知ってはいけない
如月幽吏
プロローグ 就職活動【雨宮 愛】
プロローグ 第一話
窓の外は、どんよりとした灰色の雲が空を覆っている。時折、湿り気を帯びた風が網戸を揺らして、部屋の中にじめっとした空気を入れるけれど、わたしにはそれを閉める気力さえ湧かなかった。
机の上には、真っ白な履歴書が何枚も重なっている。
その余白の白さが、まるで行き場のないわたしの将来をあざ笑っているようで、視界に入るたびに胸の奥がチリチリと痛んだ。
カリカリ、とシャーペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響く。
「志望動機」
その四文字の下にある広い空白を前に、わたしの手は止まった。もう何度、この項目で筆を止めたかわからない。わたしがその会社に入りたい理由なんて、本当はどこにもないのだ。ただ、どこでもいいから居場所が欲しくて、働かなければ生きていけないから、仕方がなくペンを握っているだけなのだ。
高校三年生。周りの友達は、有名な大学を目指して受験勉強に励んでいたり、推薦が決まって晴れやかな顔をしていたりする。そんな中、わたしは最初から「進学」という選択肢を捨てていた。
もともと、わたしは頭が悪い。授業の内容はいつだって呪文のように聞こえたし、テストの点数はいつも赤点ギリギリだ。努力すれば変わるよ、なんて大人は簡単に言うけれど、その「努力」の仕方がわからない人間もいるのだ。教科書を開いても、文字が滑って頭に入ってこないあの感覚。自分だけが取り残されていくような、あの底なしの不安。
「どうせわたしなんて、どこに行ってもお荷物なんだ……」
そんな諦めが、わたしの心には深く根を張っていた。
それでも、働かなければならない。両親は、わたしの将来を心配して、高い月謝を払って「就活スクール」に通わせてくれた。
「愛、自分に自信を持ちなさい。プロに教われば、きっと良いところが見つかるから」
そう言って背中を押してくれた両親の顔が浮かぶ。申し訳なくて、情けなくて、消えてしまいたくなる。
そのスクールの担当講師である、あの女性の顔を思い出すだけで、指先が冷たくなった。
彼女はいつも、完璧に整えられたスーツを纏い、冷たい眼鏡の奥から、値踏みするような視線をわたしに向けてくる。
『愛さん。あなたのこの自己PR、何回書き直せば気が済むの?』
彼女の声は、低くて、鋭いナイフのようにわたしの心を削ってゆく。
『特技もなし、資格もなし。学業成績も芳しくない。それでいて、やる気すら感じられない。そんな人間を、どこの企業が欲しがると思う? あなたはね、社会に出るための最低限の準備すらできてないの。ほんとにダメね。わたしもあんたみたいな生徒初めて』
「準備ができていない」なんて、そんなことわたしが一番分かっている。
分かっているから、苦しいのに。
彼女にバカにされるたび、わたしは自分の無能さを再確認させられる。
蚊の鳴くような声で謝ることしかできない。そのたびに彼女は、大げさにため息をついて、わたしの履歴書を突き返してくるのだ。
今日もそうだった。
スクールからの帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、わたしは自分の手のひらを見つめていた。この手で、わたしは何を掴めるんだろう。何一つ成し遂げられないまま、ただ時間だけが過ぎてゆく。
家に帰ってきて、夕食もそこそこに部屋にこもって、また履歴書と向き合っている。
もう、何枚目だろう。
書き損じた履歴書が、足元のゴミ箱から溢れそうになっている。
文字を書きすぎて、中指の付け根にタコができそうだ。
「……つかれたな」
ふと、ペンを置いて背もたれに体を預けた。
天井の照明が、やけに眩しく感じる。
頭の芯がボーッとして、現実感が薄れていく。
将来のこと、スクールの講師のこと、申し訳ないと思っている両親のこと。
全部、真っ暗な海の底に沈めてしまえたらいいのに。
――来い。
低く、けれどよく通る女性の声に、耳元で囁かれた。
すぐ後ろに、誰かが立っているかのような、生々しい距離感がある。
「え……?」
わたしは飛び起きるようにして振り返った。
けれど、そこには誰もいない。
色褪せたカーテンが風に揺れているだけで、狭いわたしの部屋には、わたし以外の生き物の気配なんてなかった。
「……気のせい、だよね」
心臓がドクンドクンと激しく鐘を打つ。
冷や汗が背中を伝った。
確かに聞こえた気がした。
あの声は、スクールの講師の声でも、母の声でもなかった。
もっと、冷たくて、抗えないような……深い闇の底から響いてくるような、そんな声だ。
わたしは震える手で、自分の腕を抱きしめた。
きっと、疲れているのだ。
連日の就活と、講師からの言葉の暴力に、心が限界を迎えているに違いない。
幻聴を聞くなんて、いよいよ本当におかしくなってしまったのかもしれない。
わたしは大きく深呼吸をして、自分を落ち着かせようと試みた。
「大丈夫、大丈夫。寝不足なだけ。明日も早いんだから、今日はもう終わりにしよう」
自分に言い聞かせるように呟いて、わたしは机の上の履歴書を乱雑にまとめた。
けれど、一度感じてしまった「誰かに見られているような感覚」は、どうしても消えてくれなかった。
部屋の隅、影が濃くなっている場所。
そこから、何かがこちらを覗き込んでいるような気がして、わたしは逃げるようにベッドに潜り込んだ。
毛布を頭から被り、体を丸める。
――来い。
また、そう聞こえた気がした。
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