柴犬は喋るのである
文月海月
柴犬は喋るのである
「付いて来てくれ」
仏頂面で柴犬は僕にそう言った。
素直に受け入れちゃうのもどうかと思うけれど、僕は柴犬に従い、秋の山の中を歩き始めた。
この柴犬が僕の前に姿を現したのはほんの数分前のことだった。
さる街の有力者の指示で僕はブナの伐採を行っていた。もちろん合法だよ。
僕は大規模伐採の安全教育を受けたことがあるし、自動伐採機の扱いだってお手の物だ。大きな重機も自分の手足のように動かすことができる。
つまり僕はれっきとした木こりとして、仕事を請け負っていたのである。
木こりというのは非常に危険な仕事だ。どれだけ危険かを説明するのは難しいけれど、林業の死亡率が他の仕事の約十倍と考えると、少しは分かってもらえると思う。
とはいえ、今日の仕事は身体一つ、斧一つで背の低い若いブナの木を切り分ける仕事だったから、少し気が緩んでいたのかもしれない。
僕がちょっと休憩しようと思って切り株に座っていた時だった。水筒を飲んでいると、どこからもなく、柴犬が歩いて来たのである。
僕は最初、街からやってきた迷子の犬かと思った。だから、ちょいと可愛がってやろうと近づいた。すると、柴犬が言ったのだ。
「付いて来てくれ」
僕は息を飲んで驚いた。聞き間違いかと思った。けれど僕は耳が良い方だったから、自分の耳を疑うよりまず、現実を疑った。
「頼む」
今度もはっきりそう聞こえた。低い男の声だった。
僕は頼まれごとに弱い。というといかにも意志薄弱のように感じられるが、そうではない。単純に困っている人を放っておけないのだ。放っておきたくないと言った方が適切かもしれない。誰かが困難というものに直面していて、力を必要としているのなら、僕は進んで助けたいって思ってしまう。
そんなんだから人にいいように使われるのよ、と昔、親友に言われたことがあるが、それでもやっぱり僕は僕の性質を変えようとは思わない。多少自分が損をしたって代わりに誰かが大きく得をするのなら、それでいいじゃないか。幸せの総量は増えているわけだし。もちろん限度はあるけれどね。
だから僕は今回も断らなかった。今回に限って言えば、依頼主は人ではなく、犬だったけれど。というかそもそも本当に犬なのだろうか。普通、犬は喋らない。
僕は柴犬に従って黙々と山道を歩く。犬は歩き始めてから一度も振り返らなかった。四足歩行で一歩一歩、確かな足取りで進んでいく。傍から見たら散歩に見えるかもしれない。表情は深刻そうにも怒っているようにも見えた。犬の表情を読み取るのは難しい。
一体どこに向かっているのか。行き先は教えてくれなかった。けれど犬はどうやら北に用事があるようだ。
この山は東西南北、四つの小高い丘が結集して一つの山を形作っている。僕が作業していたのは――つまり柴犬が現れたのは、四つの丘のちょうど真ん中あたり、少し平地になっている場所だった。そこから北は狭い遊歩道が繋がっている。遊歩道といっても、大昔に作られた狭い小道で、今もう整備されていない。
ちょうど風で落ちたのか大きな欅の枝が道を塞いでいた。僕にはどうってことないけれど、柴犬には少しきつそうだった。ここで初めて柴犬は僕を見た。
「抱えてくれ」
僕は素直に犬を抱っこしてやる。もふもふの毛が柔らかかった。首筋から落花生のような匂いがした。
「ありがとう」
柴犬を下ろすと、犬は一言だけ言って、また歩き始める。
その一幕で何だか僕はこの柴犬に親近感を抱いた。話しかけても怒られないじゃないかという気がしてきた。だから僕は柴犬に尋ねてみた。
「なぜ君は人の言葉を話せるの?」
すると、犬は足を止め、怪訝そうに僕を一瞥した。
「柴犬は喋るのである」
そう言ってまたゆっくり歩き出す。
全然答えになっていないけれど、会話が通じたことに感銘を受けた。人と意思疎通を取ることができる犬がこの世に存在していて、そいつが僕の目の前に現れたことが妙に嬉しかった。
調子に乗って僕はまた犬に話しかける。
「僕たちはどこに向かっているの?」
今度は振り返らず、歩いたまま犬は答えた。
「北だ」
「北には何もないよ」と僕は言った。「山の中でも北部は特に荒れていて、雑木林があるだけなんだ。この道ももう少しで行き止まりになる」
「平気だ」
果たして僕の言う通り、道の先には急な斜面があって、唐突に僕たちの旅路は終わった。
「ね、言っただろ?」
柴犬は呆然と前方を見つめている。僕は犬が道を間違えたことを確信した。
犬がきょろきょろとあたりを見回す。
「確かにここのはずなんだが」
くんくんと鼻を地面にこすりつけ、匂いを嗅ぎ始めた。
「探しものがあるなら僕も手伝うよ。特徴を教えてくれよ」
「あった」
犬がそう言い、横道に逸れた。朽ちた枝木の間を抜け、真っすぐ進んで行く。そして一本のニレの木の前で止まった。
樹齢五十年はあるだろう立派な大木だった。葉っぱは全て落ちていたが、木肌は傷一つなく綺麗で、空に向かって伸びる姿からは歴戦の老獪といった感じがする。
「ここを掘ってくれ」
柴犬は小さな前足でとんとんと地面を示した。
僕は木の下にかがみ、手袋をした手で落ち葉を掻き分ける。
犬が僕の手元を覗き込んだ。
「土の中にある」
土は固く、手で掘り進められそうにはなかった。
「鋤を持って来るんだったな」
ちょっとだけ、言葉足らずな柴犬を恨んだ。こんなことをするならはじめに言ってくれたらよかったのに。鋤なら作業場にあった。今更言っても仕方ないので僕は周囲から固い枝を取ってくる。
枝で土をほぐし、柔らかくなった土を手で少しずつ掘っていった。途中からは柴犬も前足を使って手伝った。
掘り進めると、小さな箱が見つかった。鉄でできたお菓子の箱みたいでところどころ錆びている。
「これ?」
柴犬は厳かに頷いた。
「中を開けてみてくれ」
僕は少しわくわくして、箱の蓋を開けた。中に入っていたのは一枚の精巧な絵だった。人物が描かれている。
「誰だろう」
「カメラ・オブスキュラとは、もともとは光ではなく、魂を投影する目的で開発されていたらしい」
突然柴犬が饒舌に話し始めた。が、僕は何を言っているのかさっぱり分からなかった。
「しかし、ドイツでは完成した装置が存在していたとは」
「どいつ? 誰のこと?」
柴犬は僕を見上げて言う。
「私は戻らなければならない」
犬の言葉はてんで理解不能だった。けれど、その瞳には切実な思いが感じられた。
僕は途方に暮れ、箱を地面の上に置いて座る。
柴犬が寄ってきて絵を食い入るように眺めた。
「これは私だ。一八九〇年に撮影された、私のシャシンだ」
絵の中の人物はあごをひき、淡々と一点を見つめている。眼鏡をかけていた。口の上には髭が乗っている。
「この絵の人が? どういうこと?」
「私は元は人間だった。この国では医療のことを何と呼ぶのだ?」
今度も僕は頭にはてなを浮かべた。
「人の怪我を治したり、病気を治療する技術のことだ」
「ヒール?」
「悪くない名前だ」と柴犬は言った。「私はヒールの研究というものをしていた。ちょうど破傷風菌毒素をうさぎに注射する実験の最中だった」
僕は驚いて柴犬を見る。
「うさぎに毒? ひどいよ。ヒーラーはそんなことしないよ」
柴犬に抱いていた好印象がひっくり返る思いがして悲しくなった。
「そういう意見があるのは承知している」
柴犬はなおも厳しい顔をしている。
「だが、血清療法が完成すれば、多くの人々を救うことができる。現在だけではなく、未来の命さえも」
柴犬はさっきから全然知らない単語で話す。よく欺瞞師がやるみたいに。けれど、不思議なことに柴犬から悪意は感じなかった。柴犬には僕がこれまで出会ったどの生き物とも違う独特な雰囲気があった。
「原理は全く不明だが、あのカメラは肉体を紙に保存し、精神を他の世界に送る力を持っていた。そのことに思い当たったのはつい最近のことだ」
僕は柴犬が自分だと言い張る絵を手に取って見る。
「触らないでくれ!」と柴犬はすがるように言った。「それが破損すれば、私は死んでしまうだろう」
死、という言葉におののき、僕は絵を箱の中に戻す。
「ご、ごめん……古い絵だと思って」
僕は少し疑問を感じた。
「でも、どうしてこんなところに君の絵があるの? 誰が置いたの?」
「私もさっぱり分からない」
「分からないのに、ここにこの絵があることは分かったの?」
それが私が話せるようになった理由だよ、と柴犬は言った。
「いつからこの犬として活動しているのかは思い出せないが、ふとある時、私の中に言葉という概念が生じた。つまり見ているもの、聞いているものに名前をつけることができるという認識が生まれたんだ」
「どういうこと?」
「たとえば君は小さい時、いつ言葉を話せるようになった?」
僕は閉口する。はっきりとした瞬間は思い出せなかった。
「私にはそれがあったということだ。多くの語彙が頭の中に生まれ、脳が思考という行為を会得した」
「それがつい最近ってこと?」
柴犬は頷く。「と、同時に遠くで私の痕跡を感じた」
柴犬が鼻をひくつかせた。
「これは仮説だが。このシャシンがこの世界に転送されたことでシャシンに保存された肉体に呼応して私の魂が目を覚ました。そして磁石のように精神が肉体に引き寄せられたのだと思う」
「途方もない話だなぁ」
「私も信じられなかった。ここでこのシャシンを見るまでは」
「さっきからシャシン、シャシンって言ってるけど、シャシンと絵は何が違うの?」
柴犬は僕の言葉は無視して言う。
「私の生きていた時代には物質が世界を渡るなんて発想はどんな馬鹿でも考えなかった」
「今の時代も考えないよ」
「だろうな。しかし、このシャシンが偽物とは到底思えない。状態から察するに相当な年月が経っていることは明らかだ。つまりどこか未来の馬鹿が物質を他の世界に転送する技術、あるいは魔法を発明したことになる」
「どうやって?」
「私は馬鹿ではないから分からんよ」
柴犬は悲しそうな目をした。
「私は馬鹿ではないからこの紙に収められた肉体をどうやって取り出したら良いのかも分からない。そもそも本当に収められているのかさえ……」
僕はちょっと不思議な心持ちがした。柴犬は僕なんかより全然賢そうなのに、なんでこの考えに思い至らないんだろう。
「巻き戻してみればいいんじゃないの?」
柴犬はびっくりしたように僕を見た。
「できるのか?」
「絵は白紙に戻せるよ。この絵がどれくらい前に描かれたか分かんないから、断言はできないけど」
僕はポケットからリプロセルを取り出す。
「なんだそれは? 金属の……ボール?」
「リプロセルだよ」と僕は言い、球面の数字を確認した。「フル充電じゃないから一回で戻せる限界はそうだなあ……二千年くらいだと思うけど」
「十分だ」と柴犬は感極まったように言った。「本当にこの金属のボールで時間を巻き戻せるのか?」
「物ならね。僕もよく鋤や自動伐採機を直すのに使ってる」
「人に使うとどうなるんだ?」
「エラーが出るだけ。生き物は全部だめだよ。犬もだめ。どうする? やってみる?」
「やってみよう」
念の為に僕は聞いてみる。
「絵、触るよ?」
「くれぐれも丁重に頼む」
「分かってるって」僕は指先で紙の端を持ち、落ち葉の上に絵をそっと置いた。そよ風がわずかに絵を動かす。
「「あ」」
「ぶなかったぁ!」と僕はどきどきして言った。
柴犬がかろうじて絵を前足で押さえている。
「丁重に頼むと言ったではないか! これは私の身体なんだぞ!」
「ごめんよ。この地域はあんまり風なんか吹かないからさ。君、風の通り道に立っていてくれよ」
柴犬は絵から足を放し、不服そうに僕の前に立った。僕は柴犬と僕の間にある絵に向かってリプロセルの光を照射する。
赤い光が絵をなぞっていく。
「これは何だ?」
「物の情報を読み取っているんだよ。物にも人と同じで記憶があるんだって」
柴犬はその様子を興味深そうに眺めていた。
照射が終わると、リプロセルの球面が銀色から黒に変わる。
「準備できたよ。あとはここの上のボタンを押すだけ」
柴犬が我に返る。
「このシャシンを巻き戻せば、シャシンは何も写らないただの紙に戻るわけだな?」
「絵だとそうだね。業務用のリプロセルだと、もっと巻き戻せて紙すら消してなくしちゃうこともできるみたいだけど。そこまで巻き戻すには資格が必要だよ」
「十分だ」と柴犬はまた同じ台詞を言った。
「じゃあ押すね」
「待ってくれ」と柴犬は頭を垂れる。「シャシンが元に戻ったとしても、私の肉体が元に戻る保証はどこにもない。それにシャシンから肉体が復元できたとしても、魂が消えてしまわない保証もない。もっと言えば、運良く元の身体と心に戻れたとして、この世界に取り残されてしまう可能性だってある」
むしろその可能性の方が高いのではないか、と柴犬は言った。
「あくまで仮説なんだ。このシャシンが元に戻ることで肉体は元いた時代の元いた場所に戻り、それに付随して私の魂は帰還する。これは根拠のない願いと言ってもいい」
失敗したら私は死んでしまうかもしれない、と柴犬は気落ちしてみせた。
はじめて柴犬の感情といったものを見た気がした。
「君は本当に不思議な犬だね」と僕は言った。正直な感想だった「僕の友達にさ、君みたいにものすごい頭が良い奴がいるんだけど、言ってることが真逆だ」
柴犬は訝しげに首を傾げる。
「根拠のない願いや裏付けのない可能性、その先に創造や発明がある。言ってしまえば、この世の全ては人類の妄想の極致だって。その最先端を走る者を
「科学者の風上にもおけん奴だ」と柴犬は顔をしかめて言った。
「変な奴なんだよ。四六時中機械とにらめっこしてるし、僕が自分の身体で実験するのをやめろっていってもきかないし。でも、壮大な話が好きなとこは一緒かな。誰かのために頑張っているところも」
柴犬が目を丸くする。唯一、犬らしいと思った表情だった。その後で柴犬はにやりと笑った。柴犬にそんな表情ができるのかは分からないけど、僕にはそう見えた。
「その友人とやらに言っておいてくれ。早く人用のリプロセルを開発して私の仕事を楽にしてくれと」
やっぱりこの柴犬はすごいと僕は思った。親友の研究をぴしゃりとあててみせた。
「スイッチを押してくれ」柴犬が晴れやかな顔で言った。
「分かった」
僕はリプロセルのボタンに指を当てる。一瞬、柴犬とはこれでお別れなのかと寂しくなったけれど、柴犬は家に帰りたがっているから仕方ない。意志を汲んでやらなくちゃならない。
「いくよ」
僕はリプロセルのボタンを押した。
その瞬間、強烈な閃光が周囲に広がる。リプロセルの挙動にない現象だった。僕は腰を抜かす。
「ありがとう」
光の中で柴犬の声が聞こえた気がした。これまでで一番はっきりとした言葉だった。
光の球が揺蕩うように舞い、白い海の中を泳いでるみたいな感じがする。光がゆっくり溶けていく。かつて絵だった紙はくずれるように風に流れて消えていった。
柴犬が慌てたように「ワン!」とひと声上げて山の奥へ駆けていった。
あとには梢のさらさらとしたざわめきだけが残った。
まるで白昼夢みたいな時間だった。
僕はかつてこんな温かくて美しい光を浴びたことがなかった。それだけで柴犬の頼みごとを受けて良かったと心底思った。
「柴犬は喋るのである」
思い返しても変な物言いだ。なんだか今になって笑けてきた。柴犬が喋るわけないのに。
町に帰ったら、親友にこの話をしてやろう。親友は喋る柴犬のことをなんて言うかな。
柴犬は喋るのである 文月海月 @Fumizuki_kurage
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