摩耗の閾値

端野ゼロ

第1章

第1章:黄金の繭 —— 加工された幸福の対価


プロローグ:摩耗の起点


【二〇八一年:太平洋緩衝区(パシフィック・バッファー)/和久井の視点】


 無線機のホワイトノイズが、コンクリートの空洞に反響しては消える。


 二〇八一年。

 かつて日本と呼ばれた場所の末端で、老いた和久井は、世界というシステムの「錘(アンカー)」としてただ一人座している。


 外は「自然還流」によって放棄された都市の、色を失った雨が降り続いていた。


 指先の乾いた皮膚が、古びた紙の感触を拾う。

 四十三年間、肌身離さず持ち続けてきた、一冊の銀行通帳。

 表紙の「古谷」という名に刻まれたインクの染みが、指の腹をかすかに刺激する。


 それは、死者名簿の塵となった男が、かつてこの世界に生きていたという唯一の、そしてあまりに軽い証明だった。


 右足の古傷が、気圧の低下を察知して疼き始めた。

 二〇三八年。

 あの泥濘(でいねい)の中で刻まれた「人間」としての最後の契約の証。


 EDENという名の完全な麻酔に背を向け、不快な肉体に留まり続ける理由は、この疼きの中にしかない。


 喉の奥に、塩素の臭いがこびりつく。


 視線を落とせば、机の上には旧式のBMI端子が、まるで死んだ虫のように転がっている。


 かつて人々は、この小さな針を延髄に差し込み、崩壊していく現実を「黄金の幻影」で塗り潰した。

 佐登という青年が、その光の粒子に網膜を焼かれながら、何を見ようとしていたのかを思い出す。


 暗闇の向こうで、デジタルの光が爆ぜる音が聞こえた。

 それは幻聴ではない。

 記憶の底、摩耗の閾値を越える前の、あの「黄金の嘘」に満ちた時代の残響。


 自分の爪が、乾いた皮膚を立てる音だけが響く。


 意識の焦点が、四十三年前の光景へと強制的に同期(シンクロ)していく。

 大理石の床、アイリスの合成香料、形成された完璧な秩序。

 そして、眼球の裏側を針で刺すような、あの青白いBMIの光へ。


 ……佐登という青年が、その光の粒子に網膜を焼かれながら、何を見ようとしていたのか。


 私は、錆びついたBMIの端子を、痩せ細った指で弾いた。

 カチリ、と硬質な音が空洞に響く。


 世界が、反転する。


デバイスが作る「黄金の朝」


 網膜を焼く光のグリッドが、強制的に意識を覚醒させた。


 「おはようございます。サト様。本日も、あなたにとって最も最適な一日を」


 耳元で囁くV-Assistの合成音声は、母の愛撫よりも甘く、そして機械特有の冷徹さを孕んでいる。

 佐登(サト)は、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)が眼球の裏側で発する微かな熱を、愛おしい体温のように受け入れた。


 このBMIは、2030年代後半に普及した視神経直結型のナノインプラントだ。脳内の視覚野と嗅覚野へ、網膜投影と連動した微弱な信号を送り込み、限定的に「現実を上書きする」。後の2081年に完成する、意識そのものをデータへと亡命させる「完全な救済」には程遠い、未だ肉体の重力に縛られた不完全な代物でしかなかった。

 今の彼らにできるのは、視覚と嗅覚という二つの入力回路を占拠し、脳に「そうである」と解釈させる程度のコントロールに過ぎない。肌に纏わりつく不快な湿気、地盤の限界が発する物理的な震動、そして何より「肉体そのものが発する不快なノイズ」——それらを完全に消し去る力は、このデバイスには備わっていない。


 それでも、22歳の佐登にとって、この不完全な「黄金の皮膜」こそが、絶望的な現実から目を逸らすための唯一の、そして最強の盾であった。


 瞬きをひとつ。

 視界を支配する光の層が、現実という名の「腐敗」を塗り潰していく。


 数秒前まで天井の隅で黒々と広がり、不吉な領土を広げていたカビの斑点は、豪奢な白木の梁へと姿を変える。湿気で無惨に剥げ、建物の寿命を露呈させていた安普請の壁紙は、シトラスの香りを放つ最高級ホテルのテクスチャに書き換えられた。窓の外に広がるはずの、予算を打ち切られ、行政から見捨てられて灰色の残骸と化した街並みは、デバイスによって「永遠の朝を享受する理想郷」へと加工されている。


 「……っ、ああ……」


 佐登は背筋を走る微かな戦慄に身を震わせた。

 起動と同時に視界の端々へ流れ込んでくる膨大な情報の奔流。ニュース、スケジュール、天候、そしてSNSのタイムラインが、鮮やかな光の粒子となって網膜の上で踊る。

 それは脳そのものをハックするような洗練された技術ではない。しかし、極彩色に加工された情報の濁流は、視覚という窓口を通じて脳の報酬系を執拗に叩き、擬似的な多幸感を誘発する。新しい情報を「見る」たびに、脳は渇きを癒やすように次の刺激を求めてしまう。情報の洪水そのものが「生理的な快楽」として学習され、いつしかそれなしでは一秒の沈黙にも耐えられない、情報の熱への「中毒」へと変質していた。


 静かで、暗く、カビ臭いだけの「情報のない現実」を直視することは、今の彼には死にも等しい。情報の熱に浮かされ、視覚が甘美な嘘に占拠されている状態こそが、彼にとっての唯一の生存戦略となっていたのだ。


 「完璧だ……。これで、今日も生きていける」


 佐登はベッドから身を起こし、細く、隈の刻まれた指で空(くう)を撫でた。指先が触れたのは、宙に浮くホログラムの洗面台だ。

 現実の彼は、築40年のアパートの錆びた蛇口から出る、鉄を噛み砕く赤褐色の鱗を孕んだ冷水で顔を洗っているはずだった。だが、視覚と嗅覚への限定的な介入は、その濁った水を「聖域の湧水」に見せかけ、鼻を突く鉄臭さを「最高級石鹸の芳香」へとすり替える。


 脳は、手のひらに触れる水の「冷たさ」という物理的な情報を無視できない。触覚までは誤魔化せないのだ。しかし、視覚から入る強烈な「黄金の光」と、鼻腔を満たす「清潔な香り」が、その冷たさを「清涼感」という好意的な意味へと脳内で無理やり翻訳させる。不完全なデバイスが、欠落した触覚補正を補うために、他の感覚器を使って脳を力ずくで誘導しているのだ。その歪な感覚のねじれこそが、2038年を象徴する「摩耗」の正体であった。


 だが、その不自然な調和の隙間に、暴力的なノイズが走った。


 「……?」


 黄金の壁紙が一瞬だけ、ストロボのように激しく明滅する。

 書き換えられた白木のテクスチャの裂け目から、剥き出しになったコンクリートの「深い亀裂」が覗いた。それは網膜に焼き付くような残像を残して消えたが、佐登の脳は、その亀裂が建物の構造を根本から破壊しようとしている事実を一瞬だけ捉えてしまった。システムが演算を放棄した、現実の「質量」の露出。


 デバイスの過負荷か。あるいは、この街のインフラそのものが上げている断末魔か。


 佐登は激しい眩暈と共に、不快なデジャヴに襲われる。

 停電した暗い体育館。重く湿った空気に混じり合う、数千人もの他人の体臭と、絶望の混じった吐息。そして、劣悪な衛生環境で皮膚病を患った自分の腕を洗うための、冷たくて濁った、泥の粒子を孕んだ水の感触。

 それは幼少期、デバイスという「救い」がまだこの世界を覆い尽くしていなかった頃の、呪わしい記憶だ。あの頃の自分は、パッチという嘘を知らず、ただ剥き出しの苦痛の中にいた。


 「……キャンセル。思考、ノイズ・キャンセル! 消えろ、消えろ!」


 彼は激しく首を振り、アルゴリズムに命じて記憶の断片を強制的にアーカイブの奥底へ追いやった。

 あんな不潔な肉体の苦痛には、二度と戻らない。

 情報の熱に浮かされ、黄金の皮膜に守られている限り、自分は価値のある人間として、清潔な世界の一部でいられる。現実の自分がどれほど安アパートの湿気に蝕まれていようと、パッチが身を包んでいる限り、それは「存在しない」ことと同義なのだ。


 その時、足元から物理的な振動が伝わってきた。

 V-Assistはそれを「爽快な朝を告げる地下鉄の心地よい響き」として解釈するよう視覚的なエフェクトを強調し、脳に多幸感を促して不快感を粉飾する。

 しかし、触覚への介入を持たない不完全なBMIは、その下層に眠る不吉な地鳴りまでは消し去れない。実際には地盤の限界が発する、低く、重い、破壊の予兆。足首を掴む湿った重力が、確実にこの部屋を、この街を、底なしの泥濘へと引きずり込もうとしていた。


 佐登は鏡(という名の空中の映像)に向かい、自身の隈を隠すようにデバイスの出力を最大まで上げた。

 視界が情報の濁流に埋め尽くされるほど、不安は忘却の彼方へ押し流されていく。網膜を焼く光が強まれば強まるほど、彼は自分が「肉体」という重荷から少しずつ解き放たれていくような錯覚に浸ることができた。


 この「黄金の仮面」を完成させなければ、あそこには立てない。効率と最適化という冷徹な論理が支配する、市役所という名の戦場には。


 今日の業務は、市役所での棄民計画「戦略的撤退」の補助だ。それは、地図上の「赤字区画」を「灰色」に塗りつぶし、そこに住む生身の人間の存在をデジタル上の統計データへと変換する冷徹な儀式に他ならない。上司である和久井の指示に従い、住民たちの不満というノイズを「最適化」という言葉で濾過していく、魂を削るような単純作業。


 佐登は震える指先を整え、外の世界へ踏み出すための「黄金の仮面」を完成させた。鏡の中に映る自分は、非の打ち所がないエリート職員の貌(かたち)をしている。だが、その滑らかな虚像の裏側で、彼の眼球は充血し、過剰な視覚情報に焼かれ続けていた。狂おしいほどの熱が脳を蹂躙し、現実の不快さを「見ない」ことへの代償を、絶え間ない拍動として刻みつけていた。




市役所の空洞と、古谷の「嘘の痛み」


 N市役所の中央ロビーは、BMIの視界において「A指定区域」としての矜持を保っていた。

 佐登が自動ドアをくぐった瞬間、デバイスは外部サーバーと同期し、空間の解像度を一気に引き上げる。


 吹き抜けの天井からは存在しないはずの柔らかな陽光が降り注ぎ、ひび割れた大理石の床は、一分の隙もない鏡面仕上げの磁器タイルへと書き換えられた。

 このエリアに割り振られた膨大な演算リソースは、微細な塵の一粒さえも「舞い踊る光の粒子」へと変換し、住民たちに「この街はまだ健在である」という視覚的な偽証を突きつけている。


 ここには、不快なものは何一つ存在しない。

 ロビーの隅で、雨漏りを受けるために置かれたプラスチックのバケツは、豪華なクリスタルの彫刻へと姿を変えている。

 現実には予算不足で枯れ果て、藻がこびりついた噴水も、黄金の光を帯びたデジタル・アクアが永遠に循環する癒やしの装置として機能していた。

 それは行政が提供する「最も安価な公共サービス」——すなわち、物理的修繕を放棄し、人々の網膜を甘美な嘘で満たすという選択の帰結だった。


 「おはよう、サト君。三秒遅刻だ」


 背後から声をかけてきたのは、地域計画課の実務責任者、和久井(ワクイ)だった。

 三十四歳の彼は、BMIの出力を常に「最適化」しており、その身のこなしには一切の無駄がない。


 完璧な直立不動。シワ一つないスーツ。

 彼はデバイスが提供する「最も効率的なルート」をトレースして歩くため、その足取りはまるで氷上を滑るように滑らかだった。

 和久井の視界では、ロビーの柱の傾きも、壁の裏で進行する腐食も、すべては「修正済みのデータ」として処理されている。

 彼にとっての現実は、網膜に投影される整然とした数式とグラフの中にしか存在しないのだ。


 「申し訳ありません、和久井さん」


 「謝罪は不要だ。その三秒を埋めるための効率的な代替案を、脳内のタスク表に書き込んでおけ」


 和久井は佐登の目を一度も見ることなく、空中に投影されたホログラムの進捗グラフを指先で弾いた。

 彼にとって、部下もまたシステムを構成する一つのパラメータに過ぎない。

 和久井の視界には、佐登の背後に広がる「灰色の現実」など映っていないのだろう。

 彼はシステムそのものに魂を預けた、痛みを知らない観測者だった。

 その冷徹な合理性は、同世代が介護や終わらない労働に摩耗していく中で、自分だけは「壊れない歯車」として生き残ろうとする、一種の防衛本能の裏返しでもあった。


 「……おはよう、佐登」


 和久井の背後から、低い、擦り切れたような声がした。同期の真壁(マカベ)だ。

 彼女の姿は、この洗練されたロビーの中で、ひどく異質だった。


 真壁は現場保守担当として、デバイスのパッチ機能を最小限に絞っている。

 彼女のBMIが映し出すのは、黄金の幻影ではなく、湿ったコンクリート、錆びた鉄筋、そして「崩壊の予兆」としての現実だ。

 「視界が腐る」と嘯き、黄金の皮膜を拒絶する彼女の瞳は、常にこの街の断末魔を直視し続けている。

 そのせいか、彼女の作業服の裾には、昨夜の雨で跳ねた粘りつく黒い拒絶——泥が、乾かぬままこびりついている。


 「真壁、またその格好か。ロビーのテクスチャを汚すなと言っただろう」


 和久井が眉をひそめる。


 「テクスチャじゃなくて、これはただの土です。和久井さんの綺麗な地図からは消されてるかもしれませんけど」


 真壁は皮肉を込めて返し、自身の爪の間を覗き込んだ。

 そこには、物理的な修繕に明け暮れた証としての黒い汚れが、消えない刺青のように深く入り込んでいた。

 彼女が掻き出しているのは、システムの隙間から漏れ出す「現実の澱」そのものだった。

 その指先は常に荒れ、小さな切り傷からは、加工されていない生の血が滲んでいる。


 その時、執務室の奥から、わざとらしい溜息と共に一人の男が歩み寄ってきた。再雇用職員の古谷(フルヤ)だ。

 かつて土木技師としてこの街の基礎を築いたはずの男は、今やその基礎を食いつぶす側に回っていた。


 「ああ、痛てて……。どうも最近、この膝が言うことを聞かなくてなぁ」


 古谷は仰々しく右膝をさすりながら、手近な椅子に腰を下ろした。

 その動きは緩慢だが、眼球の奥にある狡猾な光までは隠せていない。

 彼は最新のBMIライセンスを役所の経費で更新し、自分だけは常に「最も解像度の高い天国」に身を置いている。

 彼が享受する「天国」の維持費は、本来なら真壁が求める擁壁の修繕費に回されるべき予算から捻出されていた。


 「和久井君、悪いんだが今日の廃棄エリアの現調、私はパスさせてもらえんか。この通り、物理的な移動が厳しくてね。代わりに若いサト君に行ってもらおう。彼なら足腰も軽いだろうし、現場を学ぶいい機会だ」


 古谷の言葉には、抗いがたい「世代の重み」が乗っていた。

 彼は知っている。自分が積み上げてきた「過去の負債」を、若者が肩代わりするのがこの世界の暗黙のルールであることを。

 彼らの世代が、百年の耐久性を謳うインフラ基礎を捨て、目先のライセンス更新料という名の「見かけの快適さ」に予算を注ぎ込んだ。

 そのツケは、常に現場を歩く若者の肉体へと転嫁される。


 和久井は無機質な視線を古谷に向け、一瞬の演算の後、短く頷いた。


 「承知しました。古谷さんはデスクでライセンス管理のバックアップを。サト、指示を聞いたな」


 佐登の網膜の裏側で、不快な熱が跳ねた。

 古谷が「膝の痛み」という嘘を吐くたびに、自分たちの未来が少しずつ削られていく。

 その嘘は、若者の時間を、視力を、そして精神を「燃料」として燃やすための点火スイッチだった。


 「……わかりました。行ってきます」


 佐登が声を絞り出すと、古谷は満足げに目を細めた。


 「助かるよ。いやぁ、今の若い人は頼もしい。私たちの頃はもっと過酷だったが、君たちはデバイスがあるから楽でいいな」


 古谷の言葉が、佐登の脳内で生理的な嫌悪へと変換される。

 楽? 眼球を焼き、脳を麻痺させ、現実の腐敗から目を逸らし続けるこの「黄金の繭」のどこが楽だというのか。

 古谷のような「逃げ切り世代」が、自分たちの痛みを若者に押し付け、その若者がデバイスなしでは生きていけないほどに精神を摩耗させていく。

 彼らは「自分たちが作った世界」の責任を負うことなく、デジタル・パッチの奥へ隠居し、残された「質量」の処理を佐登たちに押し付けている。


 佐登は拳を握りしめた。

 手のひらに食い込む爪の感触だけが、唯一の生々しい真実だった。

 真壁が隣で、悲しげに、あるいは憐れむように佐登を見つめていた。

 彼女の爪の間にある泥と、佐登の網膜を焼く光。そのどちらがより残酷な「現実」なのか、今の彼には判断がつかなかった。


 「サト、準備しろ。廃棄予定エリアの座標を転送する。あそこは……パッチの届かない場所だ」


 和久井の言葉と共に、佐登の視界に赤く点滅するエラー・コードが割り込んできた。

 管理区域の外。地図から消された「灰色」の土地。

 行政が「維持コストに見合わない」と断定し、生存権のパッチを剥ぎ取った棄民の地。

 そこへ向かうことは、佐登にとって、自分を繋ぎ止めている「黄金の皮膜」を強制的に剥ぎ取られることと同義だった。




ストロボ現象:亀裂の予兆


 市役所の重厚な自動ドアが背後で閉まった瞬間、佐登の視界から「聖域」の解像度が一段階落ちた。


 ロビーを支配していた完全無欠の演算リソースが切り離され、BMIは市街地の汎用サーバーへと接続を切り替える。

 それは、高純度の酸素から、排気ガスの混じった薄汚れた大気へと放り出されるような、不快な感覚の転落だった。

 通信のホップ数が増えるたび、視界の端々にわずかなレイテンシが生じ、世界の「塗りつぶし」が追いつかなくなる。


 網膜に投影される世界が、わずかに、だが確実に濁り始めた。


 B指定区域——。

 行政が「静止している物体」のみの上書きを許可したこのエリアでは、歩道の亀裂や街路樹の枯死は隠されているが、動的なノイズまでは処理しきれない。

 風に舞う古いレジ袋、あるいは側溝から溢れ出した汚水が、思考を先回りする冷徹なアルゴリズムを嘲笑うように「加工されない現実」として視界を横切る。

 美しく整えられたホログラムの街路樹の背後で、力なく垂れ下がった本物の枝が、幽霊のように時折その姿を覗かせた。


 「……っ」


 佐登は眩暈を堪えるように、街路灯の柱に手を触れた。


 視覚情報は、それを「磨き抜かれたアール・デコ調の街灯」として描き出し、その表面には繊細な彫刻さえ施されているように見せていた。

 しかし、掌が捉えたのは、剥がれかけた塗装のザラつきと、指先にこびりつく鉄を噛み砕く赤褐色の鱗の感触だった。

 冷たく、硬く、そして生命を拒絶するような酸化のざらつき。


 視覚という「嘘」と、触覚という「真実」が、脳内で激しく火花を散らす。

 BMIはこの矛盾をエラーとして処理し、整合性を保つために網膜を焼く光の出力を強制的に引き上げた。

 それはただ佐登のドライアイを悪化させ、眼球の奥に針を突き刺すような鋭い拍動を刻む。

 慢性的な睡眠不足を物語る隈はいっそう濃くなり、彼の精神を内側から削り取っていく。


 駅へと続く大通りは、視界を支配する黄金の皮膜を通せば、今なお輝かしい未来都市の貌(かたち)を保っている。

 透き通るような青空の下、窓ガラス一つ曇っていない高層ビル群が建ち並び、ホログラムの広告が色彩豊かに空間を彩る。

 行政が「維持されている」と言い張るための、視覚的な虚栄。


 だが、その完璧なテクスチャの端々で、奇妙な「ノイズ」が走り始めていた。


 一瞬だった。

 極彩色の世界が、ストロボのように激しく明滅した。


 「……今、のは」


 脳が認識を拒絶するほどの速度で、風景が裏返った。

 美しい青空の裂け目から、鉛色の湿った雲が覗き、豪奢なビルの壁面が一瞬だけ、鉄筋が剥き出しになったコンクリートの残骸へと変貌した。

 街全体が巨大な、死を待つ病人のように見えた。


 それは単なるバグではない。

 物理的な崩壊の速度が、デジタルの上書き速度を追い越し始めた証左だ。

 構造体を蝕む酸化の記憶が、黄金の虚飾を力ずくで剥ぎ取ろうとしている。

 インフラそのものが、その物理的な限界点を超え、パッチという名の皮膜を内側から食い破ろうとしている断末魔の閃光だった。


 住民たちは、このストロボ現象を「軽微な通信障害」として無視して歩き続けている。

 彼らはもう、美しく加工された「結果」だけを食べることに慣れきってしまい、その背後にある「腐食」を想像する力を失っていた。

 しかし、佐登の視界には、明滅の合間に、アスファルトの底を走る巨大な断層が焼き付いた。

 それは昨日よりも数ミリ広がり、まるで大口を開けてこの街を呑み込もうとしているかのように見えた。


 佐登は激しい吐き気を覚え、膝をつきそうになった。

 胃の腑から込み上げる酸っぱい拒絶感が、鼻腔を満たす合成シトラスの香りを汚していく。


 「不具合報告:地域間同期、遅延発生。視覚補正レベルを調整中……」


 耳元でV-Assistの声が、事も無げに囁く。

 その合成音声の無機質さが、かえって事態の深刻さを際立たせていた。

 システムは問題を「解決」しているのではなく、ただ「不可視化」しているに過ぎない。


 調整? 違う。

 これは、この街を覆っている黄金の皮膜が、もはや現実の腐食を隠しきれなくなっている証拠だ。

 予算を切り捨て、物理的な修繕を放棄し続けた代償が、網膜の裏側でスパークを起こしている。

 和久井たちの世代がスマートに「切り捨て」たインフラの死が、物理的な重みとなって佐登の足首に絡みついている。


 足元から、再びあの重い響きが伝わってきた。

 それは地下鉄の振動などではない。


 地盤の限界が発する、低く、湿った、破壊の予兆。

 パッチがどんなに「快適な環境音」に翻訳しようと、足首を掴む湿った重力までは誤魔化せない。

 その微かな揺れは、市役所で和久井が操作していたホログラムのグラフ——「戦略的撤退」の冷徹な曲線と重なり、佐登の神経を逆撫でする。

 グラフが下降するたびに、この街の地面は物理的に沈み込んでいるのだ。


 佐登は荒い呼吸を繰り返しながら、デバイスの出力を無理やり引き上げた。


 「見たくない。見せてくれるな。黄金のままでいいんだ」


 彼は心の中で呪文のように唱え、網膜を焼く光のグリッドに、その脆い意識を委ねた。

 脳が焼かれるような多幸感が恐怖を塗り潰し、現実感を希薄にさせていく。

 だが、その安寧は、沸騰する泥水の上に張った薄氷を渡るような危うさを孕んでいた。


 再び視界が安定し、黄金の世界が戻ってくる。

 だが、一度見てしまった剥き出しの廃墟の残像は、網膜の傷のように、瞬きをするたびに浮かび上がる。

 それは彼の脳内に深く寄生し、パッチが提供する幸福な偽証を、内側からじわじわと侵食し始めていた。


 「和久井さん……。あそこは、本当にパッチが届かない場所なんですか」


 和久井から転送された座標データは、視界の端で赤く、血のように点滅し続けている。

 管理区域の外——廃棄対象エリア。


 そこは行政が「維持コストが受益を上回る」と断定し、住民の網膜からさえも消去した棄民の土地だ。

 公共サービスとしてのデジタル・パッチすら解約された、情報の暗黒。

 そこへ行くことは、神経を麻痺させる黄金の光を捨て、冷たく、不潔な、剥き出しの「質量」に触れることを意味していた。

 それは佐登にとって、自分を繋ぎ止めている繭を無理やり引き剥がされ、幼少期のあの暗い体育館——混じり合う体臭と冷たい水——へと引き戻されるような絶望に近い。


 佐登は震える足を動かし、灰色の地図が示す方向へと歩き出した。


 頭上では、黄金の太陽が燦々と輝いている。

 だが、彼の眼球にこびりついた熱は、もはや恐怖を焼き消してはくれなかった。

 一歩踏み出すたびに、アスファルトを侵食する汚濁の奔流を予感させる地鳴りが、彼の鼓膜を直接揺らし始めていた。

 その音は、システムが奏でる祝福の音楽を、無慈悲に掻き消していった。




廃棄エリアへの強制転送


 視界の端で、赤い警告灯が脈動するように不気味な点滅を繰り返している。


 それは心拍数と同期し、佐登の脳内に直接「終わりの予感」を流し込んでいた。


 廃棄対象エリアへの境界線は、デバイス上では「立ち入り禁止」を示す砂嵐の壁として描かれていた。

 それは行政が「見ないこと」に決めた領域と、欺瞞に満ちた日常を分かつ、絶対的な断絶の象徴だった。


 この先に広がるのは、地図から抹消され、デジタルの光さえ届かない「棄民」の土地。

 かつては人々の営みがあった場所だが、今やそこは、維持コストという冷徹な計算式によって、世界の表舞台から切り捨てられた情報の暗黒だった。


 和久井から付与された特権アクセス・キーが、その壁を一時的に無効化し、透明な膜を形成する。


 佐登がその膜をまたいだ瞬間、BMIはこれまで経験したことのない激しい演算負荷に悲鳴を上げた。

 保護回路が過熱し、こめかみの奥に焼き付くような鈍痛が走る。


 「不具合報告:地域間同期失敗。外部サーバーとの接続が遮断されました。自律補正モードへ移行します……」


 V-Assistの声が、砂を噛んだようなノイズ混じりの電子音へと変質していく。

 それはまるで、死にゆく者が最後に絞り出した掠れた声のようだった。


 佐登は本能的な恐怖に駆られ、黄金の光が漏れる市役所の方角へ戻ろうと踵を返した。

 だが、その直後。

 足元から世界を根底から揺るがすような地鳴りが突き上げてきた。


 それは、パッチが「重低音のBGM」に翻訳しきれないほどに生々しく、破壊的な、地盤の断末魔だった。

 地表の裏側で何かが砕け、崩落し、重力そのものが泥の中に沈み込んでいくような、逃れようのない感覚。


 物理的な崩壊の速度が、デジタルの上書き速度を完全に追い越した瞬間だった。


 「……っ、何だ、今の音は!」


 叫んだ瞬間に、佐登の視界が突如としてデジタル・スノーに覆われた。


 網膜を焼く光のグリッドが制御を失って暴走し、数万の極小の光子が視覚神経を直接、過電流のように走り抜ける。

 脳が情報の奔流に耐えきれず、ショートを起こしかけていた。

 情報の洪水は、もはや意味をなさない光の暴力となり、彼の意識を蹂躙した。


 これまで「世界の体温」だと信じ込んでいた心地よい熱は、瞬時に脳を焼き焦がすような暴力的な灼熱へと変わった。


 熱い。

 眼球の裏側で、幾千もの針が同時に爆発したような痛みが走り、視神経が焼き切れるような感覚に襲われる。

 黄金の皮膜という名の「麻薬」が切れた禁断症状のように、全身の神経が剥き出しの刺激に悲鳴を上げていた。


 「エラーコード:地域間同期失敗。致命的な例外が発生しました。強制再起動を開始……」


 視界が完全にブラックアウトした。


 これまで彼を保護していた黄金の空も、最高級ホテルの内装を模した欺瞞の街並みも、すべてが漆黒の虚無へと吸い込まれていく。

 最高解像度の天国は、一瞬にしてゴミ捨て場のような暗闇へと反転した。


 視覚という最大の入力回路を遮断されたことで、佐登は闇の中で、自分が立っている場所の「質感」が劇的に、そして残酷に変化するのを感じた。


 磨き抜かれた磁器タイルの幻が霧散し、足裏に伝わってきたのは、粘りつく黒い拒絶——底なしの泥の感触だった。


 高級ブランドの革靴を模していたデジタル・テクスチャが剥がれ、安物の合成皮革が不潔な泥水に浸かっていく。

 靴の隙間から、冷たくて重い液体の質量がじわりと侵入してくる。

 その不快な生々しさは、パッチが提供していたどんな高精細な感覚よりも「真実」に近いものだった。


 デバイスの保護を失った剥き出しの鼓膜に、パッチで消去されていた「雨の音」が洪水のように、直接なだれ込んでくる。


 それは祝福の音楽などではない。

 崩落したアスファルトと、死を待つ建物の残骸を叩く、無慈悲なドラムの連打だった。

 遠くで鉄骨が軋む音や、コンクリートが崩れる低いうなりが、増幅された恐怖となって耳の奥を震わせる。


 冷たい。


 シトラスの香りは消え失せ、代わりに鼻腔を貫いたのは、カビと鉄錆、そして腐敗した大気の死臭だった。

 行政が「無臭」として処理していたはずの世界には、これほどまでに濃厚な死の気配が充満していたのか。


 かつて幼少期に嗅いだ、あの体育館の絶望の記憶が、より濃厚な臭気となって蘇る。


 佐登はあまりの寒さと悪臭に肺が拒絶反応を起こし、激しく咳き込んだ。

 喉の奥まで、重金属を含んだような不潔な湿気が侵入し、肺の奥を鋭く刺す。


 「あ……、あぁ……」


 佐登は言葉にならない声を漏らし、汚濁の奔流の中に膝をついた。


 手のひらに触れるのは、かつての文明の残骸であるひび割れたコンクリート。

 その割れ目から這い出してくる、冷酷な泥の冷たさだけだ。

 指先は感覚を失い、ただ「質量」という名の重圧に押し潰されそうになる。


 意識の輪郭が、激しい眩暈と眼球の痛みと共に溶けていく。


 最後に網膜に焼き付いたのは、砂嵐の隙間から覗いた、酸化の記憶にまみれた「棄てられた街」の剥き出しの骨組みだった。

 それは、パッチという化粧を剥ぎ取られた、この世界の本当の貌(かたち)。


 和久井たちが「効率的」に切り捨てた、この街の剥き出しの死体だった。


 彼を繋ぎ止めていた黄金の繭は、今、無慈悲に引き裂かれた。


 後に残されたのは、重力と寒さに震えるだけの、無力な「生身」の肉体。


 熱に浮かされた多幸感は消え去り、そこには意識を刈り取る寸前の脳を貫く、逃れようのない絶対的な「冷たさ」だけが支配していた。


 佐登は泥の中に沈み込みながら、自分がこれまで「何を食べて生きてきたのか」という根源的な恐怖に包まれ、深い昏睡へと落ちていった。


 (第1章 完)

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摩耗の閾値 端野ゼロ @HASHINOZERO

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