、彼女の運命を大きく変えることを、まだ誰も知らなかった。

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