空席の子どもたち― 魂が足りない世界で、生まれなかった命の話 ―

akatklim

第一部 第一章 空席

冬の公園のベンチは、記憶のように冷たかった。

篠宮玲子はゆっくりと腰を下ろし、指先で鉄の縁をなぞった。そこに感覚が残っていることを確かめるように。

老いるということは、世界が遠ざかることではない。

むしろ、痛みだけが、より近くなる。

その日、玲子は泣き声を聞いた。

声を張り上げる泣き方ではない。喉の奥で折りたたまれた、壊れかけの音――人が何かを失ったときの音だった。

ベンチの端に、若い女が座っていた。

腹を抱え、背中を丸め、何かを守るように。

「……大丈夫?」

玲子の声は、長い年月を医師として過ごすうちに身についたものだった。相手の心に触れすぎないための距離を含んだ声。

女は顔を上げた。目が赤い。泣き疲れたあと、世界を信じられなくなった色をしている。

「……赤ちゃんが、消えたんです」

言葉が、冷たい空気の中で止まった。

玲子の胸の奥で、何かが小さく軋む。

「妊娠してたんです。心臓も……あったのに。なのに、ある日、いなくなって」

女の指が、腹のあたりをなぞった。そこに何もないことを確かめるように。

「流産じゃないって言われました。何も出てこなかったから。でも……いたんです。確かに」

玲子は答えられなかった。

“いたのにいない”という感覚を、彼女はよく知っていた。研究室で、何度も見てきた。

「お名前は」

「……奈緒です」

玲子は、その名前を静かに受け取った。

まだ知らなかった。この出会いが、自分の人生の最後の扉になることを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る