第一話を書いたはいいけど続きが思いつかなくて封印するしかなくなった短編集

北葉

真波くんと澤村



教室に入ったら、真波くんが泣いていた。


そのまま扉を潜ろうとしていた私の足は、磁石にくっついたみたいにぴたりと止まった。息を呑み、目の前の光景に瞬きをする。 教師の一番後ろ、窓側の席。つい最近席替えが行われたばかりの新しい席に、真波くんは立っていた。そこは紛れもない真波くん本人の席で、彼がそこにいるのは何もおかしいことではない。けれど彼の頬を伝う一筋の涙が、私を入り口に留まらせた。



泣いている。あの真波くんが。



真波慶太くんといえば、クラス1、いや学年1の人気者だ。成績優秀で運動神経抜群、野球部で部長をしていて人望も厚い。それに加えて誰が見てもかっこいいと言うような顔に、背の順で並んだら後ろの方になる高い身長。見た目も中身も完璧な男の子。私とは、クラスが同じなだけで世界が違う人だった。



今の時期に泣く人は珍しくない。高校受験がすぐそこに迫った12月、勉強に追い詰められて涙をこぼすひとはたまにいた。特に最高峰の学校を目指している人は切羽詰まっているように見えた。もちろん私も余裕なわけではないけれど、自分の偏差値に見合った高校を受験する予定だから、泣くほど追い詰められてはいない。




いや、私のことなんてどうでもよくて。目の前の光景が信じられなくてついつい余計なことを考えてしまう。




真波くんが受験に追い詰められて泣くなんて考えられない。じゃあどうして?部活は引退した、行事も残ってない。学校に関することじゃないのだろうか。家のこと?友達のこと?真波くんとほとんどしゃべったことがない私には想像もつかない。




そのまま立ち尽くしていたのがいけなかった。ずっと机を見ていた真波くんが不意に顔を上げ、こちらを見た。綺麗な目と視線がかちあい、私の心臓は大きく跳ねる。




「澤村?」 名前を呼ばれ、私はひどく動揺した。そういえば、真波くんに名前を呼ばれるのは初めてかもしれない。そのくらい私たちは交流がない。




「どしたの、忘れもん?」 真波くんがニコリと笑う。涙なんてなかったみたいに。もしかしたら幻覚だったのかもしれない。だってそのくらい、真波くんが泣くなんて信じられないことだった。




「あ、あの……宿題忘れちゃって。数学の」


「数学かー。それはやばいな、持って帰んないと」


「うん……家帰って気づいたんだけど、朝早く起きるの嫌だから家でやっちゃいたくて」


「わかるわー。数学の田中厳しいもんな」





真波くんとちゃんと会話するのは初めてだけれど、不思議とするすると言葉が出てきた。真波くんが持つ柔らかい雰囲気が言葉を引き出してくれるのかもしれない。



私は曖昧に頷いて自分の席に向かう。廊下側の一番前、真波くんの席から一番遠いところ。



震える手で宿題が入ったクリアファイルを取り出した。それを大ざっぱにトートバッグに押し込む。




「じゃあ、私はこれで」


「うん。また明日な」





真波くんはほとんど喋ったことのない私にも優しい。また明日、と手を振ってくれるくらいには。




ぺこりと頭を下げて教室を出る。だけど、どうしてもそこから去る気持ちにはなれなくて、立ち止まった。




私だったらどうだろう。教室で泣いているところを誰かに見られてしまったら。声をかけてほしい?見なかったことにしてほしい?馬鹿にされるのは嫌だな、あとみんなにバラされるのも。 いろんな思いがせめぎ合ったけれど、私はポケットの中からそれを取り出して、ぐるんと振り返る。




真波くんは去ったはずの私が戻ってきたことに目を見開いた。そんな真波くんの顔を見ないよう、私はそれを、真波くんの前に突き出した。




「使って」


「……え」


「これ、まだ使ってない綺麗なやつだから。よかったら、使って」




どこにでもある白いハンカチ。もう何年も使っているから古びたそれ。 こんなものをもらっても困るかもしれない。真波くんは嬉しくないかもしれない。たぶん余計なお世話だ。  




でも私は、それでも真波くんの涙がこのままどこかに消えてしまうのが嫌だった。



真波くんは恐る恐るといった感じでハンカチを受け取った。それを確認して、「じゃあ!」と今度こそ教室を飛び出す。



そのまま早く走り去ろうとしたけれど、「澤村!」と、真波くんの、めったに聞かない大声が響いて、立ち止まる。



振り返るとそこには、今まで見たことのない笑顔の真波くんがいた。泣いているのか笑っているのかわからないような、不思議な顔。



「澤村、ありがとう」




真波くんは静かにそう言った。優しい声が廊下に溶けていく。私の目からは涙がこぼれ落ちそうだった。

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