反異世界転生論

九式

第1話|登壇

​(重い防音扉が開き、話者が姿を現す。軍靴を思わせる硬質な足音が、磨き上げられた寄木細工の床を、規則正しく、残酷なまでに鳴らしながら壇上へと向かう。)

​「諸君。私は、今日この場所に、諸君らを楽しませるために来たのではない。ましてや、そのふやけた脳髄を心地よく揺さぶるための、甘い砂糖水を注ぎに来たのでもない。まずはその弛緩しきった背筋を伸ばせ。私の言葉は、自尊心を撫でるための羽毛ではなく、欺瞞を剥ぎ取るための剥製師のナイフである。

​ この会場に満ちている、死体安置所のような冷気はどうだ。君たちは、生命の絶頂にあるはずの若者ではないのか。だが、私に見えるのは、ただの代謝を繰り返すだけの肉塊だ。眼光には意志の火が消え、肌には戦う者の汗の色がない。人工的な太陽に焼かれ、現実という名の重力から逃げ出すことだけを夢見ている、情けない亡霊どもの群れだ。

​ なぜ黙っている。何か言いたげな顔をしている者もいるが、その口からは、どうせ借り物の言葉しか出てこないのだろう。諸君らは、自分自身の言葉を持っていない。自分自身の痛みを持っていない。ただ、誰かが用意した安易なカタルシスに寄生し、そこから得られる疑似的な熱狂を、自らの生命力だと勘違いしているに過ぎない」

(話者は聴衆をぐるりと見回す。)

​「私は、諸君らを軽蔑する。

 ​かつて、この国において若さとは、不条理な現実に対して放たれる最後の一撃であった。肉体は鋼のように鍛えられ、精神は死を恐れぬ詩学によって武装されていた。しかし、今の有様はどうだ。傷つくことを病的に恐れ、失敗を回避することに全神経を注ぎ、ついには自分ではない『誰か』になること、ここではない『どこか』へ行くことだけを、唯一の救済だと信じ込んでいる。

​ 我々は、そのような軟弱な逃避を許さない。そのような不潔な安全を許さない。

​ 諸君らは今日、この場所で冷水を浴びせられ、自らの醜悪な正体を直視せねばならない。ここは諸君らが信奉する安っぽい夢想が、血を吐いて死に絶えるための処刑場だ。

​ 我々の時代の言葉は、もっと硬質だった。もっと、血を流していた。一音一音が、肉体を切り裂く切っ先を持っていた。しかし今やどうだ。それは、現実という重力から逃れるための、浮ついたプラスチックの風船だ。そんなものに縋って、一体どこへ行こうというのか。上昇しているつもりか。否、それはただの空虚への四散だ。

 ​さあ、目を背けるな。この私の、血走った眼を見ろ。この私の、震える声を聞け。ここにあるのは、諸君らが最も恐れている『現実』そのものだ。逃げ場はない。あるのは、この地獄のような、しかし確かな手応えのある、我々の世界だけだ!」

​(話者は、激しく壇上を叩く。聴衆は呆けた顔で話者を見ている。)

​「​列席者各位、君たちは自分たちが『特別な存在』に仕立て上げられるための、都合のいい物語を欲している。だが、真に特別な存在とは、この残酷な現実の中で、己の無力を噛み締めながら、それでもなお立ち上がる者だけだ。設定に守られ、チートに溺れ、ハーレムに囲まれる。そんなものは、魂の去勢に他ならない。

​ 去勢された亡霊たちよ、よく聴け。

​ 私の言葉は肉体に刻み込まれる呪いとなる。夜、君たちが布団の中で異世界の夢を見ようとするたび、私のこの声が耳元で囁くだろう。『貴様は、自分自身を殺した殺人者だ』と。

​ 安全圏から眺めている諸氏、今日ここで、一度徹底的に死ぬ必要がある。甘ったれた幻想を、完全に焼き尽くすための死だ。その灰の中から、もし、もし万が一、一片の『現実への意志』が残っているならば、その時初めて人間としての産声を上げることができるだろう。

​ さあ、もっと不快になれ。もっと私を憎め。その憎悪こそが、君たちがまだ、この現実という名の神経を繋ぎ止めている、最後のか細い糸なのだから」

​(話者は眼鏡を押し上げ、冷酷な沈黙を再び会場に流し込んだ。)

​「……さて。諸君は、なぜこの私が、この不愉快極まる老いぼれが、今日この場所に来たたのか、その理由を考えたことがあるか。

​ 私は、希望を与えるために来たのではない。私は、諸君らが『希望』と呼んでいるその腐敗した汚物の中身を、白日の下に晒し、その悪臭で気絶させるために来たのだ。

​ 私は、一つの言葉の正体を知った。

​ 異世界転生。

​ なんと、なんと不潔で、薄汚れた、敗北者のための甘い毒薬のような響きか。

​ 私はこの言葉を、最初はただの、子供たちの他愛のない空想の類だと思っていた。しかし、現実は違った。これは、現代という巨大な精神病棟において、諸君らが唯一共有している、集団的な、そして致命的な『逃避の儀式』であるということに、私はようやく気づいたのだ。

​ 私は、この言葉を口にするだけで、自分の舌が腐り落ちるような感覚を覚える。そこには、生命の躍動と呼んだものの破片すら存在しない。あるのは、ただ、現実という名の戦場から背を向け、自らの肉体を捨て去った亡霊たちの、湿っぽい吐息だけだ。

 ​諸君は、自分たちを『不運な世代』だと称している。生まれた時から停滞があり、格差があり、閉塞感がある。だから、ここではないどこかへ行きたい、自分ではない誰かになりたい。私はその甘ったれた被害者意識を、一滴の慈悲もなく踏み潰してやる。

​ 異世界転生。この言葉こそが、諸君らが人間であることを止めたという、動かぬ証拠なのだ。自分という唯一の物語を、インスタントな物語もどきで消費しようとしている。その行為が、どれほど君たちの魂を汚辱し、去勢し、無価値なものに貶めているか、考えたことがあるか。

​ 諸君らは、今日、ここで一度死ぬ。だが、それは異世界へ行くための、あの心地よい眠りではない。自らの『生』を安売りしたという、消しようのない屈辱の中で、もがき苦しみながらの死だ。

 ​いいか。文化が真に生命力を持っていた時代、流行とは、既存の価値観を破壊し、新たな生を創造するための『闘争』であった。しかし、今のこの『異世界転生』という名の蔓延は、何だ。

​ それは、闘争ではない。それは、集団による『死の受容』である!

​ これほどまでに多くの人間が、現実を捨て、設定に逃げ込み、自分の肉体ではない何者かになりたがっている。その数字の大きさが、そのまま、この国において『自分自身を生きる』ということが、どれほど不可能に近い絶望にまで至っているかという、恐るべきバロメーターなのだ。

​ 諸君。流行っているのではない。一斉に『蒸発』しようとしているのだ。

​ 異世界転生を消費する一秒一秒は、貴様らが自らの生に対して加えている、緩やかな自殺であると!

​ 『やり直し』。この言葉の甘美さに、貴様らは魂を売り渡した。しかし、人生に二度目など存在しない。この、取り返しのつかない、残酷で、しかしこの上なく美しい、ただ一度きりの『現在』。これこそが、我々人間に与えられた唯一の、そして絶対的な贈り物なのだ。

​ 貴様らは、その贈り物を『ハズレ』だと言い放ち、包装紙さえ開けずに投げ捨てた。そして、どこかの誰かが描いた、絶対に傷つかない、絶対に負けない、絶対に死なない『偽物の生』を、大切そうに抱きかかえている。

 ​転生したいと願う者は、すでに死んでいる!

​ その言葉を、その事実を、その屈辱を、脳髄に刻み込め。貴様らの物語は、まだ始まってさえいない。いや、貴様らが『自分』を捨て続ける限り、それは永遠に始まることはないのだ」​

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