新宿アマノヤ怪異譚ー悪夢に触れる手ー

嘉乃いとね

第1話

 極彩色の光が滲んだガラスの向こうで、誰かがこちらを掴もうとしていた。

 窓の内側から無数の指先が伸びる――あり得ないはずの距離で。


 それがガラスへの映り込みだと気づいたのは、九重昴だけだった。

 けれど、あれは――こちらに出てこれない。……出てこれない、はずだ。


 昴はウィンドウにへばりつく指の残像から視線を逸らし、何事もなかったように歩幅を戻した。


「悪夢ってさぁ、それシンプルに呪われてんじゃね?」


 夜の新宿は、雑多な人波と欲望で膨れ上がっていた。

 客引きの粘つく声。媚びるような視線。嬌声と罵声。眠らない街の熱気が、人工的な光と一緒に肌にまとわりつく。


 昴は相棒の葛城斎と、歌舞伎町の裏路地を並んで歩いていた。


 自販機の前で立ち止まった昴は、黒いフーディの紐を指先で弄ぶ。

 オーバーサイズのパーカーから細身のストレートデニムが覗き、片耳のピアスがネオンを弾いて煌めいた。左手のスマホは、SNSの通知で忙しなく明滅を繰り返している。


 遠くでパトカーのサイレンが鳴いた。

 昼間とは別人みたいな顔つきのサラリーマン。凍えるような脚を晒したキャスト。泥酔したホスト。夜の街は、どこを見ても「訳あり」の人間だらけだ。


「まあ、呪詛が入り込む隙間はあるな。最近はSNSを媒介にした拡散型の呪いも笑えない数になってきている」


 斎は無意識に背筋を伸ばし、涼しい顔で歩いている。

 切れ長の目元に、整えられた黒髪。着崩したYシャツにカーディガンという出で立ちだが、その纏う空気は静謐せいひつだった。彼が神社の跡取りだと名乗っても、この街では誰も信じないだろう。


 斎はポケットの中で、小さな封じ札を指先で弄んでいる。

 時折、札を弾くように指が動き――パチッ、と乾いた音が闇に弾ける。

 その瞬間、街路に漂っていた澱んだ空気が、ふっと軽くなった。


 都会の夜。雑踏の中で。斎のそのさりげない仕草だけが、ここが異界と現世の境目であることを示していた。


「つーか、人間、千年前から変わってないの、逆に笑える。こういう依頼、ホントだるい……」


 昴は信号待ちの間、スマホをいじりながら、片足で縁石を軽く蹴った。

 ぶっきらぼうな言い方のくせに、その横顔はどこか真剣だ。


「だるいとか言ってる場合じゃない。事務所の家賃、今月マジでヤバいんだぞ」


 斎がため息まじりに、封じ札を指先で挟んだまま言う。

 夜風がふたりの肩を撫で、同時に少しだけ身をすくませた。


「……でもさ、キャバ嬢とか絶対。闇案件だろ? 客の怨念とか、リアルすぎ」


 昴が気持ち悪そうに舌を出してみせる。


「否定はしない。だが、困っている人がいるなら、放っておけないからな」


 斎は目を細め、遠くの高層ビル群の航空障害灯を見上げた。

 その声は、街の喧噪にかき消されそうなほど優しく響く。


「そういうとこ、お前ってマジで真面目だよな……」


 隣で昴が小さく笑う。

 ネオンが、ふたりの影をアスファルトに長く焼き付けていた。



 新宿歌舞伎町の片隅にある築五十年の古いビルの四階。

 そこにひっそりと看板を掲げる「アマノヤ」は便利屋だ。


 迷子の猫探し、鍵開け、近所の揉め事――昼間はどこにでもある便利屋として、人知れず街に溶け込んでいる。


 だが、深夜零時を過ぎると玄関に掛かる札が静かに裏返る。

 表の便利屋アマノヤから、裏の祓い屋へと姿を変える。


 この時間、アマノヤに依頼をするものは人ならざるものか、あるいはワケありの人間だけだ。

 今回の依頼も、裏の祓い屋にしか回ってこない案件だった。


「悪夢を見る。目が覚めると、必ず身体に手の跡が残っている」


 ――そう言った依頼人は、歌舞伎町のキャバクラで働く若い女性だった。



 依頼主の勤めるキャバクラは、新宿でも指折りの有名店だった。

 階段で地下に降りるその店は、シャンデリアの灯りが昼間よりもどこか仄暗い。テーブルのグラスには氷が残り、閉店後の空気が漂っていた。


 依頼主の女性は、昴たちの前で一度深呼吸してから、ためらいがちにスカートの裾を摘んだ。

 白い太ももに、赤黒い手形がくっきりと浮かんでいる。


 昴が目を細める。


「……これ、相当だな」


 彼女の手のサイズではない。明らかに大人の男の手だ。それも、指が長い。


「痛みは?」


 斎が静かに尋ねると、彼女は首を振った。


「……痛くはないんです。ただ、気持ち悪くて。最初は気のせいかと思ったけど……毎晩続くんです。どんな夢かは覚えてないんですけど、誰かに見られているような気配だけが残って……」


 昴はカウンターに肘をつき、首を傾げた。


「じゃあさ、ここ最近で、ぱったり来なくなった客とかいない? 妙に執着強いとか、絡みのしつこいヤツ」


 女性は記憶を手繰るように視線を彷徨わせる。


「……いたかも。いつも、ただじっと見ているお客さんがいて……ここ半月くらい前から来てません」


 斎が手帳を取り出す。


「特徴は?」

「あまりお金はなさそうでしたけど、頻繁に来てくれました。指名はしないんです。私が他の卓についても、遠くからグラスを回しながら、ずっと見ていて……」


 彼女はそこで言葉を切り、身震いした。


「……怖いっていうより、じっとりした視線で。でも、お客さんとしては良い人だったんです。乱暴もしないし、触ってもこない。なのに……目だけが」

「最後に来た日、何か言ってた?」


 昴の問いに、彼女は唇を噛んだ。


「……『触れないと、伝わらない』って」


 斎のペン先が止まった。

 ほんの一瞬。だが、迷いなく動いていた手が強張ったのを、昴は見逃さなかった。

 その夜、斎は彼女に「眠りを浅くする札」を渡し、一旦引き上げた。



 丑三つ時を回ったアマノヤの事務所。

 蛍光灯の白さが目に刺さる。

 雑然とした机の上には、飲みかけのコーヒー缶と書類、そして斎の書いた札が無秩序に散らばっていた。


「……で、どう思う?」


 昴が革張りのソファに沈み込みながら言った。スニーカーのつま先で、床に落ちた空き缶を転がす。


「生き霊だな」


 斎は即答した。


「だよな。でもさ」


 昴はポケットから丸めていたメモを取り出す。キャバクラのレシートの裏に、さっきの客の特徴と女の証言が走り書きされている。


「一人分にしては、手が多すぎる」


 そう言って、机に置かれた札に顎をしゃくった。依頼人の女に渡したものと同じ型の札だ。

 斎がライターを取り出し、その札の端に火をつける。


 通常なら灰になるはずの紙片。だが――ジュッ、と生々しい音がした。

 火は途中で不自然に消え、代わりに札の表面がじわりと湿ったように膨らむ。滲み出した黒いインクが、ぼんやりと指の形を形成した。


「……うわ、気持ち悪ぃ」


 昴が顔をしかめる。

 札に浮かんだ黒いシミは五本指の形になりかけて――そこで崩れ落ちた。


「今夜も、向こうで動いているな」


 斎が静かに言う。


「札が燃えずに湿るのは、夢の中に入り込んでいる証拠だ」

「ってことは、あの子、今ちょうど触られてる最中ってわけね」


 昴は深い溜息をつき、天井を見上げた。


「間に合わなかったか。まあ、今から押しかけるのも、さすがに通報コースだしな」

「だから札を渡したんだ。眠りを浅くできれば、向こうに長くは留まらせない」

「多少は、だろ」


 昴はスマホを取り出し、画面をスワイプした。

 店名のタグが付いた投稿が、深夜だというのに滝のように流れていく。


「なあ、斎」

「何だ」

「やっぱこれ、生き霊一匹の仕事じゃないわ」


 昴はスマホの画面を斎に向けた。

 そこには店の内装写真、女の後ろ姿、ボトルのラベル――さっきの店の光景が、別々の客の視点から無数に投稿されていた。彼女のSNSには、数えきれないほどの「いいね」が張り付いている。


「見てるだけのヤツ、多すぎ。指名もしない。触らない。話しかけない。でも写真だけは撮って、評価して、勝手に『知り合い』面をする。そして画面越しに見て、所有した気になってる」


 昴は自嘲気味に笑い、スマホをソファに放り投げた。


「そういう『見てるだけ』の視線も、全部ひっくるめて、あいつの太ももに手形つけてんじゃね?」


 斎は新しい札を取り出し、指先で弾く。パチッという乾いた音が澱みかけた空気を裂いた。


「祓えるかどうかはともかく」


 斎が低く呟く。


「放っておけないのは、変わらない」

「だろうね」


 昴は、さっき女が言った言葉を反芻していた。

 ――『触れないと、伝わらない』


「伝えたいんじゃなくてさ」


 昴はぼそっと呟く。


「ここにいるって、自分を証明したいだけだろ。……見てる側の方がよっぽど必死だよ。自分を知って欲しいって」


 窓の外を大型トラックが振動を残して通り過ぎていく。街の灯りは消えつつあるのに、この街のざわめきは決して終わらない。


「明日。彼女の様子を見に行く」

「死んでなきゃいいけどね」


 昴の軽口は、いつもより重く響いた。



 翌日の夕方、店はまだ開店準備の時間だった。

 シャッターは半分だけ開き、入り口では黒服が酒の入った段ボールを運んでいる。


「すみませーん、昨日の件でちょっと」


 昴が顔を覗かせると、店内から年季の入ったハスキーな声が飛んできた。


「あら、昨日の……アマノヤさん」


 出てきたのは、派手なアイラインを引いたママだった。ラフな部屋着姿だが、眼光は鋭い。


「あの子は?」

「それがねえ……今日はまだ、来てないのよ。連絡もつかない」


 ママは苛立ちを隠さずに舌打ちした。


「LINEも既読にならない。あの子、無断で飛ぶような子じゃないんだけどね」

「昨日の帰りは?」

「『今日は早く寝ます』って。あんたらに相談して少し安心した顔してたんだけど……まさか、何かあった?」

「まだ断定はできません。ですが、安否を確認した方がいい。住所を教えてもらえませんか」


 ママは少し迷ったそぶりを見せたが、すぐにカウンター奥へ引っ込み、メモと鍵を持って戻ってきた。


「これ、住所と合鍵。何かあったらウチからの依頼ってことにしていいわ。……生きてるかどうかくらいは確認したいしね」


 ため息混じりの言葉には、商売人としての計算と微かな情が混じっていた。


「助かります」

「あと、あんたら。あの子に変なことしたら承知しないからね」

「その前に死なせないように頑張るよ」


 昴はへらりと笑い、鍵を受け取った。



「うわ、嫌な感じだな、ここ」


 メモの住所にあるマンションは、平凡な茶色い外壁の建物だった。

 だが全体が、じっとりとした粘膜に覆われているような不快な空気に包まれている。薄明かりの中、その建物だけが影のように沈んで見えた。

 応答はない。インターホンも沈黙。


「留守、って感じじゃないな」


 斎が鍵穴に鍵を差し込む。重い解錠音が響き、マンションのエントランスの扉が開くと、二人は階段を駆け上がり目的の部屋の前へと立った。

 インターフォンを押しても反応はない。

 斎がノブを回すと、鍵はかかっていなかった。

 拍子抜けするほどあっさりと扉が開く。だが、部屋から漏れ出てきた空気は――鉛のように重かった。


 玄関に靴は揃えてある。

 狭い廊下の先、ワンルームの部屋の奥から冷たい青白い光が漏れていた。室温は生温かいのに、肌にまとわりつく湿度が異常に高い。


「入るぞ」


 斎が先陣を切る。

 室内には小さなキッチンとテーブル。奥のベッドに、彼女は横たわっていた。

 白い光が一点だけ、暗い部屋を照らしている。ドレッサーの上に置かれたスマホだ。

 画面が勝手に点灯と消灯を繰り返し、そのたびに通知音が短く鳴っている。

 彼女は仰向けになったまま、両腕を硬く体側に押しつけていた。瞼の下で眼球が激しく動いている。


「……息はしている」


 斎が脈を取り、小さく息を吐く。だが表情は険しい。


「眠りが浅くない。むしろ、深く沈みすぎている」

「どっぷり夢の底ってやつね」


 昴はベッドの足元でシーツをめくった。

 白い太ももに赤黒い手形がいくつも重なり合っている。昨夜より濃く、数も倍以上に増えていた。


「クソ……」


 ふと、視界の端で光が揺れた。

 ドレッサーの鏡だ。スマホの光を反射した鏡の中に、ぼやけた「指」の影がいくつも映っている。鏡の内側から外へ出ようと押し当てられた無数の手。


「斎」

「分かっている」


 斎はポケットから札を数枚取り出し、流れるような動作で部屋の四隅に貼り付けた。

 最後に窓際。

 カーテンの隙間から覗くガラスにも、内側からべったりと手の跡が浮かんでいる。


「このままだと身体がもたない。夢の中で拘束され続ければ、精神が焼き切れる」

「起こす?」

「無理やり起こせば魂が千切れる。向こうにいる手ごと引きはがす必要がある」

「……また、俺が変なの掴む役かよ」

「お前は『触れる』からな。――離すなよ」


 斎の声が一段低くなる。


「掴めるということは、掴まれるということだ。しくじったら……全部お前に移るぞ」

「最悪じゃん」


 昴は悪態をつきながらも、彼女の足へ手を伸ばした。


 触れた瞬間、手のひらに冷たいヘドロのような感触が走る。骨ばった指。無数の指先が彼女の肌を通してこちら側へ滲み出ようとしていた。

 昴が握り込むと、視界が一瞬だけ白く弾けた。

 ――知らない名前。知らない「いいね」。行き場のない欲望のざらつき。

 画面の向こうの無数の目が、脳の内側に土足で踏み込んでくる。


(ああ――懐かしいな。この汚さは)


 右腕に、冷たい痣がじわりと這い上がる。

 掴んでいるはずなのに、逆に掴まれている。このままでは、魂ごとまた「あっち」へ持っていかれる――。


「……うわ、気持ち悪ぃ……!」


 昴は吐き気をこらえ、歯を食いしばった。

 その時、凛とした声が泥を切り裂いた。


「かむながら御身を守り給え」


 斎の声だ。

 その響きが、昴を現世へ縫い留めるくさびになる。


「――現醒うつしざめ給え!」


 斎が彼女の額に指を叩きつけた。

 衝撃が走り、スマホの画面が激しく明滅する。鏡や窓に浮かんでいた手の影が音を立てて崩れ落ちた。

 昴の掌の中から冷たい感触がどろりと溶け出し、次の瞬間、彼女の身体が大きく跳ねた。


「――っは、はぁ……っ!」


 荒い息とともに、固く閉じていた瞼が開く。

 焦点の合わない目が天井をさ迷い、やがて斎と昴の顔を捉えた。


「あ、あれ……わたし……?」

「おはよう。昨日はどうも」


 昴が苦笑すると、彼女の目からぽろりと涙が溢れた。


「また……夢をみてて……動けなくて……」

「とりあえず今は大丈夫だ。落ち着いて」


 斎が優しく声をかける。

 だが昴は、ドレッサーの上でまだ明滅を繰り返しているスマホを睨んでいた。タイムラインの通知が途切れることなく流れている。

 見知らぬアイコン。見知らぬ名前。見知らぬ一言コメント。

 みんな、彼女を


「……ねえ。やっぱり、呪い……なんですか」

「呪いっていうか」


 昴はスマホを手に取り、差し出す。


「あんたSNSのアカウントあるだろ? しかも結構なフォロワーがいる。そののヤツらの手が、まとめて押し寄せてきてるんだ」


 彼女の喉が、ごくりと鳴る。


「触ってきたのは一人じゃない。店の中からも、画面の向こうからも、ずっとの連中」


 昴はタイムラインをスクロールする。

 ガラス越しの盗撮、後ろ姿、拡大された身体の一部――指先で払っても、次から次へと湧いてくる。


「直接触ってないからセーフ。指名してないから責任ない。

でも、勝手に知ってるつもりになって、勝手に羨ましがって、勝手に所有しようとする」


 彼女の喉が、ごくりと鳴った。


「……そんなの、どこにでもいるでしょ。私だけじゃない」

「そう。どこにでもいる」


 昴はスマホの画面を伏せるようにして言った。


「だから数が増えると『手』になる。――視線は、集まると手になるんだ」


 彼女は言葉を失った。

 斎がベッドの脇にしゃがみ込む。


「あなたは、悪くない」


 諭すような声だった。


「ただ、見られていただけだ」


 その言葉に、彼女の瞳が揺れる。


「……見られてるだけで、こんなことになるんですか」

「『見ているだけだ』と思わせておきたい連中にとっては、都合がいいだろうな」


 昴が肩をすくめる。


「で、どうする? このアカウント」


 スマホの画面には、彼女のSNSプロフィール。

 店の名前、勤務先、そして無数の視線がこびりついた写真たち。

 彼女は唇を噛みしめ、震える手でスマホを受け取った。


「……消したら、店に迷惑かかりますよね」

「あなたの命より大事な客はいない」


 斎がきっぱりと言った。


「少なくとも、そうでない店にあなたの居場所はないはずだ」


 彼女は小さく頷き、設定画面を開く。

 指先が迷いながらも「削除」のボタンを押した。


『本当に削除しますか?』


 無機質な確認メッセージ。

 短い沈黙のあと、彼女は「はい」を選ぶ。

 画面が暗転し、通知音がぴたりと止まった。

 その瞬間、部屋の空気がふっと軽くなった気がした。


 斎が立ち上がり、カーテンを開けて窓ガラスを確認する。

 さっきまで押し当てられていた手の跡は、もうどこにもなかった。


「……完全に消えたわけじゃないかもしれない」


 斎が言う。


「一度ついた視線の記憶は、簡単には消えない。でも――これ以上、増えることはない」

「……十分、です」


 彼女は力が抜けたように笑い、涙を拭った。


「また悪夢を見たら、どうすればいいですか」

「また来いよ」


 昴が即答する。


「うちは便利屋だからな。夢のひとつやふたつ、愚痴るくらいはタダで聞いてやる」

「……タダではない」


 斎がすかさず訂正した。


「事務所の家賃は、今月も危うい。しっかり請求させてもらう」


 真顔の斎に、彼女がくすりと笑った。



 マンションを出ると、夜気は心地よい冷たさを含んでいた。

 先ほどまでの生ぬるい湿り気はもう感じない。遠くのビルのネオンが、エントランスのガラスドアに映り込んでいる。


「で、どう思う?」


 歩き出してすぐ、昴が斎に訊ねた。


「何がだ」

「さっきの。『見てるだけの方がよっぽど必死』って話」


 斎は少しだけ考えてから、答えた。


「――まあ、そういうものだろうな」

「割り切るねぇ、相変わらず」

「欲望そのものを消すことはできない。俺たちにできるのは、せいぜい今そばにいる誰かを守ることくらいだ」


 教科書通りの答えに、昴は鼻で笑った。


「そういうとこ、マジで神社の息子だよな」

「お前はどうなんだ」

「俺?」


 昴は、ガラスに映る夜景を一瞥した。

 その向こうで、一瞬だけ、誰かの手がこちらを掴もうとした気がする。


 ――あれは、こちらに出てこれない。出てこれないはずだ。


「……まあ、だるいけどさ」


昴はポケットに手を突っ込み、歩き出した。


「見てるだけの連中よりは、マシな方でいたいとは思うよ」

「それは、十分まじめな考えだよ」

「うわ、最高に褒められたわ」


 軽口が、夜の雑踏に溶けていく。

 ネオンが、二人の影を長く伸ばしていた。

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