「やっぱりわたし、きれい?」

志乃原七海

第1話『おばあちゃん!!』

夜半のホームセンター


深夜0時を過ぎたころ。リビングでくつろいでいた私に、夫が突然言いました。


「おい、買い物行くぞ!」


「え?今から?どこへ?」


「ホームセンターだよ。急ぎで必要なものがあったの、さっき思い出したんだ」


私は思わず時計を見上げました。まさか、こんな真夜中に?


「ちょっと待ってよ!今、お風呂上がったばかりで、化粧なんてしてないし、髪も適当にまとめただけだよ。こんな格好で出かけるの、やだよ!」


鏡に映る自分は、まさに「ありのまま」。さっき湯気で潤ったと思った肌も、急な乾燥で少しカサつきが始まっているのを感じます。目元の小じわや、顔全体に散った小さなシミが、照明の下でくっきりと見えていました。普段はファンデーションやコンシーラーで隠している部分が、今日は全て露出しています。


「いいだろ、どうせこんな時間だ。誰も見てないって」夫は平然としています。「それに、ちょっと肌が乾燥してるくらいが、逆にヘルシーに見えるんじゃないか?」


そんな慰めは、全く慰めになりません。熟年とはいえ、女性としての羞恥心はあります。人前に出るときは、それなりに整えていたいものです。特に、この疲れた顔と、すっぴんのぼやけた印象の口元を見られるのは、本当に抵抗がありました。


「お願いだから、ちょっと待ってよ。せめて眉毛とリップだけでも…」


「時間がないんだ!いいから行くぞ。ほら、マスクはしていいから。風邪予防ってことにしておけば大丈夫だろ」


夫に押し切られる形で、私は抵抗むなしく、夜の冷たい空気の中へ引きずり出されてゆきました。


車に乗り込み、マスクで半分以上顔を隠しながらも、私はまだ落ち着きません。


「ねえ、本当に恥ずかしいんだけど。あの、蛍光灯の下、絶対やばいよ」


ホームセンターの強力な照明は、肌の欠点を容赦なく浮き彫りにします。特に、今日みたいなカサついた乾燥気味な肌にとっては、公開処刑のようなものです。


「大丈夫だって。それに、そこのペットコーナーで、お前が好きそうな新しいアロマキャンドルでも見てくれば?」夫は運転しながら、私をなだめます。


巨大なホームセンターの駐車場は、予想外に車がまばらに停まっていました。エントランスの自動ドアをくぐると、店内は独特の無機質な熱と、塗料や木材の匂いが漂っています。


マスクを深く引き下げ、私は下を向きがちに歩きました。横を通り過ぎる数少ない他の客が、ちらりとこちらを見ていないか、いちいち気になります。


夫は慣れた様子で、目的の工具売り場へと向かいます。私はその背中を追いながら、ふと、通路の端に設置された大きな鏡の前を通りかかりました。


そこで一瞬立ち止まり、恐る恐る自分の姿を確認します。


鏡の中の女性は、マスクから覗く目元は確かに疲れて見えましたが、それ以上に、どこか諦めたような、開き直ったような表情をしていました。薄いグレーのキャミソールの上に上着も羽織らず、首元には小さな一粒のダイヤがきらめく華奢なネックレスが、かろうじて女性らしさを主張しているだけです。


(ああ、もういいや。これが今の私だ。夜中に急にホームセンターに連れてこられた、熟年のすっぴん妻だ)


その時、工具売り場の棚の向こうから、若いカップルが楽しそうに笑いながら出てきました。彼らは一瞬、私に視線を向けましたが、すぐに自分たちの会話に戻ります。


「ほら、誰も気にしてないだろ?」夫が戻ってきました。「気にしすぎだって」


「…そうかもしれないけど」


私は、マスク越しにため息をつきました。結局、必要なものは手に入り、急いでレジへ向かいます。





レジを済ませ、駐車場へ向かって歩いている、まさにその時でした。


通路の隅、ワゴンセールが置かれた辺りから、甲高い子供の声が響きました。


「あ!おばちゃん!眉毛ない!」


―――む!


私は全身の血が一瞬で冷たくなったのを感じました。マスクで顔の下半分は隠しているものの、確かに目元は露出しています。そして、お風呂上がりで本当に何も手をつけていない私の眉は、地の色が薄く、蛍光灯の下ではほとんど存在を主張していませんでした。


声の主は、5歳くらいの女の子。隣には、疲れた様子の若い夫婦が立っています。その子に、私は完全に「すっぴんの眉なしおばちゃん」として認識されてしまったのです。


「コラ、〇〇!失礼でしょ!」母親は慌てて子供の口を塞ぎましたが、もう遅い。その場にいた数人の客の視線が、一斉に私と夫に向けられました。


屈辱でした。顔が熱くなり、怒りを通り越して、ある種の常識的な憤りがこみ上げてきました。


「ちょっと待ってなんで!」私は立ち止まり、夫に向かって、そして近くにいた若い夫婦にも聞こえるように、声を荒げました。


「こんな時間に!子供連れてさ!非常識じゃないの!?」


私の怒りの矛先は、一瞬にして、私を恥ずかしい目に合わせた状況そのものへと向けられました。夫への不満、子供の無神経な言葉、そして真夜中にホームセンターにいるという異常な状況、すべてが爆発しました。


「こんな夜中の1時だよ!?子供は寝かせる時間でしょ!親が何してるの!?」


若い夫婦はギョッとして、目を丸くしています。彼らも、まさか突然、すっぴんの女性に倫理観を問われるとは思わなかったでしょう。


夫は慌てて私の腕を掴みました。


「おい、やめろって!何言ってんだ!」


「やめない!あなたもよ!私がこんな格好で来たくないって言ったのに、無理やり連れてきて!そのせいで子供に変なこと言われて!非常識なのは、真夜中に子供を連れ回してるこの人たちと、そしてこんな時間に私を連れ出したあなたよ!」


私は涙目で夫を睨みつけました。この怒りは、眉毛がないと指摘されたことへの恥ずかしさだけではありませんでした。


それは、女性として、妻として、日常生活の中で見えない努力を軽視されたことへの、抑圧された感情の噴出でした。化粧もせず、整えもせずに人前に出ることへの抵抗感。それを「誰も気にしない」と一蹴した夫への苛立ち。そして、夜中に子供を連れ歩く無責任な親に対する、社会的な規範意識。


私の剣幕に、若い夫婦は子供を抱きかかえ、何も言わずに早足で立ち去りました。ホームセンターの広大な空間に、私の激昂した声だけが響いた後、再び静寂が訪れました。


夫は深いため息をつき、静かに言いました。


「…悪かった。家に帰ろう」


私は、マスクの下で唇を強く噛みしめました。


「もう二度と、こんな時間に、すっぴんで私を連れ出さないで。もし何か急ぎで必要なら、あなたが一人で行きなさい」


車に戻るまで、私たちは無言でした。私の胸の中には、真夜中のホームセンターの蛍光灯のように、冷たく、そして鋭利な光が残っていたのです。

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