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なんば

第1話

日暮れ前、夕焼け空と夜空の境目が曖昧になる頃。

橙色に浸された教室の中で、僕は先生と二人、向かい合って椅子に座っていた。


「今日は助かったよ。いつもありがとう」


先生は汗を拭いながら、ペットボトルに手を伸ばして言う。

僕は「大丈夫です。もう帰りますね」と言い、笑って見せた。

その曇った笑顔を見抜かれる前に、背を向け、扉に手を掛けると、


「気をつけて帰りなさい」

「君は優しい子だから、将来は人を支える仕事に就くのがいいと思うよ」


そう聴こえたので、会釈をして長い廊下を歩き出した。

放課後の、自分の足音だけが反響している校舎は、昼間とは違い、ずっと気が楽で、

帰りたくないと思うほどに心地よい。

昼間は牢屋のように見えた教室も、今では旅行先の宿のように見え、

強制労働所のように見えた校庭は、貸し切りの娯楽施設のように見える。


校門から外へ出ると、顔のパーツをグルグルと動かして、凝り固まった表情筋をほぐしながら、ぼやけていく世界の中で今日を振り返っていた。


いつもと同じ位置に座り、同じ黒板を見つめ、同じ人間と関わる。

こんな生活になったのはいつからだろうか。

どれだけ記憶を辿っても、規則的に、最初から結果が分かってしまうような、この習慣化された生活から解放されたことは一度たりともなかった。


それに反抗しようと思ったこともない。

何故ならこれは綱渡りのようなもので、バランスを崩せば、戻れなくなる。

それを本能的に理解していた僕は、恐れながら、それでも少しずつ進む他になかった。


現に今も、落ちないように、俯きながら歩いている。

アスファルトからの熱気を顔いっぱいに感じながら、夏の騒がしい匂いを吸い込みながら、家を目指した。


家に着き、ドアを開けば幼い頃の写真が目に入る。

純粋無垢な笑顔は、可愛らしく、今の僕とは似ても似つかない。

静寂に包まれた家の中には誰も居ないようで、古く、ミシミシと音を立てる階段を上ると、自分の部屋でベッドに横たわった。


薄暗く蒸し暑い部屋は、休むどころか、体力を削ぎ落としてゆく。

そんな中、僕は鏡に向かって笑顔を作って、あの写真と見比べていた。

鏡に映っているのは、不純物だらけの偽りの笑顔で、こんなものを他人に見られるのが恥ずかしい。

今日の放課後、先生に見られたのを思い出すと、胸底で何かが膨張して苦しかった。

自嘲が混ざった笑みを見て、先生は何を思うのだろうか。

気づいているのなら、僕を嘲笑しているのかもしれない。

先生であれば、見抜くのは容易いだろう。


もし気づいていないのであれば、この尊敬の念は消え失せ、神のような存在から、

同じ人間になってしまう。


考えるだけで胸が詰まりそうだ。

僕を導く大きな光が、実は偽物で、手元にある壊れかけの懐中電灯と同じだったら、

どれだけ落ち込んでしまうのか、見当もつかない。

僕は、今日も、明日も、明後日も自分を偽る。

それはもはや、人間のふりをした獣のようなものだ。

それでも、そうして生きていくしかなかった。



翌朝になると、昨日とは違い、肌寒く、曇っている。

これは梅雨の名残だと、そう思い、心の中でさよならを告げていると、

学生服に着替え、外へ出た。

登校している途中、後ろから同級生に声を掛けられた。

僕は広く浅く、誰にでも当たり障りなく生きてきたので、

こういう時の対処法は誰よりも分かっているつもりだった。

笑みを浮かべ、明るい声で、相手と同じ言葉を繰り返し、同調すればいい。

そうすれば相手は満足し、僕は普通の人に擬態できる。

例え、過去に取り返しのつかないことをしていたとしても。


校門が見えてくると、何やら心が騒めいている。

きっと、さっきの同級生のせいだろう。

独りで居たい欲と、繋がりの本能で引き裂かれる感覚。

これは僕に与えられた罰なのだろうと、受け入れるしかなかった。

いや、受け入れるというより、酔いしれるという表現の方が正しいのかもしれない。

とにかく、僕は足早に教室へ向かった。


昨日の宿は、跡形もなく牢屋に変わっていた。

まるで別世界のように、重苦しい雰囲気が漂い、囚人番号が割り振られ、罪人の集まりのようだった。

僕は決められた場所に腰を下ろすと、正しい人間になるためのレクチャーを受けた。


いつもと同じ作業をこなしていくと、ついに最後の授業だ。

文学国語の先生が教壇に立って、準備をしだした。

プリントを配る音に、インクの匂い。


授業の内容は、とても退屈なものだったが、教科書を捲っていると、

とても眩しく美しい文字の羅列が目に入った。


「許せない過去を最後に他人に打ち明ける」


このような内容の小説で、タイトルを見る余裕すらなく、決心した。

先生に僕の隠していた全て、伝えたいことをノートに書きだそうと。


チャイムが鳴り、放課後になると一目散に家へ向かった。

ドアを開き、何も言わない親の横を通り過ぎ、階段を駆け上がると、

ノートに夢中でペンを動かした。ひたすらに書き殴った。

白紙の紙にインクが滲んでいる。

罪の独白のように、壁に向かって話しかけるように。


これ以上書くことが見当たらなくなると、読み返してみた。

文脈はぐちゃぐちゃで、意味不明に思われるかもしれない。

随分と長い間書いていたつもりだったが、5ページだった。

隠していること、伝えたいこと、過去の話。全部合わせて5ページ。


ゆっくり立ち上がると、妙に重いノートを黙って鞄に入れた。

このノートにだけ、本当の自分が映っている。

先生はそれを見て、何を思うだろう。


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