5 勝者の休息、乙女の算盤
あの審判のレースから三日が過ぎた。俺の身体の痛みもようやく引き、バハムートとアルカディアの二頭も、厩舎の裏にある牧草地でのんびりと陽光を浴びている。
『おいレン、今日のブラッシングはまだか! 我の美しさを維持するのも貴様の務めだぞ!』
『レンさん、あの、お水のおかわり……いただけますか?』
相変わらず尊大なバハムートと、まだ少し遠慮がちなアルカディア。二頭の声を聞きながらバケツを運んでいると背後から鋭い声が飛んできた。
「いつまで馬とイチャついているのよ、この馬鹿。今日は街へ出かけるって昨日言ったでしょう? でもまあ――貴方の野宿明けの浮浪者みたいな身なりをどうにかするのが先決みたいね」
振り返れば街行きのための装いに身を包んだセリアが立っていた。いつもの作業着とは違い、タイトな黒のドレスの上に薄手の外套を羽織っている。毒舌は健在だが心なしかその表情には柔らかい光が混じっているように見えた。
「レンさーん! お待たせしました!」
セリアの隣からパタパタと小走りでやってきたのはミアだ。白のワンピースに大きな麦わら帽子を被り、まるでお出かけを楽しみにしていた子供のように目を輝かせている。
「二人とも……今日は一段と気合が入ってるな」
「勘違いしないで頂戴。貴方の今の立場は騎士団長を破った騎手なのよ。隣を歩く女が作業着というわけにはいかないでしょう? それに――そんな男がボロ布を纏って歩いていたら厩舎の品格が疑われるわ。これは純然たる投資よ」
セリアは顔を背けるが、その耳たぶが僅かに赤い。
「えへへ、私、とっても楽しみだったんです! 三人で街へお買い物なんて夢みたいだねってセリアさんとも話してたんですよ」
「ミア、余計なことを言わないの!」
俺は苦笑いしながら二頭の鼻先を撫でた。
「悪いな、ちょっと行ってくる。いい子にしてろよ」
俺たちは厩舎の馬車に揺られながら辺境で最も栄える商業都市リンドへと向かった。
リンドの街はレースの勝利の噂ですっかり持ち切りだった。
「おい、あいつじゃないか?」
「黒い馬に乗って騎士団を抜き去ったっていう……あいつか?」
通りを歩けば、あちこちから囁き声が聞こえてくる。
「有名人は辛いわね。アメーバに名前がついた程度で大騒ぎだなんて、この街の連中も相当暇を持て余しているらしいわ」
セリアは呆れたように肩を竦めるが、俺を囲もうとする野次馬たちを鋭い視線で追い払ってくれる。その手際はまるで有能なボディーガードのようだ。
「まずはバハムートたちの備品ね」
向かったのは街で一番大きな馬具店だった。店内にはこの世界特有の魔力を帯びた鞍や装飾の施された手綱が並んでいる。
「レンさん、これ見てください! このブラシ魔物の毛を使っていて、とっても毛並みが良くなるみたいですよ。アルカディアちゃんに似合うかなあ」
ミアが手に取ったのはピンク色の小さなブラシだ。俺はそれを手に取り、じっと見つめる。
「いや、こっちの硬い猪毛のやつにしよう。アルカディアは肌が繊細だから、柔らか過ぎるよりは適度な刺激がある方が血行が良くなる。バハムートにはこの幅広のコームがいい」
「ふん、馬のことになると途端に饒舌になるわね。まあいいわ、店主! これとこれ、それからそっちの高品質なエンバクをまとめ買いするわ。端数は切り捨て厩舎への配送料も無料にしなさい。断れば今後この街に広まる勝利の厩舎の噂に、貴方の店の不手際を付け加えてあげるけれど?」
セリアの凄まじい交渉術に店主は顔を引き攣らせながら「承知致しました」と深く頭を下げた。
「流石だな、セリア。頼りになるよ」
「当たり前でしょう? 誰が貴方の金銭管理をしてると思ってるの。感謝するなら言葉じゃなくて行動で示しなさい」
買い物を終えた俺たちは街の中央広場にあるカフェへと腰を下ろした。噴水から上がる水飛沫が日光に反射して、宝石のようにキラキラと輝いている。
「今日は二人にお礼をしたいんだ」
俺がそう切り出すとミアが不思議そうに首を傾げた。
「お礼……ですか? お仕事はもう、たくさんして頂いてますよ?」
「仕事としてじゃなく個人としてだ。あのレース――二人がいなきゃ俺は勝てなかった。セリア、これ」
俺はさっきこっそり隣の店で買っておいた小さな包みを差し出した。
「な、なによこれ爆弾? それとも嫌がらせの手紙?」
セリアは警戒しながら包みを開ける。中から出てきたのは彼女の髪の色によく似た、深い紫色の宝石があしらわれた髪飾りだった。
「貴方、馬鹿じゃないの? こんなもの、ただの無駄遣いよ。大体、私に似合うはずが――」
「似合うと思うよ。さっきの店で髪が風に揺れた時に、それが一番映えると思ったんだ」
俺が真っ直ぐに目を見て言うとセリアは「あ」と声を漏らし、ぱくぱくと口を動かした後、顔を真っ赤にして髪飾りを握り締めた。
「ふん、貴方の絶望的なセンスにしては及第点ね。捨てておくのも勿体ないから着けておいてあげるわ」
「わあ、素敵です! セリアさん、とっても綺麗!」
「う、うるさいわねミア! 貴方も、ほら、貰いなさいよ」
俺はミアにもさっきから欲しそうに眺めていた可愛らしい刺繍が入ったハンカチと特製の甘い焼き菓子を渡した。
「わあ! ありがとうございますレンさん! 私、これ宝物にします! お菓子も半分こして食べましょうね?」
ミアは満面の笑みで俺の腕を抱き締めてきた。柔らかい感触と女の子らしい甘い香りが鼻をくすぐる。
「こら、ミア。あんまりベタベタしないの。この男が調子に乗るでしょう」
セリアが冷たい声で言うが、その手は早速、贈った髪飾りを髪に添えようと不器用にもがいていた。
「ねえ、レン」
デザートを食べ終えて夕暮れに染まり始めた空を見上げながらセリアが静かに口を開く。その声からはいつもの鋭い毒気が抜けていた。
「貴方の乗馬技術……あの泥濘での走りは、もう辺境のレースで収まるようなものじゃないわ。今日、街のギルドで聞いたの。王都で近々『建国記念大賞典』が開かれるって」
俺は黙って次の言葉を待った。
「そこには国中から選りすぐりの魔導馬とエリート騎手たちが集まる。もし貴方があそこを目指すなら私の算盤も今の十倍は忙しくなるわね。どうするつもり?」
ミアも不安と期待が入り混じった瞳で俺を見つめている。俺はカフェのテラスから見える遠い山脈の向こう側――王都がある方角へと視線を投げた。
「俺は騎手だ。一番強い奴がいて一番速い馬がいる場所――そこを目指さない理由なんてないだろ?」
「そう、なら覚悟しておきなさい。王都までの旅費と滞在費、さらにエントリー料。これから死ぬ気で稼いでもらうわよ。まずは明日から厩舎の掃除を三倍に増やすわ」
「ええっ、それは勘弁してくれよ」
「あはは! 私もお手伝いします、レンさん!」
三人の笑い声が夕暮れの街に溶けていく。かつて孤独にターフを駆け抜けていた俺の隣には、今、騒がしくも心地よい仲間がいる。馬と話し心を通わせ共に勝利を掴む。この異世界での第二の人生は、どうやら前世よりもずっと、彩りに満ちたものになりそうだ。
「帰ったらバハムートとアルカディアに報告だな。王都に行くぞってな」
俺たちは沈みゆく夕日を追いかけるようにして、家である厩舎へと馬車を走らせた。
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