光なき夜は君がため

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光なき夜は君がため


 アルヴェイル国の王城では、満ちる月に豊穣を願って『観月の宴』が開かれる。

 しかし二十年前からその当日になるといつも決まって分厚い雲が立ち込め、輝く月ごと夜空を覆い隠していた。

 人々は姿を見せぬ月を惜しみつつも、雲上を照らしているであろう月光に想いを馳せながら宴を楽しんでいる。


 だが、この国の中枢には月を隠す雲を心から願う者がいた。

 王女ルーナ・アルヴェイルである。

「……今宵も雲を呼べた」

 宴の喧騒から離れたバルコニーで、ルーナは暗い空を見上げてその瞳に安堵を宿した。

 明かりのない夜の帳にも銀色に輝く髪が、冷たい風を受けてそよそよと揺れる。

 淡い月光にも似た神秘的な姿。ルーナは人ではない。子のない王夫妻の願いに応えて地上に降りてきた、月の精霊だった。


 満月の光は故郷からの迎えの道だ。その直射を浴びればルーナは光の粒子となって月への帰還を余儀なくされる。

 だから彼女は、自身の魔力を密かに使って空を雲で閉ざし続けてきた。己の愛した地上に留まるために。

 毎月アルヴェイルの空を覆う厚い雲は、ルーナの姿を隠す魔法のヴェールなのだった。


「ルーナ、こちらにおられたのですか」

 背後から愛しい声が響き、ルーナは弾かれたように振り返った。

 黒髪を一括りにまとめた長身の青年、騎士ギデオン・アランロドが、琥珀色の瞳を優しく細めて彼女に歩み寄る。

「ギデオン……。あなたも宴を抜け出してきたの?」

「ええ。あなたがいない宴など、俺には意味がありませんから」

 ギデオンは自らのマントを外して彼女に羽織らせ、夜気に冷えた身体を抱きしめる。ルーナの心臓が甘く跳ねた。


 一年前の観月の宴で二人は出会った。互いに一目で恋に落ち、王女と騎士という立場を超えて愛を育んできた。

 彼と過ごす年月は、永い時を生きる精霊のルーナにとって瞬きするのも惜しいほど鮮烈な輝きに満ちていた。

 ギデオンへの愛が彼女の故郷を月からこのアルヴェイルに変えたのだった。


「今夜も月は見えませんね」

 彼女を抱きしめたまま、ギデオンが特に残念がる風でもなく呟く。

「……ええ。観月を楽しみにしている民には申し訳ないけれど」

「俺は月のない夜が好きです。闇は……恋人たちに優しい」

 ギデオンもさきほどのルーナのように、強い祈りの籠る眼差しで雲を見つめていた。ルーナは自分を抱く彼の手が微かに震えていることに気づいて不思議に思う。


 ――騎士ギデオンもまた、命懸けの秘密を抱えていた。

 彼は人狼の血を引く生まれつきの半人半獣だ。普段の夜ならば人の理性が勝っているが、満月だけは話が違う。

 強い魔力を帯びた光はギデオンの本性を容易く暴く。軋みを上げて骨が歪み、鋼鉄の毛を逆立て、獣の姿を露わにしてしまうだろう。

 もしも満月が顔を出せば、愛する王女のそばにはいられなくなる。己の爪と牙がルーナの命を奪いかねないことが、ギデオンにとって何より耐え難い恐怖だった。


 ギデオンは、いつもアルヴェイルの空を覆う灰色の天蓋に感謝を捧げていた。あの厚い雲のおかげで彼は騎士として、そして一人の男として、彼女の隣に立つことを許されているのだ。


「不思議なものね」

 ギデオンの震える手にそっと触れ、ルーナがふわりと微笑む。

「恋人たちは月明かりのもとで愛を語らうものでしょう。なのに私たちはこうして、光のない夜に安らぎを感じている」

 彼の恐怖は知らないけれど、それを和らげたいと強く想うのだった。

「煌めく月明かりがなくとも、あなたという灯があれば俺は決して迷いません」

 ギデオンは躊躇いながらもルーナの手へと自身の指を絡ませた。彼女の肌はひやりとしていて、壊れそうなほど華奢だった。

 もし自分が獣に戻れば、この尊い体温を砕いてしまうかもしれない。恐怖がギデオンの手を一層優しくさせた。


「……ねえ、ギデオン。私には、秘密があるの」

 不意に零れたルーナの言葉にギデオンは肩を強張らせた。彼女が月の精霊であることなど知る由もない彼は、自分の正体に感づかれたのかと息を呑む。

「私、この雲がずっと晴れなければいいと思っているの。身勝手な王女でしょう」

 ルーナは自嘲気味に笑う。本当のことを言えるはずがなかった。『月光を浴びたら、私は天へ帰らなければならない』などと。


 ギデオンはそんなルーナを強く抱きしめる。互いに同じく秘密と愛を持っていることに気づいたのだ。

「奇遇ですね。俺も同じことを願っていました」

「あなたも……?」

「不躾な満月など永久に見えなくていい。この空の下であなたのそばにいられるなら」

 あなたがそばにいてくれるのなら、真実を曝す明かりは必要ない。


 二人の視線が絡み合う。

 ルーナは知らない。彼が獣の血を抑えるために闇を必要としていることを。

 ギデオンは知らない。彼女が月へ連れ去られないために、自ら雲を呼んでいることを。

 秘密が二人を確かに結びつけていた。


 愛する人の腕に抱かれてルーナの魔力が仄かに強くなる。雲はより層を厚くし、一筋の月光さえも地上へ漏らさぬ天蓋となった。

 暗闇の中で二人の影の形は誰にも見えない。

 優しい雲が月の輝きを隠し続ける限り、この恋は地上で栄えてゆくことだろう。

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